장재형목사 설립 WETIA, 세계 복음주의 신학대 네트워크

장재형목사가 설립한 WETIA(World Evangelical Theological Institute Association)가 이번 해에는 첫 번째로 대륙별 교육을 계획하고 있습니다. WETIA는 복음주의 신학기관들을 대표하여 아시아, 미국, 아프리카 등에서 온라인을 통한 효과적인 교육을 위한 공동포럼을 개최할 예정입니다. WETIA는 이미 2014년 11월 20일부터 21일까지 독일 KBA 컨퍼런스에서 유럽 각지의 신학교 관계자들이 참석한 가운데 ‘교육기술 워크숍’을 진행한 경험이 있습니다. 당시 WETIA 디렉터인 워커 … Read more

Le reniement de Pierre et sa restauration – Pasteur David Jang

Au fil de l’examen du texte biblique, nous nous appuierons sur Jean 18.22-27, Luc 22.61-62 ainsi que sur d’autres passages connexes pour étudier en profondeur l’épisode du reniement de Pierre. Nous verrons le message spirituel qui s’en dégage, ses implications pour notre foi et comment nous pouvons en tirer des enseignements pratiques. En outre, nous … Read more

彼得的否认与恢复——张大卫牧师

本篇文章将根据约翰福音18章22-27节、路加福音22章61-62节及相关经文,深入探讨彼得否认主的场景,并借此阐明其中所蕴含的信仰信息和实践应用。我们不仅会思考本文对当代信仰生活所带来的挑战,也会借着对经文背景的解释以及张大卫牧师的牧会性、神学性应用,重新省察此事件对今日信仰团体及个人的启迪。文章中将多次提及彼得否认主这一事件的圣经背景说明,并结合张大卫牧师的教导,思考对当代教会和个人信仰的意义。 1. 彼得的否认 在福音书整体脉络中,彼得否认耶稣的场面可说是最具戏剧性、最引人注目的事件之一。约翰福音18章22-27节、路加福音22章61-62节,以及马可福音14章72节等记载,都生动地呈现了这位被称为“首席门徒”的彼得三次否认耶稣,并在意识到自己的行为后痛哭流泪的场景。先来看经文,耶稣已被捕,正在安纳和该亚法等大祭司面前受审。彼得似乎想坚持跟随在耶稣身旁,但实际上他只是“远远地跟着”,并且“在外面烤火”(参约18:25)。 在这幕场景里,我们能强烈感受到当时周遭人心惶惶、气氛不安的氛围。耶稣被捕后,祂可能很快会以某种罪名被定罪。虽然门徒们都曾立志要紧紧跟随主,但在实际逮捕发生之时,他们全都四散,甚至彼得也只是在远处观望。就在他进入院子烤火之际,周遭仆人或使女盯着他看,并认出他或许是耶稣的门徒:“你不也是祂的门徒吗?”(约18:25)。此时彼得立刻回应:“我不是。” 然而第一轮否认之后,情势并没有结束。其他人根据彼得的加利利口音或外貌,再次质问他(参太26:73,可14:70)。马可福音14章72节记载,当彼得第二次否认后,立刻鸡就第二次叫了。路加福音22章61-62节则描述:“主转过身来看彼得。彼得便想起主对他所说的话:‘今日鸡叫以前,你要三次不认我。’他就出去痛哭。”这一幕将耶稣与彼得眼神交汇的张力与痛楚描绘得淋漓尽致,也印证了耶稣所说“鸡叫之前”这个时间限定内,彼得果真否认了主三次,并且当他回想起耶稣的预言时痛彻心扉,大声痛哭。 在教会历史中,这段经文常被视为最能揭示“人的软弱”与“悔改”的经典场景。事实上,彼得在十二门徒中是最积极、最热血,也最显出对耶稣的爱和忠诚的人(参太16:16-17)。然而在关键时刻,他仍然三次否认主,充分彰显了人性究竟有多脆弱。对此,张大卫牧师在多次讲道和教导中都谈到彼得的否认:“当人所依靠的根基开始动摇时,即使曾自以为信心坚固,仍可能做出软弱的选择;然而主知道人的软弱,也接纳人的软弱,并愿意让人经历恢复。”这信息启示我们,彼得失败之处正是我们每个人都可能失败之处,而同样地,悔改之门也为所有人敞开。 其实,促使彼得否认的最直接动机无疑是“惧怕”。当他靠近耶稣受审的现场时,也许心里想:“若被认出我是耶稣的门徒,会不会也被抓?甚至丧命?”正如同所有人一样,无论平日多么自信自己的信仰,一旦直面死亡或巨大苦难,就会被迫重新评估自己信仰的真实程度。在这个时刻,“彼得的否认”正是“信仰的试炼场”。其实,耶稣在约翰福音13章36-38节里,早已预言彼得会三次否认祂。当彼得自告奋勇地说要为主舍命时,耶稣回答他:“鸡叫以前,你要三次不认我。”所以,这次事件不但是彼得自诩忠诚却跌得灰头土脸的写照,也让我们看见耶稣的话必然应验。 然而,圣经对彼得的否认并非单纯地当作一次失败就置之不理。随着鸡叫声响起,耶稣与彼得四目相对,彼得痛哭并悔改,这些场景暗示着他有机会重新开始。正如路加福音22章31-32节中,耶稣在受难前就对彼得说:“西门,西门!撒但想要得着你们,好筛你们像筛麦子一样。但我已经为你祈求,叫你不至于失了信心。你回头以后,要坚固你的弟兄。”这说明耶稣不但知晓彼得会失败,也预先肯定他终将回转并再次被坚立。张大卫牧师常强调:“彼得的否认并不是终点,而是过程。就像耶稣早已知道彼得会跌倒,却仍然对他的将来有美好的计划,同样,我们的失败或软弱也在主的救恩计划里,可以成为新开始。” 因此,彼得的悔改和随后经历的恢复在教会历史中显得格外重要。因为在《使徒行传》中,他后来确实挺过了撒但要“筛”他的过程。尤其在使徒行传2章圣灵降临之后,他勇敢讲道,带领三千人悔改归主;在使徒行传4章,他又在大祭司安纳和该亚法面前毫无惧色地宣告:“除祂以外,别无拯救;因为在天下人间,没有赐下别的名,我们可以靠着得救。”(参徒4:12)这幅景象与他昔日否认主时的恐惧心态形成了强烈对比,清楚展现了一个“被恢复的门徒”内在的刚强与勇气。 从中我们可以得到非常明确的教训:在我们的信仰生活中,任何人都可能遭遇失败,甚至出于惧怕或软弱而否认深爱的主。然而,那失败并非一切的终结。因为主预先知道人的局限性,也赐下悔改的机会,让我们可以回转归向神。纵使我们在各种考验或诱惑面前“鸡叫之前”就已跌倒,仍能借由真诚的痛哭与悔改再次站立。正如圣经所明示的,这是神赐给我们永不熄灭的盼望。 张大卫牧师一再传递这样的讯息:当人蒙受“悔改的灵”时,就产生决定性的改变。因为这悔改并不仅仅是懊悔或罪疚,而是在人真正俯伏在耶稣的十字架面前时,切身体会祂的饶恕和怜悯。彼得在痛哭的过程中获得新生,从此他的生命方向180度转变,成为奠基耶路撒冷教会的使徒。这真理对今日背负各样十字架或遭受困境的我们,依旧大有力量。 进一步来看,彼得失败后听到的“鸡叫声”,同时也象征“黎明”即将到来。漫漫长夜即将过去,而鸡啼往往预示着晨光初现。对于彼得而言,他的失败让他在破晓时分转向悔改与苏醒。同样,对于我们而言,人生或许也会经历漫长黑夜,但只要留意“鸡啼”,就能相信神会在最深的黑暗里带来清晨的光。那时,我们如同彼得般,因悔改再次仰望耶稣,承认祂早已担当了我们的软弱。 张大卫牧师特别提醒我们,要深思“鸡叫以前”这个耶稣亲口说出的话语。这不仅是时间概念而已,也是在警示:我们无法预测在哪个关键时刻会面对考验,因此平时必须时刻警醒,在神的话语里扎根,并聆听圣灵的带领。有了这种属灵的操练,即使哪天真的跌倒,我们也能再次爬起,将荣耀归给主。 归根结底,彼得的否认乃是“人的软弱与主无限宽容”在同一节点的交汇。主明知道彼得会背叛,却仍以爱包容,并在彼得痛苦悔改之际打开了新路。在人看来,他的三次否认是无法挽回的背叛,但在主的救恩之下,反而成为更大事工与呼召的转机。彼得因着悔改流泪,经历了真正的回心转意,也正是这个经历赋予了他在五旬节圣灵降临后成为极其勇敢见证人的力量。 对我们而言,这段信息极其重要。谁都可能在信仰的路上失败、跌倒,甚至在种种压力中否认主,但这不意味着我们就要沉沦。因为主知道我们的软弱,会敞开那悔改之门。当我们想起各样“鸡叫以前”的试探和逼迫,或许会害怕,但如果真的掉进软弱里,福音为我们指明了另一条路:借着真挚的泪水和悔改,回到主面前。彼得所经历的那份信实,如今同样有效。正如张大卫牧师常提到的,“鸡叫以前”既是信仰的警戒,也是恢复的应许。正因如此,即便软弱会来临,我们仍可以因着悔改再度被建立,并为主的教会和国度做响亮的见证。张大卫牧师将此过程称为“属灵的循环结构”,即“失败—悔改—恢复—完成使命”这一救恩模式,会在每位信徒身上不断重演。 确实,经历否认和跌倒的彼得,后来对人的软弱更具洞察力,也因此能够更好地坚固弟兄。初代教会面临逼迫之时,他并未动摇;他虽在加拉太书2章中因与保罗的冲突而表面上有分歧,但最终仍同心合一地护卫福音。翻开彼得前后书,可以看见他对“苦难神学”和“盼望信仰”的强调,以及劝勉众圣徒要活出圣洁。这些都是他自身软弱与恢复的经历所带来的神学反思结晶。 总而言之,彼得的否认在四福音的叙事里堪称高潮转折,清晰展现了“人的软弱”与“上帝救恩计划”的焦点相遇。当今时代的我们同样会在压力和考验中感到恐惧,甚至逃避或否认主的名。但是,这并非终点,而是透过悔改和痛哭重新经历主恩典的起点。正如张大卫牧师反复强调:“‘鸡叫以前’这个表达,是信仰的警醒,也是重生的应许。”在这应许中,我们纵使跌倒,却能藉由悔改再次站起,最终成为主的教会和国度中勇敢的见证人。 2. 十字架之路 彼得的否认不仅曾是他自己人生中最羞耻的记录,也可能在教会初创时期投下一段阴影。毕竟,他是耶稣所特别宠爱的门徒之一,也是常常在众人面前当代表发言的领袖(太16:16-19中,他也是首先公开宣认“你是基督,是永生神的儿子”的门徒);甚至在耶稣预言自己必须走向十字架时,彼得曾激动地回应“主啊,万不可如此!”可见他的血气之勇。然而最终,他竟三次否认主,这在教会史看来虽极具讽刺意味,却也带给我们深刻提醒。 张大卫牧师从“十字架之路”的角度阐释这一事件,指出耶稣在客西马尼园为即将到来的苦难祷告至汗如血滴(参路22:44),而门徒却在此时睡着,接着逮捕时四散逃离,最后彼得还三次否认主,这些都表明了“人类的无能与灵里的麻痹”。可耶稣早已看穿一切,依然坚定地走上十字架之路,且纵使门徒背叛与软弱,祂的救恩计划依然坚如磐石。这让我们看到,救恩不在于人的能力,而在于主的恩典和主权。 同时,十字架并未将人的失败弃之不顾,而是带来重生的力量。张大卫牧师强调:彼得的否认、其他门徒的软弱,甚至犹大的背叛,都无法阻挡耶稣十字架之爱。十字架之爱是大过所有罪孽和背叛的,这是教会的根本:不是人的刚强先出现,而是神的恩惠先临到;不是人的忠贞先卓著,而是耶稣先牺牲自己。在主复活后,耶稣在加利利海边再次寻找彼得,与他对话三次:“你爱我吗?”(约21:15-17),并让彼得用三次“我爱你”来替代原先的三次否认,用这样极大的恩典将彼得完全更新。 在张大卫牧师常提及的讲道中,这“复活后彼得的恢复”才真正把十字架福音的应用凸显出来:耶稣不仅饶恕彼得的否认,更借由让彼得口里说出三次“我爱你”,抹除那三次“我不认识祂”的否认痕迹。然后耶稣委派他去“喂养我的羊”,使他继续承担使徒的使命。这意味着彼得不再被“三次否认”定义,而是被“三次爱与委派”所重塑。十字架就具备如此复兴与更新的功效,这也正是教会应当展现的“恢复性团体”特质。 换言之,彼得的否认让我们第一看见:若无十字架与复活,人性的软弱终究难以克服;第二,当主复活后主动来找彼得,听他重述对主的爱时,教会便得着榜样,即对那些失败却愿意悔改回来的人,不应是定罪,而应给予医治与重生的机会;第三,彼得后来成为既有胆量又具见证力的领袖,给我们带来盼望:即使曾经最深地跌倒,也能靠主再度被兴起,更能为福音竭力。 正是在这里,张大卫牧师始终强调:“我们都是蒙了恢复恩典的见证人”。耶稣的十字架不只遮盖了彼得的羞愧,更召唤他走上见证福音的新生之路。从福音书末段到使徒行传,我们看到彼得不再退后,反而在极短时间内变得刚强、勇敢,在祭司和百姓面前宣讲救恩(徒2:14起,徒4:8起),为教会奠下基石。这也说明,一个人若被恢复,能带来何等深远的影响,如何在神的计划中大大被用。 我们今天也见到不少与彼得类似的情形。有人口口声声说信耶稣,却在现实处境中屈服于种种诱惑或恐惧,甚至在关系与环境的压力下否认主。然而,若我们真正懂得十字架与复活的福音,就会像彼得那样,因痛哭与悔改再度回到主面前。在那恢复的时刻,主对我们也同样说:“过去的失败或背叛,并不能定义你。我已拣选你,并再次呼召你做我的工人。” 张大卫牧师将此称为“恩典的再次呼召”,这不但包含一次性的赦罪,也同时包括新的托付与使命。就如彼得被吩咐“喂养我的小羊”,保罗被指定为“我所拣选的器皿,要在外邦人面前传扬福音”一样,神在恢复人的同时,也让其进入更大、更新的计划。值得留意的是,这一切都基于神的爱与恩典,而非人的资质和资格。福音书正是以彼得为例,具体展现了这点;教会史也借着无数类似的见证,将“悔改—恢复—作见证”的过程一再印证。 在当代教会面临重重挑战之际,此信息尤显珍贵。教会里外都有可能发生丑闻、分裂、背叛,以至于很多人就此灰心而离开教会。然而,圣经教导我们:即使在这样的失败中,仍能透过真诚悔改而重获新生,甚至将这经历转化为见证十字架福音大能的契机。关键在于,如何营造鼓励悔改与恢复的属灵与群体环境;如何帮助犯罪或软弱者勇于承认并回转,并在真挚的告白与祈祷中获得新使命。张大卫牧师认为,这正是全体信徒共同的使命,而不仅仅是牧者的责任,因为新约圣经指教我们:教会是一群“君尊的祭司”(参彼前2:9)的集体。 因此,彼得在否认主后却踏上的这条“十字架之路”,也成为今日信徒的活教材。失败不是句点,反而是从十字架重新出发的“属灵大逆转”。基督信仰并非只属于从未跌倒、毫无缺点的人,反而是属于那些即便曾深深失足,却仍不放弃,最终借主的十字架悔改、接受主复活大能而继续奔走天路的人。彼得曾在门徒中做了最严重的背叛之一,但却成为主所大大使用、在后世留下宝贵书信遗产的使徒,这正是福音最核心的见证:十字架能让人因悔改获得新生并承担更大使命。 最后,结合张大卫牧师长期宣扬的牧会应用,可将其归纳如下: 这不仅局限于个人信仰,也落实于家庭、职场和社会。当一个人经历过否认主的羞耻,却又尝到主赦免与爱,他就更懂得如何在温柔中帮助他人。正如彼得自身失败后,更能理解恩典的奇妙,并在彼得前书中勉励遭受苦难的信徒:“你们要将一切的忧虑卸给神,因为祂顾念你们。”(彼前5:7)经历过“否认与恢复”的人,往往能在群体中互相劝勉,将各人的软弱化为合一与成长的契机。 归根究底,彼得的否认让我们同时面对两个现实:一是人的恐惧和失败,二是耶稣的慈爱与救赎能力。这也提醒我们,无论我们处在人生何时何地,都有可能像彼得般背叛或否认主,但也同样可以像彼得般重新被恢复。张大卫牧师称之为“十字架福音的核心”,并强调单凭“我爱主”或“我会忠心”这种口头宣誓不能衡量真正的信仰,反倒是当我们真的跌落谷底、仍被主的慈爱所挽回,又能回转奔走时,才真正体现了福音对我们现实生命的意义。 文章将近尾声,再次总结彼得否认主一事所带给我们的教训:第一,即使再忠诚、再勇敢的人,也会在极度考验中否认耶稣。第二,主早已洞悉我们的软弱,并为我们预备了回转之路,这展现了祂的爱。第三,悔改与复兴不仅在于情感上的哭泣或自责,更在于塑造我们成为更成熟的信徒与见证人。第四,教会必须成为“恢复故事”不断上演的地方,彼此搀扶,彼此鼓励。为此,我们需常常警醒祷告,持守神的话,省察自己。第五,我们终将面对主的询问:“你爱我吗?”当我们回答“是的,主,我爱你”时,也将同时受托去“牧养祂的羊”。 在我们的人生中,每个人或许都将面临不同形态的“鸡叫以前”时刻。那时,我们要警醒,勿因人性的惧怕或算计而否认或回避主。即便真的跌倒了,也不必彻底绝望,因为主不会拒绝回头的浪子。就在失败之处,主仍要扶持我们,使我们坚固,并愿意使用我们成就祂的旨意。彼得的否认事件鲜明地展现了十字架福音的核心:张大卫牧师也因此提醒所有信徒,真正的信仰并非永不失足,而是纵使失败也仍能悔改归主,进而继续走在见证福音的道路上。愿我们都抓住这应许,在日常生活里活出这份恩典与盼望。阿们。 www.davidjang.org

ペテロの否認と回復 – 張ダビデ牧師

本文の展開において、ヨハネの福音書18章22~27節とルカの福音書22章61~62節、さらに関連する箇所を土台に、ペテロがイエスを否認した場面を深く掘り下げ、その中に表される信仰的なメッセージと適用点を解き明かしていきます。特に、この本文が持つ意味とともに、私たちの信仰の現場にどのような挑戦を投げかけるか、またそれをどのように実践的な教訓とするかを探っていきたいと思います。一方で、文中にはペテロの否認場面に関する聖書の背景説明、そして張ダビデ牧師が示す牧会的・神学的な適用可能性などにも触れながら、今日の信仰共同体と個人に与えられる示唆を振り返ります。 1. ペテロの否認 ペテロの否認の場面は、福音書全体の流れの中でも劇的な物語を成す代表的な出来事の一つです。ヨハネの福音書18章22~27節、ルカの福音書22章61~62節、そしてマルコの福音書14章72節など、四つの福音書に多様な形で描かれており、「筆頭弟子」と呼ばれたペテロがイエスを三度否認し、その後に激しく泣き出す姿が生々しく記されています。 まず本文を見ると、イエスは逮捕され、大祭司アンナスやカヤパによって尋問を受けておられます。そのとき、ペテロはイエスのそばに最後まで残るかのように見えますが、実際にはかなり離れた場所で「外で火にあたっていた」(ヨハネ18:25) と記録されています。この場面から、人々の視線の微妙な緊張感や不安定な雰囲気が感じ取れます。イエスが捕らえられ、いかなる罪状であれ有罪とされる可能性が高まる切迫した状況でした。弟子たちはイエスについていくと心に決めていたのに、実際に逮捕の瞬間が訪れると皆散り散りになり、ペテロさえも遠くから成り行きを見ていました。 ところが、城内か中庭に入り、火にあたっているペテロに対して、召使いや女中などが彼を注視し、イエスの弟子ではないかと問いただします。「あなたもあの人の弟子の一人ではないのか」と尋ねられたとき、ペテロは即座に「違う」と否認してしまいます(ヨハネ18:25)。ここで最初の否認が起こった後も状況は続き、他の人々も彼のガリラヤ訛りや身なりを根拠に疑いの目を向けます(マタイ26:73、マルコ14:70参照)。ペテロが「あの方を知らない」と否認した瞬間、マルコの福音書14章72節によると鶏が二度目に鳴いたとされます。 さらにルカの福音書22章61~62節では、「主は振り向いてペテロをご覧になった。するとペテロは主の言葉『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』を思い出し、外に出て激しく泣いた」と描かれています。ここで読者は、イエスとペテロの視線が交差する痛みと緊迫感を共有します。同時に、「鶏が鳴く前」という期限内に、結局ペテロが三度も主を否認してしまった事実、そしてそのことに気づいたペテロが深い悔い改めの涙を流したことが、この出来事のクライマックスを形作っています。 信仰共同体の中で、この本文は「人間の弱さ」と「悔い改め」を代表的に示す場面として解釈されてきました。実際、ペテロは弟子たちの中で最も積極的で、時には血気盛んで、イエスへの愛と忠誠が誰よりも強かった人物として描かれています(マタイ16:16-17参照)。それにもかかわらず、決定的な瞬間に主を否認した事実は、人間がいかに弱い存在であるかをはっきりと示す事例です。これについて張ダビデ牧師は、数々の説教や信仰教育の場でペテロの否認を考察し、「人は、自分が頼りにしているものが揺らぐとき、結局は弱い選択をせざるを得ない。しかし、それでも主は人の弱さを受け止め、回復へと導かれるお方である」という核心メッセージを語り続けてきました。このメッセージを通して、ペテロが崩れ落ちた地点は、私たち全員が倒れる可能性のある地点であり、その地点からの悔い改めの道もまた、すべての人に開かれている通路であることを悟るのです。 一方、ペテロが否認に至った動機は恐れだったと考えられます。イエスが裁判を受けている場面の近くにいながら、「もし自分がイエスの弟子として知られたら捕まってしまうのではないか」という不安に陥っていたことでしょう。人間は、どれだけ信仰が深いと自負していても、いざ死や極度の苦痛が目の前に迫ると、自分の信仰の深さを再確認させられます。この場面での「ペテロの否認」は、そのような「信仰の試金石」の役割を果たしています。実際、イエスはすでにヨハネの福音書13章36~38節で、ペテロが「主のために命を捨てよう」と言い張ったときに「鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言うことになる」と予告されていました。したがって、この出来事は忠誠心が強いペテロが想像だにしなかった失敗を経験すると同時に、イエスの言葉の成就がそのまま現れた瞬間でもあったわけです。 しかし聖書は、ペテロの否認を「単なる失敗」として放置しません。失敗直後、鶏の鳴き声と同時にイエスと視線が交わり、ペテロが泣きながら悔い改める姿を通して、彼に再び始まる道が開かれていることを暗示します。ルカの福音書22章31~32節で、イエスは十字架の出来事の前にすでに「シモン、シモン。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。しかしわたしはあなたの信仰がなくならないように祈っておいた。それであなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と語っておられます。これはペテロが失敗することを予見しながらも、彼が再び立ち上がって回復することをあらかじめ宣言していたのです。張ダビデ牧師はこの点を強調し、「ペテロの否認は終わりではなくプロセスだった。イエスが彼をあらかじめ知っていたように、私たちの失敗やつまずきも主の救いの計画の中で新たな始まりとなり得ることを忘れてはならない」と説きます。 このように、ペテロの悔い改めとその後の回復の過程は、教会史の中でも非常に重要な模範的事例となってきました。というのも、「サタンのふるい」にかけられて完全に倒れそうになった彼が、それを乗り越えた様子が、後の使徒行伝において明確に示されるからです。使徒行伝2章で聖霊が下った後、ペテロが大胆に説教し、三千人が悔い改めてイエスを信じるようになった場面、そして使徒行伝4章で大祭司アンナスやカヤパの前でも少しもためらわず「この方以外に救いはない。天の下で人が救われるべき名は与えられていないのだ」と証言して信仰を告白した姿は、否認していたペテロが「回復された弟子」としてどれほど大胆になったかを雄弁に物語っています。 この出来事から私たちに与えられる教訓は明白です。信仰生活において誰しも失敗する可能性があり、一時の恐れや弱さのゆえに、あれほど愛していた主を否認するような決定的な瞬間を迎えることもあるかもしれません。しかし、その失敗が私たちに永遠の絶望をもたらすわけではありません。なぜなら、主は人間の弱さをすでにご存じであり、私たちが悔い改められるように機会を与えてくださる愛のお方だからです。私たちには「鶏が鳴く前」に対峙しなければならない試練や誘惑があるでしょうが、それを経験してもし倒れたとしても、真実な悔い改めの涙をもって再び立ち上がる道が聖書にははっきり提示されています。 張ダビデ牧師は、このようなメッセージを説教やセミナー、そして牧会の現場で頻繁に語り、「神の人は悔い改めの霊が注がれる瞬間から変えられていく」と強調します。なぜなら、悔い改めは単に罪悪感を覚えて終わるものではなく、イエスの十字架の前に自分を完全に差し出し、その赦しと憐れみを体験する出来事だからです。激しく泣いたペテロが得た新しい始まりは、その後の彼の人生と働きの方向を180度変え、エルサレム教会の礎を築く使徒としての歩みへと導きました。それは今日、私たちが背負うさまざまな十字架と苦難の中でも、あるいは私たち自身が失敗やつまずきを経験したとしても、なお有効な真理です。 さらに、ペテロの失敗直後に響いた鶏の鳴き声は「夜明け」を告げる声でもあるという点が象徴的に強調されます。暗く長い夜が続いていても、鶏の鳴き声を合図に朝が訪れるように、ペテロの失敗もまた朝の回復へと向かう転換点となりました。私たちの人生にも厳しい夜のような時期が続くことがありますが、最終的には「鶏の鳴き声」のようなサインを通して神が私たちの闇を打ち破り、新しい日を与えてくださる時がやってくると信仰によって受けとめることが大切です。そのとき、ペテロのように悔い改めを通してイエスを再び見上げ、自分の弱さをすでに背負ってくださったことを悟るのです。 特に張ダビデ牧師は、ここで「鶏が鳴く前」というイエスの言葉を深く黙想すべきだと勧めます。これは単に時刻を示すだけでなく、信仰の決定的な勝負どころがいつどこで訪れるかはわからないゆえ、普段から目を覚ましていなければならないという教訓へとつながるからです。イエスが語られた通りに「鶏が鳴く前」に主を否認しないためには、常に御言葉にとどまり、聖霊の導きに耳を傾け、自分自身を振り返って悔い改める習慣を持たなければなりません。そして、もし倒れても再び立ち上がり、回復した姿をもって主に栄光を帰すことができると、繰り返し強調しています。 結局、ペテロの否認は「人間の弱さと主の限りない赦しが出会う地点」であるとまとめることができます。失敗を見越しながらも愛で包まれた主、そして苦い失敗を経験した後、涙と悔い改めを通して再び使徒として立ち上がったペテロの姿を通じ、私たちは神の救いのみわざと恵みあふれる招きを悟ります。人間の視点から見ると取り返しのつかない裏切りに思えますが、主のうちにあってはかえってさらに大いなる働きと召しに至る「通路」となりました。その恥ずかしさと悔い改めの涙を通して、ペテロは真の回心を経験し、その力でペンテコステ以降、最も大胆な証人へと変えられたのです。 信仰生活の中でこのメッセージを掴むことは非常に大切です。私たちは誰もが「鶏が鳴く前」という決定的な瞬間に直面する可能性があり、さまざまな誘惑や脅威の前でペテロのような恐れを感じ、時には主の名を隠したり否認してしまう失敗を犯すことがあり得ます。けれども、その瞬間が人生の終わりではなく、むしろ涙と悔い改めを通して、もう一度主の恵みと愛を深く味わう転機になり得ることを覚えておきたいのです。張ダビデ牧師がこの本文から繰り返し強調してきたように、「鶏が鳴く前」という表現は信仰の警告であると同時に回復の約束でもあります。その約束のうちに、たとえつまずいたとしても悔い改めによって再び立ち上がり、最終的には主の国と教会のために大胆に献身する場に立つことができるのです。 2. 十字架の道 ペテロの否認は彼の過去に恥をもたらしただけでなく、初代教会が打ち立てられる過程において、一時的に暗い影を落としかねない出来事でした。なぜなら、ペテロは十二弟子の中でも特別にイエスから愛され、多くの場合代表格として言及され(マタイ16:16-19において最初に「あなたはキリスト、生ける神の子です」と告白した使徒)、さらにイエスが十字架へと向かわれる道を語られたとき、「そんなことがあってはなりません」と激しく抵抗するほど血気盛んで積極的な姿を見せていたからです。そうしたペテロが、結局は三度もイエスを否認したという事実は、教会史的な観点から見ると大きなアイロニーであると同時に、重要な教訓を与えます。 張ダビデ牧師はこの出来事を「十字架の道」という観点から解釈し、イエスがゲッセマネで血のしたたるような汗を流して祈られた場面(ルカ22:44参照)とは対照的に、弟子たちは祈らずに眠ってしまい、その後の逮捕の過程で四散し、ペテロの否認へと至った姿を「人間の無力さと霊的な眠り」の象徴的な例として語ります。しかしイエスは、そうしたすべての過程をあらかじめ見通しながら、十字架へと進む決意を固められ、弟子たちの裏切りと弱さの中においても救いの計画を滞りなく成就されました。結局、この出来事は「救いの道」が徹底的に主の恵みと主権によって成り立つという事実を再確認させるものです。 さらに十字架は、人間の失敗を決して放置しません。ペテロの否認を含む弟子たちの弱さや逃亡、さらにはイスカリオテのユダの裏切りさえも、イエスの十字架の愛を阻むことはできなかったと張ダビデ牧師は強調します。十字架の愛は、そのような裏切りや否認を覆ってもなお余りある救いの力を持っているのです。これこそが教会の本質です。人間の弱さが先ではなく、神の一方的な恵みが先であり、イエスの犠牲が先にありました。復活されたイエスがガリラヤの岸辺でペテロを探し求め、「あなたはわたしを愛するか」と三度問いかけ、三度「主を愛します」という告白を聞き取ることでペテロの否認を完全に回復される場面(ヨハネ21:15-17)は、その恵みの頂点といえます。 張ダビデ牧師が説教でしばしば言及するのは、この「復活後にペテロが回復される場面」こそ十字架の福音が具体的に適用される瞬間であるという事実です。イエスはペテロが口にした三度の「否認」を覆し、三度の「愛の告白」で包み込むことで、彼の傷を癒されました。その上で「わたしの羊を飼いなさい」と命じ、ペテロが再び使徒的使命を担うように立たせたのです。過去の「否認」という罪責ではなく、「愛」という告白によって新たにされた存在として生きるようになったわけです。十字架こそがそのような業を成し遂げるゆえ、教会は回復の共同体として存在するべきだ、と張ダビデ牧師は牧会的適用の核心を示します。 つまり、ペテロの否認事件を通して私たちが学ぶべきことは、第一に、十字架と復活なしには人間の弱さを克服することはできないという点です。第二に、イエスが復活後にペテロを直接探し求め、彼の告白を新たに受け止められたように、教会は失敗して戻ってきた人を裁くのではなく、回復と癒しの機会を与える共同体であるべきです。第三に、ペテロが回復された後に大胆な証人になった事実は、私たちにも希望を与えます。ペテロのように失敗の経験があったとしても、再び立ち上がることができ、さらに言えば福音を伝える最前線に立つ証人としての召しを確信できるのです。 ここで張ダビデ牧師は「私たちは皆、回復された証人として生きるべきである」と一貫して強調します。イエスの十字架はペテロの恥を覆っただけではなく、彼を福音の証人として再び派遣されました。福音書の終章や使徒行伝を見ると、ペテロはもう萎縮せず退くこともなく、以前とは比べ物にならないほど力強く、大胆に祭司たちや人々の前で福音を語っています(使徒2:14以下、使徒4:8以下)。そして教会の土台を築く働きに惜しまず力を注ぎました。これは回復された一人の人間がどれほどの影響を及ぼし、神のご計画の中で大きく用いられ得るかを示す好例です。 私たちの時代にも、似たような失敗や否認の経験を持つ信徒は少なくありません。イエスを信じると公言しながらも、実生活の場でさまざまな誘惑や恐れに屈して、主を否認するような結果につながることがあります。職場や学校、人間関係の場でイエスの教えに反する言動をしたり、福音について問われても曖昧にやり過ごして証しする機会を手放してしまうことがあるかもしれません。しかし、十字架と復活の福音を悟った者であれば、ペテロが経験した涙と悔い改めを経て、再び主のもとへと立ち返る道がいつでも開かれていることを知っているはずです。そして、回復のその瞬間に、主は「あなたの過去の失敗や裏切りがあなたの価値を決めるのではない。わたしがあなたを選んだのだ。もう一度わたしの働き人として召す」と語られるのです。 張ダビデ牧師はこれを「恵みの再召命」と呼ぶことがあります。これは単に罪を一度赦してくださるだけでなく、罪を赦すと同時に新しい召しと使命を与えてくださる神の愛を指し示す言葉です。ペテロは「わたしの羊を飼いなさい」との命を受け取り、パウロは「異邦人に福音を伝えるために選ばれた器」として主から示唆を受けたように、神は失敗した者を回復させながらも、なおその者に対する驚くべきご計画を続けて成していかれます。ここで注目すべきは、この召しが人間の能力や資格によるのではなく、神の愛と恵みによるという点です。福音書は、このことをペテロの物語によって劇的に示しており、教会史はこれを手本として「悔い改め―回復―証人」というプロセスを多くの人に適用してきたのです。 さらに現代の教会が直面するさまざまな挑戦の中で、このメッセージは一層重要性を増してきます。教会内外を問わず、スキャンダルや分裂、裏切り、あるいは牧師の失敗や罪が明るみに出るとき、私たちはしばしば落胆し、教会から離れてしまうことがあります。ですが、聖書はそうした失敗の現場においても悔い改めによる回復が可能だと教え、その出来事を通してむしろ「十字架の福音がいかに力強いか」を証しする機会とし得ることを示しています。問題は、そのような悔い改めと回復を可能とする霊的・共同体的な環境を整え、罪を認めて立ち返るように導き、真実な告白によって新たな使命を見出せるように支援する役割を、教会が果たすべきだという点です。張ダビデ牧師は、この使命意識は牧師だけに限られた責務ではなく、すべての信徒が担うべき「共同の職分」だと言います。なぜなら、新約聖書が教えるところによれば、教会は「選ばれた種族、王のような祭司」(Ⅰペテロ2:9) の共同体だからです。 したがって、ペテロが否認後に回復されて歩んだ「十字架の道」は、今日の信徒にとっても生きた手本となります。失敗した道がそこで終わるのではなく、むしろ十字架から新しく出発する「霊的な大逆転」が起こるのです。信仰生活とは、完璧な人だけが歩む道ではなく、たとえ倒れても最後まで諦めず、十字架のもとへ悔い改めて戻り、イエスの復活の力を受けて再び歩き出す者たちの道こそが福音の核心的メッセージです。ペテロは弟子たちの中で最も致命的な裏切りを犯したにもかかわらず、最終的には誰よりも大いに用いられる使徒となり、彼の書簡が後代の教会に残した遺産は、今もなお貴重な勧めと糧を私たちに提供してくれます。 最終的に、ペテロの否認を振り返るとき、張ダビデ牧師が持続的に説いてきた牧会的適用を要約すると以下のようになります。第一に、人間は誰でも弱く、失敗しうる存在であることを認めるべきです。第二に、その失敗の場所で真に悔い改めて立ち返るなら、主は決して見捨てられないという真理にしっかりと目を向けること。第三に、悔い改めの後には新しい召しと使命が待っているので、罪責感や恥に囚われて過去に留まってはならないということ。第四に、教会はこのような回復の恵みをともに享受し、互いを励まし合い助け合う共同体であるべきだということ。そして最後に、回復された証人として生きるとは、究極的には私たちに委ねられた福音を証しする人生を意味します。ペテロが使徒行伝4章で大胆に叫んだ「この方以外に救いはありません。天の下で人が救われるべきほかの名は与えられていないのです」という宣言のように、私たちも世のただ中でイエス・キリストの御名を証しすべきなのです。 このメッセージは単に個人の信仰にとどまるものではありません。悔い改めと回復を体験した信徒は、家庭や職場、社会のあらゆる領域で光と塩として生きていくことになります。イエスを否認した経験のある人ほど、自分がどのように赦されて再び立ち上がったかを体験的に知っているので、よりへりくだった姿勢で他の魂を助けることができるでしょう。ペテロもまた、自身が経験した失敗を通して「恵みの驚き」を知ったからこそ、後に第一ペテロの手紙で苦しむ信徒たちに向かい、「あなたがたの思い煩いをすべて神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(Ⅰペテロ5:7) と励まし、終末的な希望を失わないようにと勧めることができたのです。このように私たち一人ひとりの「否認と回復」の体験は、共同体の中で互いを建て上げる根拠となります。 結局、ペテロの否認事件を通して、私たちは二つの現実に直面します。一つは人間の恐れと失敗、弱さであり、もう一つはイエスの愛と救いの力、そしてそこからもたらされる回復です。どんな時でも私たちはペテロのように倒れる可能性がある一方で、ペテロのように回復へと導かれる可能性にも開かれているのです。張ダビデ牧師は、この真理こそが「十字架の福音の中心」だと呼び、「主を深く愛している」「忠誠を誓う」という言葉だけで信仰を測るのではなく、失敗の後でさえ主の愛によって立ち返り、むしろその回復から再び走り出す信徒の姿こそ、私たちの現実に即した救いの物語なのだと語ります。 この文章を締めくくりながら、ペテロの否認場面が与えてくれる教訓を改めて整理しましょう。第一に、どれだけ忠誠心があり勇猛な信仰者であっても、激しい試練や苦難の前ではイエスを否認してしまうほど弱い存在であるということ。第二に、主はその弱さをご存じであり、倒れた後の悔い改めと回復の道までも備えておられる愛の神であるということ。第三に、悔い改めと回復は涙や感情的後悔で終わるのではなく、私たちをいっそう強固な信仰者、福音の証人へと成長させるということ。第四に、教会は回復の物語が繰り返される場所であり、互いが倒れてはまた立ち上がる過程を経験し助け合い証し合う共同体であるべきだということ。そのために常に目を覚まして祈り、御言葉にとどまり、自分を省みる姿勢が求められます。そして最後に、私たちはいつかペテロのようにイエスの問いかけ、「わたしを愛するか」という問いに答えなければならず、その愛の告白とともに「わたしの羊を飼いなさい」という使命を与えられることになるのです。 私たちは人生の中で、さまざまな「鶏が鳴く前」の瞬間に直面するかもしれません。そのとき、人間的な打算や恐れのためにイエスを拒んだり否認することのないよう、心を守っていきたいものです。もし倒れ、否認してしまったとしても、主は悔い改める者に対して決して門を閉ざされません。失敗したその場所からも、私たちを再び導き、強め、ご自身の国のために用いてくださいます。これこそが「ペテロの否認」に表された十字架の福音の核心であり、張ダビデ牧師が強調してきたように、真の信仰者は最終的に回復され、証人としての歩みを続けられるという約束がここに含まれています。どうか私たち一人ひとりが、この約束にとどまり続ける恵みの人となることを願います。 www.davidjang.org

Peter’s Denial and Restoration – Pastor David Jang

In this exploration, we will delve deeply into the scene of Peter’s denial as recorded in John 18:22-27 and Luke 22:61-62, along with related passages. Our goal is to uncover the spiritual message and points of application revealed by this narrative. We will consider how this passage challenges us in the reality of our faith and how we … Read more

La Negación y Restauración de Pedro – Pastor David Jang

En el desarrollo de este texto, basado en Juan 18:22-27 y Lucas 22:61-62, así como en otros pasajes relacionados, profundizaremos en la escena de la negación de Pedro y extraeremos el mensaje espiritual y las aplicaciones que surgen de ella. Además de la interpretación bíblica, examinaremos qué desafíos plantea este relato a nuestra fe en … Read more

베드로의 부인과 회복 – 장재형목사

본문 전개 과정에서 요한복음 18장 22-27절과 누가복음 22장 61-62절, 그리고 관련 구절들을 바탕으로 베드로의 부인 장면을 깊이 살펴보고, 이를 통해 드러나는 신앙적 메시지와 적용점을 풀어내고자 합니다. 특히 본문이 주는 의미와 함께 우리 신앙의 실제 현장에 어떤 도전을 던지는지, 그리고 이를 어떻게 실천적 교훈으로 삼을 수 있는지를 살펴볼 것입니다. 한편, 글 중간중간에는 베드로의 부인 장면에 대한 성경의 배경 설명, 그리고 장재형(장다윗)목사의 목회적·신학적 적용 가능성 등을 함께 다루어, 오늘날 신앙 … Read more

La Puissance de l’Évangile et le Chemin de la Foi – Pasteur David Jang

1. La puissance de l’Évangile et le sens de « l’homme juste qui vivra par la foi » La prédication du pasteur David Jang à l’Église Gracia de San Francisco, aux États-Unis, s’appuie sur le passage de Romains 1:16-17. Ces versets mettent en avant l’affirmation centrale « Le juste vivra par la foi » et abordent … Read more

福音的大能与信心之路 —— 张大卫牧师

1. 福音的大能与“因信而活”的义人之意义 张大卫牧师在美国旧金山格拉西亚教会所传讲的经文(罗1:16-17)以“惟有义人必因信得生”这一核心经句为中心,深入探讨了罗马书所揭示的福音大能、救恩,以及信心的意义。在他多次强调的“信徒的救恩确据”和“以福音为中心的生活”这一脉络下,这段信息显得尤为重要。罗马书从第1章到第8章所展开的救恩叙事,详细说明了藉着福音所得到的救恩原理,并在第8章到达高潮。然而,综观整卷罗马书,最核心的经句其实正是1章16-17节,特别是“惟有义人必因信得生”可被视为罗马书全篇的主题与结论。这正是保罗对“藉福音而得救恩”的本质所做的高度浓缩宣告,同时也宣示了我们应当以何种态度生活。张大卫牧师也经常引用此段经文,反复强调对福音的自豪与勇敢,以及我们当持守的信心根基。 在保罗陈述这一核心经文之前,罗马书1章1-15节先给出了写给罗马教会的问候,并简要交代了保罗渴望前往罗马的初衷背景。自16节开始正式进入论述,保罗以“我不以福音为耻”的宣告,将福音带来的救恩大能和历史性作为书信的开场主轴。“我不以福音为耻,这福音本是神的大能,要救一切相信的……”(罗1:16)这句话里,浓缩了当时在罗马帝国的现实环境中,信仰举步维艰的处境下,保罗仍要毫不动摇地传扬福音的胆识。彼时的罗马,作为当代最繁盛、最具支配力的帝国之都,其内的基督徒多属于经济、社会、政治地位都相对卑微的群体。类似哥林多教会或罗马教会,都有不少社会地位低下、学识不足,在世人眼光看来并无可夸之处的人。保罗甚至在哥林多前书4章13节将自己和同工们形容为“世界上的污秽,万物中的渣滓”,可见初期教会面临着来自世俗的蔑视、嘲笑和逼迫。 因此,保罗宣告“我不以福音为耻”,正是因为他知道当时社会的上层与智者并不认可福音,甚至耻笑它。然而在保罗看来,福音才是真正能够“拯救一切相信的人”的神的大能。对此,张大卫牧师特别着眼于福音本来就会在世界权贵和智者眼中显得“愚拙”的原因。正如使徒所说,“因为十字架的道理,对那灭亡的人为愚拙,对我们得救的人却为神的大能”(林前1:18),福音的本质运作在与世人引以为傲的成就和功劳完全不同的层面。世人重视权势、财富、学识或个人成就,但福音的起源与目标却全然不同:耶稣基督被钉十字架,借着祂的死来拯救罪人,为所有人敞开救恩之门——这是超越人类能力与功劳的恩典与爱。因此,保罗在哥林多前书1章发出“智慧人在哪里?文士在哪里?世上的辩士在哪里?”的呼喊,是为了强调人的智慧和努力无法解决罪的根源。 张大卫牧师在阐述福音信仰时,也始终与此观点相通。他说,福音是“完全基于神的爱与主权决定的恩典”,人若试图靠自我努力在神面前称义,必然会遭遇明显的局限。最终,人只能凭着相信基督的爱与代赎,才能走出罪的枷锁。正是这种信心成为通往自由的钥匙,“因信称义的人将得永生”。任凭罗马帝国如何强盛,世俗价值观如何耀眼,终究都要在神的审判之下,唯有藉福音才能得救。保罗对这一事实深信不疑,这便是“我不以福音为耻”的属灵根基。 接下来在罗马书1章17节,保罗继续说道:“因为神的义正在这福音上显明出来,这义是本于信,以至于信,如经上所记:‘惟有义人必因信得生。’”这节经文不仅是罗马书的核心,也是整个新约神学中常被反复引用的要点。福音里“神的义”并非由人类行为表彰,而是彻底基于神的救赎事件,并在耶稣基督的十字架与复活中得以证实。我们知道,“耶稣”这个名字本身就蕴含“耶和华拯救”的含义。也就是说,耶稣的十字架是罪人得以称义的独一方式,而福音则宣告了这替罪的死亡与复活之爱,公平地赐给一切相信的人。 张大卫牧师特别强调罗马书3章21节以后保罗所提到的“但如今神的义在律法以外已经显明出来”,说明人试图遵守律法称义的道路已经被封闭。旧约时代虽能通过律法在某种程度上了解神的旨意和标准,但同时也让人明白自己无法完全遵行律法,从而意识到罪的严重性与沉重的刑罚。律法在一定意义上是面镜子,让我们看清何为罪,且揭示“罪的工价乃是死”的可怕后果。然而,福音却宣告:耶稣在十字架上完全担当了这律法的咒诅与刑罚,所以罪人如今可以“白白地称义”。而我们能够抓住这救赎的途径,就是“信心”。这种信心不只是理性上的认同,而是带有意志决断的整体委身——将自己完全交托给基督的功劳,并愿意顺服和敬畏那赐下救恩的爱。 “惟有义人必因信得生”还源自旧约哈巴谷书2章4节的预言性宣告。当时面对巴比伦强盛的入侵和犹大王国岌岌可危的灭亡局面,神应许会保守“剩余的子民”,表明尽管外在的世界混乱、审判临近,但那些“因信而活”的人,终究要蒙神拯救。保罗将哈巴谷先知守望楼上向神呼求的那句“义人因信得生”的旧约宣告引入新约时代,强调即便外表看似世界在灭亡、帝国的压力越发强大、教会受逼迫,但最终能够存留到末了并拥有永生盼望的,还是那些因信而活的人。“惟有因信”这表述便是当时教会社群信心的轴心,也是他们在患难中不会动摇的信仰支柱。 对保罗而言,“义人”指与神恢复“正确关系”的人。有些译本将“义”翻译为“与神之间的正当关系”,意在强调人类在亚当犯罪后,罪性与死亡的律使我们远离神;而救恩便是重新回归到神面前的正当关系。此种福音性的关系恢复,在神学上被称为“因信称义”——借着耶稣基督的十字架大爱,将罪的问题彻底解决,我们凭信就能领受。张大卫牧师基于这样的神学认识,强调耶稣基督的十字架之爱是解决人类罪性的关键事件,我们所当做的就是凭信心接受这恩典。此信息不仅涉及个人的救恩,也延伸到教会为何存在,以及在社会中当负的责任。“惟有义人必因信得生”意味着信徒不只是停留于个人层面的罪得赦免与救恩喜乐,更要在世界中见证福音救恩的大能。同时也清楚说明,人绝无法靠行为得称义,因为凡人都软弱无能,在神面前只能承认自己是全然的罪人。故此,真正的救恩根基不在人的行为,而在耶稣基督的公义与慈爱上。 保罗在以弗所书2章8节也明确指出:“你们得救是本乎恩,也因着信,这并不是出于自己,乃是神所赐的。”若我们细细观察得救的过程,可知一切都出自神主动的爱,而人只不过是伸手领受这白白恩典而已。犹太人所遵守的割礼或律法,希腊人所崇尚的智慧与哲学,罗马帝国引以为傲的权势与荣耀,全都无法从根本上解决罪的问题。只有那被钉十字架并复活的耶稣,为罪人与神之间开辟了和好的道路。因此,福音毫无疑问是“神单方面施予的恩典”,我们所要做的,就是“凭信心”去领受。 保罗之所以如此高声宣扬“我不以福音为耻”,也和初代教会信徒所面临的严峻社会压力息息相关。罗马掌权者把基督教视为对罗马传统宗教体系或皇帝崇拜的威胁,而民众则嘲讽被钉十字架这种羞辱刑罚的耶稣,却被称作“神”或“救世主”。因此,传福音者必须承受嘲弄和逼迫。但无论是保罗还是张大卫牧师这一类传道者,都确信福音是所有人唯一且大有能力的“生命之道”。张大卫牧师经常在主日讲道或圣经讲解中,再三强调“因信而活的义人绝不会蒙羞”。他认为,只要真正体认到福音所蕴含的“救恩大能”,就会引以为荣,而非以它为耻。 最终,“惟有义人必因信得生”既是信心的起点,也是到达终点的方向。“本于信,以至于信”这句在保罗的话中不仅意味着人首先要“因信”抓住基督的十字架救恩,也暗示这信心将传递给他人,使教会群体在信心中不断扩展。信心虽是个人的决断,同时也在教会里循环、拓展、成长。正是藉着主宝血而开始的福音,经由使徒传开,又经无数圣徒传播,如今延续至我们眼前,这背后正是信心的历史。张大卫牧师也强调,福音的传播绝不仅是口头劝说或教义传授而已,而要伴随实际的爱与奉献,也就是“生命的见证”。因信称义之人当在社会中行义,亲身实践福音的生命力。这样,信心会从这代传到下一代,在不断的延续中见证福音的力量。 保罗说“要救一切相信的”(罗1:16),并特别指出“先是犹太人,后是希利尼人”,表明救恩并无差别或偏袒。犹太人因是蒙约之民而先得救恩,但随后福音也传给了“希利尼人”(泛指外邦人),凸显了福音之普世性。对此,张大卫牧师强调“在神面前,不分种族、社会地位、文化背景,也不分过往任何错误,都无法阻挡人得救”。唯有“拒绝在信心中接受救恩”的顽固和“不肯认罪悔改”的骄傲,才会使人把自己关在救恩门外。 由此可见,本小标题的要义在于:罗马书1章16-17节所宣告的福音大能,是这世上任何权势或智慧都无法替代的“永恒且全能的救恩通道”,这正是“因信称义之人唯一的盼望”。保罗用“我不以福音为耻”引领罗马书的正式开篇,正是要在当时社会的轻视与逼迫之下,为初代教会点燃一把“生命的火焰”。同样,张大卫牧师的牧会重心,也与这“福音的大能、义人的生活、信心的价值”紧密相连。“惟有义人必因信得生”无论对过去、现在,还是未来,都是教会必须牢牢持守的核心真理。 2. 因信而活的生命 接下来,在第二部分,我们来探讨保罗在罗马书1章16-17节中所强调的“福音大能”与“因信称义的救恩论”,如何与当代教会和信徒的现实生活相连接,并结合张大卫牧师的牧会视角进行反思。尤其是张大卫牧师在宣教前线以及多样化的牧会现场,反复提及“因信而活的义人”应当如何具体地生活,并论及这对当代社会各种问题具有何种突破力量。 首先,我们要思考福音的“救恩能力”如何向教会内部、以及向外在世界彰显。正如保罗所言,福音乃是“神的大能,要救一切相信的”。那么,在教会内部,信徒彼此相处时;以及对外,教会与社会发生连结时,福音究竟如何被“实践”出来?张大卫牧师强调,教会必须先牢固建立自己“因信得救之群体”的身份。这不仅仅是一群共同信仰的人聚在一起,而是“在基督十字架下蒙赦免、彼此接纳、彼此服侍、彼此相爱的有机体”。因为我们蒙受的饶恕与大爱何其浩大,所以我们也能无条件地饶恕与爱周围的人。这种认识必须深深扎根于教会群体之中。 为达成这一点,张大卫牧师指出,“以神的话语和祷告为核心的团契”至关重要。若想让信心不止停留在教义层面的认同,而能真正改变人心与生活,则需要在神的话语和祷告中经历圣灵的光照。当一个信徒无法明白自己真正领受了何等恩典,教会生活就很容易沦为宗教习惯或形式。然而,当我们通过读经、聆听讲道、深入默想并藉着祷告经历神的同在,就会切身体会到福音是“实实在在令我活过来的能力”。这样的信心在教会中生根后,内部就能彼此建立、彼此安慰,而对外则能承担向世界宣教的使命。 此外,张大卫牧师一贯强调,“福音就是生命力”。这种“生命力”指的是从“死到生”的重大转变,不仅涉及肉体生死,更关乎灵魂命运的改观。若教会缺失了这股生命力,信仰就会软弱无力,徒留组织化的宗教活动。因此,他常呼吁“教会不要只沉溺于各样事工、活动、项目等外在形式,而要先紧紧抓住福音本身所具有的生命力”。特别要记住“惟有义人必因信得生”这一真理,将个人的属灵生命和教会的属灵活力建立在福音的根基上。 在当代社会成为基督徒,需要面对各种挑战:科学技术进步、物质主义、价值观相对化、道德混乱等,这些都使教会不可能只做“舒适的避难所”。张大卫牧师在讲道与研讨会中多次指出,信耶稣就意味着“走上与主同钉十字架的道路”,而传扬被钉十字架的基督,对某些人而言或许是“绊脚石”,对另一些人来说或许是“愚拙”(参林前1:23),但也正因如此,福音才提供“新道路”。十字架所象征的牺牲与爱有别于世俗的智慧或权势,它超越人的局限,带给人内在真正的复原与盼望。 例如,当代人普遍遭受孤立感、疏离感、不安、抑郁,甚至自杀冲动等,这些问题并非经济富足或信息爆炸就可解决。事实上,这些心理、情感危机常常根植于灵魂深处的匮乏。张大卫牧师在辅导事工与医治特会中,谈到“只有福音才能带来真正的医治”。人若藉着信心接受耶稣的爱,意识到自己乃是“神的儿女”并且“被称为义”,就会由衷地产生对生命的底气与盼望。人的自尊与价值感,不是建立在“我做成了什么”上,而是确立于“我在神面前是谁”。当我们既看见“自己是何等的罪人”,又看见“神竟为这样的罪人舍了独生子”,便能真正走向康复之路。 张大卫牧师将其称为“福音的内在化应用”:不仅停留在“因罪得赎”这样的神学层面,或“信了就能上天堂”的口号,而是让福音在我的内心深处带来根本转变,使我重新定位与人、与世界的关系。这样灵魂被医治并在神面前重建之后,我们在家庭、职场、校园、社会等各样场合中,也会结出福音的果实:从过去对情欲与私心的放纵,转变为对爱与服侍的追求;从对金钱、权力的贪恋,转向关爱邻舍、舍己的行动。这正是“因信而活的义人之路”。信心不只是一句宣言,也必然结出善行与果效。 在保罗的神学中,信心绝不意味着“行为缺位”。诚然,我们不因行为得救,但真信心必然带来善行。罗马书后半部(12-15章)保罗便详述教会伦理与德行,以及对世上执政掌权者当有的态度、对邻舍的爱和对软弱者的照料等。这一点在张大卫牧师的牧会理念中也同样重要。他鼓励信徒抓住福音的核心,效法耶稣所展现的爱与牺牲,并在自身所处的环境中作“好撒玛利亚人”。因此,“我不以福音为耻”不仅是教会中高声呼喊的口号,更是要在社会各处以真理与爱践行的决心。 同时,“我不以福音为耻”在当今多元化社会中,绝非要求我们采取一种不假思索的武断姿态,向所有人强行灌输基督信仰。反之,福音本质上是关乎“罪得释放、死转为生的能力”,它不是居高临下的“进攻”,而是满含“邀请”和“委身”的语言。十字架本属羞辱与嘲讽的记号,却因耶稣的甘愿担当,而成为罪人得以享受永生与爱的钥匙。张大卫牧师在面向不同世代、不同文化背景传福音时,强调务必“不要破坏福音本身所蕴含的爱之力量”,在与不信者沟通时,要理解并聆听他们的苦楚处境,才能传递那“你我都是罪人,却因耶稣十字架得以饶恕、获得新生”的核心信息。 当代教会有时被批评陷入功利主义或物质化,亦或在政治立场上走极端,导致福音纯粹性受损。保罗当年向犹太人和希腊人传福音时,坦言“神乐意用人所当作愚拙的道理拯救信的人”(林前1:21)。同理,今日的教会也应当以谦卑服事的姿态传扬福音,而非倚靠外在规模或财力去博取世人的认可。张大卫牧师强调,与其执着于教会外在“宏大”或“富足”,不如更多关注教会“有多少‘十字架’的色彩”,以及“是否真正实践了救恩的福音”。如此才能成就一批“因信而活的义人”,使他们成为“世上的光和盐”。 综上所述,如今因信而活的基督徒生活,关键在于把耶稣十字架之爱与复活大能,真实地体现在当下。实现这一点,需要我们在神的话语与祷告中辨明真理,并在教会里彼此联结、在社会中谦卑地实践基督的道。正如保罗引述旧约“义人因信得生”并在罗马帝国中心大胆宣告那样,张大卫牧师也在当今纷繁复杂的时代,坚持宣扬“福音才是我们终极的盼望与真理”。这福音不仅更新个人,也更新教会,进而在世界中打开一条充满爱与和解的道路。 因此,罗马书1章16-17节不只呈现了救恩论的精髓,也为教会论与伦理奠定了基础。张大卫牧师在多次讲道、著作和查经中,细致地阐述这一段经文。他所阐释的保罗信息的核心可归纳为一句话:“唯有活在信心中的人,才能真正享受自由与生命的喜乐。”从世人角度看,软弱与愚拙之人、或被帝国边缘化的人,却能凭着信心参与到神的救恩历史之中,从初代教会一直到现今时代,都成为基督徒极大的鼓舞与安慰,也成为对世界发出的使命与勇气之源。 历史早已证明,“无论罗马当初多么辉煌,也终究没有永存”;相反,那些因信而活的义人的见证,却跨越了两千年的时光,至今仍在教会历史和信徒生命中延续。这正是福音所拥有的“超越时空之能力”。张大卫牧师透过不同的场景——主日崇拜、宣教工场、牧养辅导、神学院讲坛等,不断阐明并应用保罗这振奋人心的宣告,也帮助无数基督徒拥有不动摇的“福音自豪”。归根到底,“因信而生”是我们的身份,一旦拥有这信心,就无论面临怎样的逆境,也决不会失去盼望。对所有走在信心道路上的人而言,正如张大卫牧师所强调,福音绝不是羞耻,而是我们的荣耀与生命拯救的能力,更是教会在世上成为光盐的力量所在。 直至今日,各式各样形形色色的“罗马帝国”仍然存在:物质极大丰富、技术高度发达、文化多元,却也隐含了道德混乱与灵性空虚。在这样的时代处境下,教会与信徒的任务依旧如初:不以福音为耻,大胆宣告福音是“神拯救一切相信之人的能力”,并以生命予以见证。当我们“唯独凭信”抓住此道时,便能如同先知哈巴谷与使徒保罗所宣告的“虽遭不测,却不至灭亡;终必得救,且承受神国”。按张大卫牧师的牧养理念,这绝不仅是头脑理论,而是所有信徒皆可经历并享受的福音之大能。 通过上述两部分,我们对罗马书1章16-17节所昭示的福音大能与义人的信心有了整体认识。保罗以“我不以福音为耻”来回应罗马帝国,并高举十字架救恩的重大意义;并指明耶稣基督的牺牲就是神的义。随后,又以张大卫牧师的牧会应用为核心,思考当代教会与信徒“因信而活”的现实实践。归结起来,“惟有义人必因信得生”的宣告,自初代教会以来,一直是教会至关重要的信仰堡垒。它不仅关乎个人救恩和教会的身份,也关乎在世上承担宣教使命的动力。正如张大卫牧师所不断提醒,福音对于我们而言绝非可耻之事,而是一份荣耀、能救活人心的力量,亦是教会能够在世上活出光与盐身份的根基与源泉。愿我们永不忘记这一点。愿所有在信心道路上的人,坚守这福音并结出丰盛的果实。正如保罗所说,唯有基于福音的大能,我们才能“不至灭亡,反得永生”,并在今生和永恒里同行在神的恩典之中。

福音の力と信仰の道 – 張ダビデ牧師

1. 福音の力と「信仰によって生きる」義人の意味 張ダビデ牧師がアメリカ・サンフランシスコのグラシア教会で語った本文の御言葉(ロマ1:16-17)は、「しかし義人は信仰によって生きる」という核心句を中心に、ローマ書が提示する福音の力と救い、そして信仰の意味を深く取り扱っている。この御言葉は、張ダビデ牧師の牧会的視点の中でも非常に重視されており、彼が繰り返し強調してきた「聖徒たちの救いの確信」と「福音中心の生活」というテーマと緊密に結びついている。ローマ書1章から8章まで続く救いの叙事は、福音による救いの原理を説明し、8章でその頂点を迎える。しかし、ローマ書全体を貫いて見たとき、最も中心的な要節といえるのはまさに1章16-17節であり、とりわけ「しかし義人は信仰によって生きる」という言葉が、ローマ書全般の核心テーマであり結論だと言ってよい。これは、パウロが福音によって得られる救いの本質とは何であり、私たちがどのような態度で生きるべきかを示す圧縮された宣言である。張ダビデ牧師もこの本文を頻繁に引用し、福音に対する誇りと大胆さ、そして私たちが備えるべき信仰の根拠がどこにあるのかを絶えず強調してきた。 パウロがこの核心句に至る前、1章1-15節ではローマの信徒たちへの挨拶とともに、なぜローマに行こうとしているのかという序論的背景が提示される。16節から始まる本格的な叙述において、パウロは「私は福音を恥じない」と宣言することで、福音がもたらす救いの力と歴史を手紙の全面に示している。「私は福音を恥じない。福音はユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じるすべての人にとって救いをもたらす神の力である」(ロマ1:16要旨)という文言には、その当時、信仰を守ることが容易でなかったローマ帝国の現実の中でも揺らぐことなく、福音を伝えようとする使徒の大胆な宣言が凝縮されている。当時のローマという都市は、当代最高の繁栄と支配力を誇る帝国の首都であり、そこに散在していたキリスト者たちは経済的・社会的・政治的に下層民である場合が多かった。実際、コリント教会もローマ教会も社会的地位が低く、学識に欠け、世の基準からすれば誇れるものがあまりない人々が大半であった。パウロは第一コリント4章13節で、自分や同労者たちを「世の屑、万物のかすのよう」と描写するほど、初期のキリスト教共同体は世から蔑視と嘲笑、迫害を受ける状況に置かれていた。 したがってパウロが「私は福音を恥じない」と宣言したのは、福音が当時の社会で支配層や知恵ある者たちに受け入れられず嘲笑の的にされている現実をよく知りつつ、それこそが「信じるすべての人を救う神の力」であると確信していたからである。張ダビデ牧師はこの点で、そもそも福音が世の権力者や知恵者の目には愚かしく見えざるを得ない理由に注目する。それは「十字架の言葉は、滅びる者には愚かであるが、救いを受ける私たちにとっては神の力である」(1コリ1:18)という使徒的宣言が示すように、福音の本質が世の自慢や人間の功績とはまったく異なる次元で働くからである。世は権力や財力、学問的知識、あるいは個人の業績を重んじる。しかし福音はまったく異なる起源と目的をもつ。イエス・キリストが十字架にかかり死なれることで罪人を救い、すべての人に救いの道を開くという超越的な恵みと愛から始まるのである。だからこそ第一コリント1章でパウロが知恵者や論争家に向かって「彼らはどこにいるのか。神は世の知恵を愚かにされたではないか」と叫ぶのは、人間の知恵や努力だけでは罪の根源を解決できないことを指摘するためであった。 張ダビデ牧師が説く福音信仰の強調点も、これと軌を一にする。彼は福音が「全的に神の愛と主権的決定に基づく恵み」であることを述べ、人が自力で義となろうと努力しても限界があることを示す。結局、人間にできる唯一の道は、キリストの愛と贖いを「信仰によって受け取ること」しかない。この信仰こそが罪の束縛から解放される鍵であり、最終的に「信仰によって義と認められた者は永遠に生きる」という確信へと至るのだ。どれほどローマ帝国が強盛であっても、どれほど世の価値が輝いて見えても、究極的にすべては神の裁きの下にあり、ただ福音を通してのみ救いに至ることをパウロは確信した。これこそが「私は福音を恥じない」という言葉の霊的根拠である。 続いてパウロはローマ書1章17節で「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に至らせる。『しかし義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりである」と述べる。この節はローマ書全体のみならず、新約神学全体の中でもきわめて重要な一節としてたびたび引用される。福音の中には「神の義」があり、その義は人間の行いによって示されるのではなく、あくまで神の救いの出来事として、イエス・キリストの十字架の死と復活によって確証される。私たちがよく知っているとおり、「イエス」という名自体、「神は救いである」という意味を含んでいる。つまりイエス様の十字架は、罪人が義とされることのできる神の唯一無二の手段であり、福音とは、この贖いの死と復活の愛が、信じるすべての人に「公平に」与えられるという喜ばしい知らせなのである。 張ダビデ牧師はローマ書3章21節以下でパウロが語る「しかし今や律法とは別に、神の義が示された」という言明をとりわけ強調するが、これは人間が律法を守ることで義とされる道が閉ざされていることを告げている。旧約時代の人々は、律法を通して神の望まれる基準や御心をある程度は知ることができたが、同時に、自力でそれを完全に守ることができない自分に気づいた。律法は結果的に、私たちに罪とは何か、罪の代価がどれほど重いかを示す「鏡」のような役割を果たし、最終的には「死」と「裁き」の恐怖をもたらす。しかし福音は、その律法の呪いや罰をイエス様が十字架の上で完全に負われたことを宣言する。だからこそ罪人が「価なしに義と認められる」救いの道が開かれ、そこに至る通路が「信仰」なのである。この信仰とは、単に知的同意ではなく、イエス・キリストの功績に自分の人生すべてを委ね、その方が施された救いの愛に生きようとする意思的決断も包含している。 「しかし義人は信仰によって生きる」という句は、旧約のハバクク2章4節に現れる預言的宣言を新約時代へと持ち込み、バビロンの強力な侵略とユダ王国の滅亡の危機にさらされながらも、「ついに残される者」を守られる神の保護と救いを説明するものである。このようにハバクク預言者が物見やぐらで嘆願したように、「義人はその信仰によって生きる」という旧約の宣言をパウロは福音の時代に拡大させたのだ。外面的には世が滅んでいくように見え、裁きを受け、帝国の圧迫が強まって教会が迫害を受けるように見えても、最後まで信仰によって生きる者は最終的に救いを受け、永遠の望みを得る。そういう意味で、「ただ信仰によって」という言葉は、教会共同体の確信であり、患難の中でも揺るがない信仰の拠り所であった。 パウロにとって「義人」とは、神との「正しい関係」を結んでいる人を指す。共同訳聖書などで「義」を「神との正しい関係」と訳しているのも同じ文脈である。アダムの堕落以来、人間に入ってきた罪性と死の法則は、人を神から遠ざけた。ゆえに救いとは、神の御前に再び正しい関係へ回復することにほかならない。この福音的な関係回復が、神学的には「信仰による義認」と要約される。張ダビデ牧師もこの神学的理解を前提に、イエス・キリストの十字架の愛こそが人間の罪の問題を解決する決定的な出来事であり、私たちはその出来事を信仰によって受け取らなければならないと力説する。このメッセージは個人の救いにとどまらず、教会の存在理由や社会的責任にも拡張される。「信仰によって生きる義人」とは、信仰者がただ自分の罪の赦しと救いの喜びを享受するだけでなく、世の中で福音がもつ救いの力をあかしして生きなければならないことを前提にしている。さらに、「行いによっては決して義とされない」という点を明確に示してもいる。なぜなら、人は皆弱く、神の御前には完全な罪人だからである。結局、人間の行いではなく、イエス・キリストの正しさと愛が救いの土台なのである。 パウロはエフェソ2章8節でこれを「あなたがたは恵みにより、信仰によって救われた。これは自分自身から出たものではなく、神の賜物である」と表現する。人が救われる過程をよく眺めれば、すべてが神の能動的な愛から始まっており、人はただ手を差し伸べてその賜物を受け取るだけなのだ。ユダヤ人が行っていた割礼や律法を守る努力、ギリシア人が追い求めた知恵や哲学的探究、ローマ帝国が誇る権力や栄光、そのいずれも罪の問題を根本的に解決することはできない。十字架で死に、復活されたイエス様だけが、罪人を神と和解させる救いの道を開いてくださった。したがって福音は疑いようもなく「全面的に神の一方的な恵み」であり、私たちがなすべきことは、その恵みを「信仰によって」受け入れることなのである。 パウロがここまで「私は福音を恥じない」と力強く叫ぶ背景には、初代教会のクリスチャンたちが直面した極度の社会的圧迫があった。ローマの権力者たちはキリスト教を、ローマの伝統的信仰体系や皇帝崇拝を脅かす集団とみなし、民衆も十字架刑という恥ずべき刑罰で死んだイエスを「神」や「救い主」と呼ぶこと自体を途方もない話だと考えていた。ゆえに福音宣教者たちは嘲笑と迫害を甘んじて受けなければならなかった。しかしパウロや、張ダビデ牧師のような福音伝道者たちは、福音だけがすべての人に与えられる唯一にして強力な「いのちの道」であることを疑わなかった。とりわけ張ダビデ牧師は、主日説教や聖書講解で、信仰によって生きる義人が決して恥を受けることはないという確信をたびたび表明してきた。彼は福音がもつ「救いの力」を胸深く悟った人ならば、むしろ福音を誇りに思わざるを得ないと説くのである。 結局、「しかし義人は信仰によって生きる」という御言葉は、信仰の出発点であり到達点でもある。パウロが言う「信仰から信仰へと至らせる」という表現には、まずは主が十字架で成し遂げてくださった救いの出来事を「信仰によって」つかみ、その信仰がまた別の人へと伝わり、教会共同体が絶えず信仰のうちに広がっていくという意味が込められている。信仰は個々人の決断であると同時に、教会共同体の中で循環し、拡張し、成長していくものなのである。キリストの尊い血によって始まった福音が、使徒を通じて伝えられ、多くの聖徒を経て今に至るまで続いてきたのも、まさに信仰の歴史である。張ダビデ牧師は、このような福音の伝播が単なる言語的説得や論理的教理の教授にとどまらず、実際的な愛と献身を伴う「生活の証し」でなければならないと強調する。すなわち、信仰によって救われた者たちは世の中で義を行い、福音のもついのちの力を身をもって実践しなければならない。こうして信仰からまた別の信仰が、世代から世代へと継承され、福音が絶えず証しされるのである。 パウロが「すべて信じる者に救いをもたらす力」と述べる福音は、決して少数のエリートや特定の民族だけに限られたものではない。ローマ書1章16節後半で「まずはユダヤ人、それからギリシア人にも」と語るのは、救いの恵みに差別がないことを明確にするためである。ユダヤ人は契約の民として選ばれたゆえに、まず彼らの間に救いの働きが及んだが、続いて「ギリシア人」、すなわち異邦人にも福音が拡張された。このように「分け隔てのない救い」こそが福音の包括的な力である。張ダビデ牧師はこれを指して、「神の御前では人種、社会的身分、文化的背景、過去のいかなる過ちも、救いを妨げることはない」と力説する。ただし、「信仰によって与えられた救いを受け取らない」頑なさや、「自分の罪を認めず悔い改めない」高慢だけが、救いの道を自ら閉ざすのである。 総括すると、第1小主題の核心は次のとおりである。ローマ書1章16-17節が宣言する福音の力は、この地上のどのような権勢や知恵によっても代替されることのない「永遠にして全能の救いの通路」であり、それこそが「信仰によって義とされた者たちの唯一の望み」であるという事実である。パウロが「私は福音を恥じない」という言葉でローマ書を本格的に始めたのは、初期教会が置かれた社会的蔑視のただ中でも決して消えない「いのちのともしび」を彼らの間に植えつけるためであった。そして張ダビデ牧師の牧会的強調点もまた、この福音の力、義人の生き方、信仰の価値に通じていることが再確認できる。「しかし義人は信仰によって生きる」という御言葉は、過去にも現在にも、そしてこれから来る未来においても、教会がしっかりと握り続けるべき核心の一節なのである。 2. 信仰によって生きる生活 では、第2小主題として、パウロがローマ書1章16-17節で強調した「福音の力」と「信仰によって義とされる救いの教理」が、今日の教会と聖徒たちの実際の生活とどのようにつながるかを見ていき、これを張ダビデ牧師の牧会的視点とあわせて考察してみよう。特に張ダビデ牧師は宣教の最前線や多様な牧会の現場で、「信仰によって生きる義人」が具体的にいかなる生活を送るべきか、またそれが現代社会のさまざまな問題をいかに突破していく力となるのかをたびたび説いてきた。 まず、福音がもつ「救いの力」が教会内部と外部に向けてどのように発現されるべきかを考える必要がある。パウロの言うとおり、福音は「すべて信じる人にとって救いをもたらす神の力」である。それならば教会内部で聖徒たちが互いに接する際や、外部で世と関わる際、この福音がどのように適用されるのか。張ダビデ牧師はまず、教会が「信仰によって救われた者たちの共同体」というアイデンティティを堅固に打ち立てるべきだと力説する。それは単に同じ信仰を告白する人々の集まりではなく、「キリストの十字架のもとで罪の赦しを受けた者たちが、互いに受け入れ、仕え、愛し合う有機体」という意味である。「私が受けた赦しと愛があまりにも大きく、決定的なものであるがゆえ、私も他者を無条件に赦し、愛することができる」という悟りが、共同体の内に深く根づかなければならないというわけだ。 そのために張ダビデ牧師は、「御言葉と祈り中心の交わり」が不可欠だと語る。信仰が単に教理に対する認知的確信にとどまらず、実際の生活を変革していくためには、御言葉による聖霊の照らしと祈りの後ろ支えが必要だからである。神から賜わった恵みに気づかないまま教会生活を送るなら、信仰は単なる宗教的習慣や形式へと陥りやすい。だが聖徒が御言葉を読み、説教を聞き、深く黙想し、祈りを通して神の臨在を体験すれば、福音が「実際に私を生かす力」であることを経験する。そのように信仰の根を下ろした教会共同体は、内にあっては互いを励まし合い、慰め合い、外に向かっては世の痛みや苦しみを包み込む宣教の使命を果たすことができるのだ。 さらに張ダビデ牧師は常に「福音こそ命の力」であると強調してきた。この命の力とは、「死から命へ」という聖書の大逆転を指し、人間の肉体的生死を超えて魂の運命を変える力でもある。もし教会がこの命の力を失ってしまえば、すぐに信仰は力を失い、組織化された宗教活動だけが残ることになる。そこで彼は「教会はプログラムや奉仕、働きなど、外面的要素ばかりに執着するのではなく、まず福音そのものがもつ命の力をつかむことに集中すべきだ」と主張する。特に、「しかし義人は信仰によって生きる」という御言葉を常に心に深く刻み、個々の霊的命と共同体の霊的活力を福音に根ざしたものとしなければならない、というのである。 一方で、現代社会の中でクリスチャンとして生きることは、さまざまな挑戦に直面することでもある。科学技術の発達、物質万能主義、価値観の相対化、倫理的混乱などが渦巻く状況の中で、教会は決して「安楽な避難所」だけを提供できるわけではない。張ダビデ牧師が説教やセミナーなどで繰り返し指摘するように、イエス・キリストを信じるとは「十字架の道をともに歩む」決断であり、「十字架につけられたキリストを伝えることは、ユダヤ人には躓き、異邦人には愚かである」(1コリ1:23参照)というパウロの告白のとおり、世の基準と対立しやすい点も明確にある。しかし同時に、まさにその点こそが福音が「新たな道」を提示する理由である。十字架に象徴される犠牲と愛の力は、世の知恵や権力とは質的に異なり、その限界を超えて人間の心に真の回復と希望をもたらす。 例えば、現代人が抱える孤立感、疎外感、不安、鬱、自殺衝動などは、経済的豊かさや情報の氾濫によっては解決されない。むしろこうした心理・情緒的危機は、魂の根源的欠乏に起因している場合が多い。張ダビデ牧師はカウンセリングや癒し集会を通して、「福音だけがもたらしうる真の癒し」の核心を説く。イエス様の愛を信仰によって受け取り、自分が「神の子」であり「義とされている存在」であることに気づいたとき、初めて人生に対する根本的な自信が生まれ、絶望の只中にあっても希望を握る力が湧き上がるのだという。人間の自尊感情は自らの「行いや業績」にではなく、「神の御前で自分が何者か」を認識するところから生じる。「自分がいかに罪人であるか」を思い知らされる一方、「その罪人のために独り子をささげられた神の愛」がどれほど広大であるかを悟るとき、人は初めて真の回復の道へと進むことができる。 張ダビデ牧師はこれを「福音の人格的適用」と呼ぶ。単に「罪から救われた」という神学教理や、「信じれば天国に行ける」という表面的なスローガンにとどまらず、福音によって私の内面が根本的に変えられ、人間関係や世間観を新しく再構築することである。そのようにして魂が癒され、神の御前で新たに立ち上がるとき、家庭や職場、学校、社会など日常の場においても福音の実を結ぶことになる。以前は情欲や自己中心でしか動けなかった者が、今は愛と仕え合いへと変わり、物質や権力にとらわれていた心が隣人への配慮と犠牲へと変容していく。結局これこそが「信仰によって生きる義人の道」である。信仰は単なる宣言ではなく、具体的な実践と実りを伴う。 パウロにとっても、信仰は「行いの欠如」を意味しない。行いによって救われるのではないが、真の信仰は善い行いを生むのである。ローマ書後半(12~15章)でパウロが教会共同体の倫理と徳を説き、世の権威に対する態度や隣人愛、弱い者を配慮する生き方などを詳細に教えているのもそのためだ。これは張ダビデ牧師の牧会哲学にもそのまま表れている。彼は教会員が福音の本質を握り、イエス様が示された愛と犠牲にならい、それぞれの生活の現場で「善きサマリア人」の役割を担うよう励ましている。そういう意味で「私は福音を恥じない」というパウロの告白は、単に教会の中で声高に宣言するスローガンではなく、世のただ中で真理と愛をもって生きる決断の表明といえる。 また「私は福音を恥じない」という態度は、今日の多元化社会の中で無条件に独善的にキリスト教を押しつけようということではない。むしろ福音は罪からの解放、死から命へと導く力であるという点で、「攻撃的主張」ではなく「招き」と「献身」の言葉に近い。十字架がもともとは恥と嘲笑の象徴であったにもかかわらず、イエス様がその道を喜んで歩まれたゆえに、今や罪人である私たちも永遠の命と愛を享受できるというのが福音の真髄である。張ダビデ牧師は多様な世代と文化的背景をもつ人々に福音を伝えるとき、「福音そのものがもつ愛の力を決して損なわない」コミュニケーション方法と配慮が必要だと強調する。つまり、信じていない隣人に近づく際、その人々の痛みや状況に耳を傾け、「あなたも私のように罪人であったが、イエス様の十字架によって赦され、新しい人生を得た」という本質的メッセージを伝える必要があるのだ。 現代の教会が成長主義や物質主義に陥り、ときに政治的偏向によって福音本来の純粋性が汚される姿が批判されることもある。パウロが当時のユダヤ人やギリシア人のいずれにも福音を伝え、「宣教の愚かさを通して信じる者を救われることを神は喜ばれた」(1コリ1:21参照)と告白したように、教会もまたへりくだりと仕え合いの姿勢をもって福音を伝えるべきである。張ダビデ牧師は、教会が表に見える「規模」や「金銭的豊かさ」を通じて世の人々からの認証を求めるのではなく、むしろ教会がいかに「十字架」に似せられているか、いかに「救いの福音」を実践しているかに重点を置くべきだと語る。そうしてこそ「信仰によって生きる義人」たちが教会の内に立ち上がり、彼らが世にあって光と塩となることができるのだ。 結論として、現代のクリスチャンが信仰によって生きる姿とは、イエス様の十字架の愛と復活の力を現実の中で体現していくことである。そのためには御言葉と祈りを通して福音の真理を見極め、教会共同体の中で互いに連帯し、世にあってへりくだりながらキリストの道を実践する必要がある。パウロが旧約の宣言「義人はその信仰によって生きる」を新約の福音の中で再解釈し、ローマ帝国のただ中で大胆に宣言したように、張ダビデ牧師もまた現代文明と価値観の渦の中で「福音こそ我々の究極の希望であり真理である」という事実を揺るぎなく強調している。そしてその福音は私たちの生活を変え、教会を新たにし、世に向かって愛と和解の門を開く力なのだと繰り返し教えている。 最終的にいえば、ローマ書1章16-17節は救済論の精髄であると同時に、教会論と倫理の土台でもある。張ダビデ牧師はこれを多くの説教や文書、講解を通して具体的に解き明かしている。彼が読み取るパウロのメッセージの核心は、一言で「ただ信仰によって生きる者だけが真の自由と命を享受できる」という点である。世の目からすれば弱く愚かに見える人々や、帝国の辺境に追いやられた者たちであっても、信仰だけによって神の救いの歴史に参加できるという事実は、初代教会から現代に至るまでクリスチャンに与えられる励ましと慰めであり、同時に世へと向かう勇気と使命である。 「ローマがいかに輝かしかったとしても、それは永遠ではなかった」ということは歴史が証明している。その一方で、信仰によって生きた義人たちの証しは、二千年の時を超えて伝えられ、今も教会史と聖徒たちの生の中で生き続けている。これこそが福音にもつ「超時間的な力」である。張ダビデ牧師は礼拝や宣教現場、牧会室でのカウンセリングの場、また神学校の講義室など、多様な現場を通してパウロのこの力強い宣言を再解釈し適用し、多くのクリスチャンが揺るぎない「福音の誇り」を持つよう導いてきた。究極的には「信仰によって生きる」ということが私たちのアイデンティティであり、この信仰があれば、どのような逆境の中でも希望を失わずにいられる、というメッセージは時代を超えて変わらない。 今日においてもさまざまな形の「ローマ帝国」が存在する。物質的な豊かさ、あらゆる技術革新、文化の多元性、その裏には道徳的混乱や霊的空虚が広がる時代状況にあって、教会と聖徒がなすべきことはやはり同じである。福音を恥じることなく、それが「すべて信じる者にとって救いをもたらす神の力」であることを大胆に宣言し、生活によって証明すること。そしてそれを「ただ信仰によって」握りしめて生きるとき、ついに私たちはハバクク預言者やパウロの宣言どおり、「滅びることなく救われ、神の国を受け継ぐ者」として、この地上から永遠へと至るいのちの道を歩むことになる。張ダビデ牧師の牧会哲学によれば、それは決して頭の中の理論ではなく、すべての聖徒が実際に体験し享受しうる福音の力なのである。 以上のように二つの小主題を通して、ローマ書1章16-17節が語る福音の力と、義人の信仰について考察した。パウロが「私は福音を恥じない」という宣言でもってローマ帝国に立ち向かいながら説いた救いの重要性と、イエス・キリストの十字架の贖いが神の義である点を整理した。続いて、張ダビデ牧師の牧会的適用を中心に、現代の教会と聖徒が「信仰によって生きる生活」をどう現実化できるかを検討した。結論として、「しかし義人は信仰によって生きる」という本文の宣言は、初代教会の時代から現在に至るまで、教会が握り守ってきた信仰の砦である。それは個人の救いと共同体のアイデンティティ、さらには世を仕える宣教的使命をも導く原動力となる。信仰の道に立つすべての人にとって、張ダビデ牧師が力説するように、福音は決して恥ずべきものではなく誇りであり、いのちを生かす力であり、教会が世の中で光と塩として生きる源であることを、決して忘れてはならないのである。

The Power of the Gospel and the Path of Faith – Pastor David Jang

1. The Power of the Gospel and the Meaning of “The Righteous Shall Live by Faith” The Scripture passage that Pastor David Jang delivered at Gracia Church in San Francisco, based on Romans 1:16–17, centers on the key verse “the righteous shall live by faith.” This text deals in depth with the power of the … Read more