張ダビデ牧師 – 結実の秘密


1. と御言葉による

 張ダビデ牧師がヨハネの福音書15章を中心に語ったメッセージは、イエスが弟子たちに残された「告別説教」として知られるこの本文が、どれほど重要であるかを強調するものです。ヨハネの福音書14章の背景で、聖霊が来られることと天国の希望を約束されるイエスの御声を聞いたなら、続く15章では「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」という宣言を通して、「連合」と「結実」の核心を学ぶ必要があるというのです。特に張ダビデ牧師は、この箇所で「主を離れては何もできない」という聖句が信仰生活の絶対的原理であることを繰り返し伝えます。そこにはイエスが「遺言のように」残された最後の教えであるがゆえに、私たちが常に御言葉のうちに目を覚ましていなければならないという意味が込められていると付け加えます。

 しかし、この結実の秘訣は単に汗を流して努力するだけでは得られないといいます。主が直接教えてくださったように、私たちが清められなければ結実は不可能であるという点が、ヨハネの福音書15章2節と3節で明確に示されています。「わたしにつながっていながら実を結ばない枝は、父がそれを取り除き…実を結ぶ枝は、いっそう多くの実を結ぶようにそれを清めてくださる」という御言葉がその代表的な例です。張ダビデ牧師は、この部分で「信仰の訓練とは、私たちの内面と生活を清める訓練である」と強調します。すなわち、ぶどうの木のたとえの核心は連合と結実ですが、その前提条件は罪による汚れを洗い落とし、内面を聖潔にすることなのです。具体的には、テモテへの第二の手紙2章の「だれでも自分を清く保てば尊い器として用いられる」という御言葉を引用し、私たちが主人の手に握られて用いられるためには、必ずまず清くならなければならないと語ります。

 さらに張ダビデ牧師は、ヨハネの第一の手紙5章7~8節に言及し、「水を通して洗われ、血による贖いといのちを得て、聖霊の力によって改めて清められる」という点を指摘します。聖書は、水と血と聖霊が「一つ」であると証言しています。これら三つの要素が本質的に私たちを洗い、結実へと導く源であることを覚えておくべきだというのです。さらに、創世記49章でヤコブがユダを祝福しつつ「ぶどう酒で衣を洗え」と預言したことや、黙示録22章で「自分の衣を洗う者たちは幸いである」と宣言されていることが、結局は同じ根を持つと説明します。「ぶどう酒」は聖霊を象徴しており、だからこそ私たちの衣(すなわち生活と行い)を洗わねばならないというメッセージが、旧約と新約の全体を通して流れているというのです。これは単なる教理ではなく、キリスト者として生きる中で具体的な実践へとつながらなければならないことを意味します。主のうちにとどまると言いながらも、世のあらゆる誘惑と罪悪を遠慮なく受け入れて洗われないままでいるなら、結局実を結ぶことのできない雇い人の信仰者にならざるを得ないという指摘が続きます。

 特に張ダビデ牧師は、「私たちが福音を正しく伝えられず、またとりなし(中保)の祈りもできないために、世は福音の希望を正しく知らない」という点を痛切に指摘します。ヨハネの福音書14章でイエスが「あなたがたをみなしごのようにはしない」と言われたのは、教会共同体が希望のうちに聖霊を迎え、この地で力強く生きられるよう保証してくださる約束でした。しかし、これほど素晴らしいものを世の人々がなぜ受け入れないのかといえば、当の教会が正しく伝えず、清さを保てずに伝道の力を失ってしまったからだと考えます。もし教会がキリストの十字架の愛を正しく、生々しく伝えるなら、世は何らかの形で感動し、大きく変わる余地を持っているというのです。ただ、その出発点は私たちの悔い改めと清さにあることが重要です。「主を離れては何もできない」という宣言は、世のやり方では実を結ぶことができず、ただ主のうちで清められなければならないという結論を改めて喚起します。

 続いて張ダビデ牧師はソロモンの例を挙げます。ダビデの子として知恵と栄光の絶頂に立っていたソロモンが、どのように異邦の女性と混じり合って偶像崇拝に陥り、没落したかを思い起こせというのです。ソロモンの事例が示すように、罪は何よりも偶像崇拝と結婚(婚姻)の問題として現れます。世と混ざり合うと、不信者と容易に結託し、彼らの文化や価値をそのまま受け入れてしまう。結果として神への信仰が堕落に至ります。ヨハネの福音書15章が語る結実は、清められたぶどうの木の枝が、その木に完全につながっていて実を結ぶことであり、混合主義や世俗的な婚姻関係から生まれる実では決してないというのです。神がイスラエルにくださった警告も同じです。異邦文化との結婚を通して罪が入り込み、その罪が神殿を汚し、かつては輝かしかったソロモンの栄光すら無意味なものにしてしまいました。張ダビデ牧師は、これについて「私たちが結実の時代を迎えるには、より高い倫理基準と霊的基準を立てなければならない」と強調します。単に物質的な豊かさや外面的な成長だけを追い求めていると、いわゆる『野ぶどう』へと転落する危険があるという警告です。

 清さは回心と聖化の過程を通じて成し遂げられます。すでにヨハネの福音書15章3節で、イエスは「わたしがあなたがたに語った言葉によって、あなたがたはすでに清くされている」と宣言されますが、これは義とされること(称義)から始まり、徐々に聖化(きよめ)へと進む長い過程です。その過程には必ず御言葉と聖霊の継続的な導きが必要です。御言葉によって教えを受け、聖霊を通して悟りと力を得て、キリストの血潮を常に思い起こしながら、自分自身で日々汚れた部分を洗い流さなければならないというのです。張ダビデ牧師は、これが一度の悔い改めや一度のリニューアル(新生)式で終わるのではなく、生涯にわたって続く「聖潔の訓練」であることを繰り返し教えます。テモテへの第二の手紙2章22節で「若い情欲を避け、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義、信仰、愛、平和を追い求めなさい」とあるように、世の風潮に流されないよう常に注意を払い、敬虔な共同体と共に歩むことも忘れてはなりません。

 このように清くなるための努力は、決して個人的な慢心や自己義に基づくものではありません。「主が私たちを清めてくださる」という宣言は、私たちの力や功績ではなく、ただキリストの十字架と聖霊の力こそが根源であることを示しています。ですから、教会が成長し、豊かさの時代を迎えたとしても、決して偶像崇拝や世俗的な混合によって世のやり方に従ってはなりません。主が実を結ぶ枝を「清める」と語られたとき、その清さはただ御言葉と血潮、そして聖霊の力を通してのみ可能であるという真理が、最も強調される点です。張ダビデ牧師は、これが教会共同体の核心的な信仰の態度であり、共同体が大きくなり働きが拡張されても、常に「聖なる者となれ」という主の御声を個人と共同体が共に握らねばならないと力説します。


2. 豊かな結の連合

 清さが結実の前提条件だとすれば、ヨハネの福音書15章のもう一つの軸は「連合」です。イエスが「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われたのは、私たちがキリストと一つの体を成す神秘的な連合(Union with Christ)に参加しなければならないということです。張ダビデ牧師はこれを「神秘的な連合」と呼びつつも、決して難解な抽象的概念にとどまらないと解説します。ガラテヤの信徒への手紙2章20節の「わたしはキリストと共に十字架につけられたのです…」という告白こそ、この連合の具体的な実態を示す核心的な証拠です。パウロが語ったように、私たちは古い人が十字架に死に、今は私の内にイエスが生きておられるという人生を生きる存在となったのです。この点を張ダビデ牧師は「品種改良」という強烈な比喩で説明します。野ぶどうの木には、決して真の実は実りません。もともと罪性を持つ人間は、結局枯れてしまうのです。だからこそ、キリストというまことのぶどうの木に接ぎ木されなければ、生きて力ある「新しいいのち」の実を結ぶことはできません。ローマの信徒への手紙11章でパウロが言及した接ぎ木の比喩も、同じ文脈で理解できます。

 そこで張ダビデ牧師は、「わたしのうちにとどまりなさい。そうすれば、わたしもあなたがたのうちにとどまる」とのイエスの言葉を指して、愛のうちで成し遂げられる神秘的な有機的結合であると捉えます。神学校ではときどき「連合の理論は難解だ」と言われますが、実際にはイエスがぶどうの木と枝の姿を用いて、分かりやすく教えてくださった御言葉です。枝が木につながっていなければ、あっという間に枯れてしまいます。また、つながっていたとしても、世俗的な心や偶像崇拝によって汚れた状態であれば、正しく養分や樹液を受け取れず、豊かな実を結ぶことは難しいのです。キリストのうちにとどまることは、単に教会に出席したり宗教的義務を果たすことを意味しません。真理であるイエスを知り、その愛に感電し、心の奥深くから毎日十字架の恵みに浸って生きることを意味します。このとき張ダビデ牧師は「真理を知らなければ愛を知ることはできない」と強調します。愛は真理と決して切り離すことができません。イエスが「わたしは道であり、真理であり、いのちである」(ヨハネ14:6)と言われたとき、そこに「愛」という言葉が入っていないからといって、愛をおろそかにしたわけではありません。真理はすなわち愛であり、愛はすなわち真理であるので、真理を正しく知れば真の愛を悟るようになり、真の愛を悟れば真理に至るという論理です。

 張ダビデ牧師は、この愛を「十字架」で見出すべきだと教えます。人間的な犠牲や善行にもある程度の価値はあります。しかし、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は御自分の愛を証明された」(ローマ5章8節)という御言葉に示されるアガペ的な愛、すなわち罪人のために死なれた愛は、私たちの経験や道徳を超越しています。この愛に預かると、人は本質的に変えられます。パウロが獄中で出会った奴隷「オネシモ」を伝道し、彼を主人ピレモンのもとへ戻して和解を仲介した出来事は、「愛」が人を変化させる実例だと張ダビデ牧師は言います。罪に染まった奴隷であっても、キリストの愛が臨むと新しい被造物となり、「兄弟として迎え入れなさい」と勧めることができたのです。このような聖書の逸話を通じて、「連合」と「結実」は結局、愛のうちにとどまってこそ可能になるというメッセージが明確に示されます。

 さらに張ダビデ牧師は、ヨハネの福音書15章11節「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためである」という御言葉を引用します。愛のうちにあるときに初めて喜びが訪れることを強調します。人間の苦しみは、愛を失ったか、あるいは愛が真理から切り離されてしまったために起こるのです。ところがイエスは、私たちの人生を「喜びが満ち溢れる」方向へと導きたいと願われます。それは愛の実であり、愛はすなわち真理に基づいているので、「愛のうちにあるとき喜びが湧き出てくる」というように、さらに確かな教えを伝えています。人々がなぜ教会に集まってくるのでしょうか? それは教会に来ると、世の中では味わえない真の愛と喜びを享受できるからです。張ダビデ牧師は「主のうちにとどまる」という原理を、まさにこの点で体験することができると言います。愛がなかったり、真理の光がぼんやりしている共同体は長続きしません。しかし、真理の上に立って愛によって互いに仕え合う教会は、ぶどうの木につながった枝のように、ごく自然に「いのちにあふれる実」を結ぶのです。

 したがって、この連合と結実の世界では、繁栄神学や成功主義的な信仰観とは異なり、「十字架を通して死に、再び生きる体験」が必須となります。張ダビデ牧師は、これを見落とすと、教会がどれだけ外面的に成長し財政的に豊かになっても、「野ぶどうばかりが実ってしまう」と警告します。まるでイザヤ書5章の御言葉のように、神が極上のぶどうを植えたのに、返ってきたのは野ぶどうだけだったという嘆きが、現代の教会でも再現されかねないというのです。だからこそ、必ず新生を確認し、接ぎ木を通じて新しいいのちの枝となったことを自覚し、常に主の前にへりくだって進まなければならないと教えます。張ダビデ牧師が言う「新生の日」(リボーンデー)の重要性も、この文脈で理解できます。適当に信仰生活をしていると、最終的には実らせる実が「混ざった」結果になるしかありません。だからこそ、私たちは十字架のもとで古い人が徹底的に死に、新しいいのちを着る「確かな新生」を体験し、その後も絶えず聖霊の導きを受け続けなければならないのです。

 張ダビデ牧師は、このように結実と連合の原理を強調しつつ、教会共同体として備えるべき具体的な態度にも言及します。彼が例として挙げるのは、「C12(12大陸本部)」の働きです。世界宣教や教育、図書館建設など未来のための多様な企画を進めるとき、結局豊かな結実を得るには、人間の力ではなく「神の力」が絶対的に必要であることを痛感するというのです。こうしたプロセスを例に、「あなたがたがやろうとしてもうまくいかなくても、神がなさるならどんなことも不可能はない」ということを証ししてきたと語ります。7年かけて1つの本部を建てるのに苦労していたところ、ある時期には7か月の間に12か所の本部が建てられたという驚くべき証を、張ダビデ牧師は信仰共同体と共有し、ヨエル書2章の「前の雨と後の雨」の預言を想起させます。初代教会は前の雨である聖霊を経験し、今日の終わりの時代に教会が後の雨である聖霊を再び経験するとき、爆発的な結実が起こるというのです。しかし、その結実は「神のうちで聖く備えられた共同体」を通してのみ可能であると彼は強調します。このとき「主のうちにとどまる」とはすなわち、愛のうちに、真理のうちに、そして聖霊の力のうちにとどまる状態を意味します。

 さらに結実が増えるときには、必ず真理と倫理の問題も同時に点検されるべきだという警告を欠かしません。人が増えれば摩擦も増え、世的な誘惑も大きくなります。共同体内で権力争いやねたみ、嫉妬、淫乱、偶像崇拝が入り込みやすくなりますが、これを警戒せず放置すれば、教会の中ですら野ぶどうが実るようになってしまいます。張ダビデ牧師は「愛の反対は憎しみであり、憎しみの根はねたみと嫉妬だ」と語ります。教会が主のうちで一つになろうとするなら、その根を取り除かなければなりません。また、ソロモンが異邦の女性との混在により、最終的に偶像崇拝へと陥ってしまったように、キリスト者たちは結婚の問題においても世と混ざり合わないよう慎重であるべきです。これは単に婚姻相手が信仰者かどうかを問うレベルを超えた、「霊的純潔」を守る問題だというのです。どれほど容易に世の世俗的価値が入り込めるか、歴史的にすでに数えきれないほど証明されています。こうして張ダビデ牧師は、エリムやF&Fのような機関を例に挙げ、「教会が結婚の問題を適当にやり過ごしてはならない」と言います。確かに主の御心と方法のうちで家庭が建てられ、霊的にも完全に区別された婚姻がなされなければ、教会共同体全体がさらに大きな祝福を受けることはできないと指摘します。

 「連合と結実」という主の約束は、一方では水と血と聖霊によって清められる聖化の過程を指し、他方では主のうちにとどまっていのちの樹液を受け取る「愛の連合」を同時に意味します。張ダビデ牧師は、ヨハネの福音書15章に続く告別説教の流れの中で、ヨハネの福音書14章で聖霊が来られると約束されたイエスの御言葉を改めて想起させ、聖霊こそ私たちを豊かな結実へ導く力の主体であると強調します。「あなたがたはわたしのうちにとどまりなさい」という言葉は、結局「あなたがたは聖霊のうちで、真理のうちで、十字架の愛のうちで生き続けなさい」ということなのです。すでに世に勝たれたイエスが共におられるのなら、いったい何を恐れる必要があるでしょうかという確信をもって、私たちは結実の時代を大きく切り開いていくべきだというのです。

 このような文脈で張ダビデ牧師は、教会の暦と祭期を独特に区切り、復活祭から総会までを6か月、そして総会から復活祭までをさらに6か月として1年を構成する教会暦の例を挙げます。復活祭に十字架の愛を深く黙想してその頂点に至ったなら、総会では1年間に結んだ実を報告する。このシステムを通して、共同体が絶えずイエスの愛と聖霊の力を握り、それにとどまりながら実際の実を生み出すように促すのです。張ダビデ牧師は、その過程を「毎年繰り返すとき、教会は徐々に豊かになり、世界各地にいのちの福音を伝えられるようになる」と教えます。そしてそれには常に徹底した御言葉の教育と訓練が必要であることを強調します。「私たちが貧しく苦しいときであっても御言葉を手放さなかったのに、豊かになったからといって御言葉と祈りの場所を失ってはならない」という警告は、共同体が必ず覚えておくべき原理です。

 ヨハネの福音書15章が語るぶどうの木のたとえのエッセンスは二つあります。一つは「清さ」であり、もう一つは「連合」です。枝がぶどうの木につながっているとき、枝が自分自身で成長していると錯覚するかもしれませんが、実際には木からいのちの樹液を供給されているにすぎません。私たちの信仰生活も同じです。自分の功績や実力で実を結ぶのではなく、徹底的にぶどうの木であるイエス様に頼る中で、聖霊を通して御言葉によって清められ、愛のうちにとどまることで実を結ぶのです。だからこそ張ダビデ牧師は「人間的には不可能でも、神には可能である」と宣言し、信仰によって前進すれば神がすべてを可能にしてくださると繰り返し証しするのです。教会が広がり、働きの場が増え、財政が豊かになるのは、私たちの力ではなく「ただ主の力」によるものであることを忘れないようにと勧めます。結局、そのすべての結果を豊かに報告するためには、1年365日、7年、14年、21年…というように年月を重ねれば重ねるほど、いっそう純潔にぶどうの木につながり続けなければならないのです、と励ますのです。

 張ダビデ牧師は、この場面で「今日から本当にさらに目を覚ましていなさい」と訴えます。小さな罪に何気なく心を奪われ、世の贅沢や情欲に足を踏み入れ、欲やねたみで目が曇るようになると、その瞬間から枝は枯れ始めるというのです。そうなると、サタンがその枯れた枝を火に投げ込んで焼き払うように、霊的に崩れ落ち、結局「恐れと苦しみ」に飲み込まれてしまいかねない。そうならないためには、毎日「ぶどう酒で洗い、水と血と聖霊によって洗う」ことに励まねばならないと教えます。人生のあらゆる領域から入ってくる罪の通路である目と手と口を断つよう命じられたイエスの教え(「もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい」)を改めて心に留めるべきだというのです。それは極端な処置のように聞こえるかもしれませんが、実際には罪の力を知っておられるがゆえに、イエスが敢えて宣言された聖なる道なのだという解説が付け加えられます。

 張ダビデ牧師は、教会がこれから迎える結実の時代において、「豊かさの中でもつまずかないよう気をつけなさい」と託します。これはソロモンの歴史を思い起こすとき痛感する点です。「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があるだろうか?」というイエスの警告のように、教会が世の富や栄華をすべて手にしたかのように見えることがあっても、肝心の魂が干上がってしまえば無意味です。だからこそ私たちはイザヤ書5章の野ぶどうではなく、ヨハネの福音書15章の豊かな結実を願い求めるのです。そしてその道は、イエス自身がすでに直接示してくださいました。「わたしのうちにとどまりなさい」という御言葉が、その答えです。ひたすら愛のうちにとどまり、十字架の血潮によって清められ、聖霊の力によって大いに実を結ぶぶどうの枝となること、これこそが張ダビデ牧師が強調する真の福音の力です。

 ヨハネの福音書15章に収められた告別説教は、教会を新たに建て上げる創造的なメッセージであり、各信徒が日々聞きながら生きるべきいのちの御言葉です。「あなたがたはわたしのうちにとどまりなさい」というイエスの御声は、過去のどの時代よりも混乱したこの時代に、いっそう大きく響き渡っています。世は真理などないと言い、同性愛や中絶、相対主義的倫理、物質万能主義など、さまざまな価値の混乱が蔓延しています。しかしイエスは明確に「わたしは道であり、真理であり、いのちである」と言われます。その道のうちにとどまれば、喜びが満ちあふれ、いのちが躍動します。張ダビデ牧師は、その霊的実体を失わなければ、これから7か月であれ7年であれ、153という数であれ、「主が成し遂げよと言われるなら、十分に可能だ」と宣言します。そしてその過程で私たちは、ただ主だけに栄光を帰し、すべての瞬間に自分自身を省みなければならないのです。「あなたがたはすでにわたしが語った言葉によって清くなっている」という一節を忘れないようにしながらも、同時に日々汚れが入らないように衣を洗い、自分自身を聖潔に保つ必要があるという警告も見逃してはなりません。

 結実とは、単に世の基準でいう「結果物」ではありません。張ダビデ牧師が繰り返し語るように、最も大きな結実は「魂の救い」です。伝道こそが結実の核心だということです。教会は何を誇るでしょうか? 結局、神の愛が罪人を生かし、その福音を伝えて一人ひとりを主のもとへ導くことが最大の実なのだという結論です。この結実が正しく成し遂げられるためには、まず福音を正しく知り、教会がその愛を証しする共同体とならなければなりません。「イエスの愛の物語」が完全に証しされる場所では、必ずいのちがうごめき始めます。失われた魂が主の懐に帰り、「癒しと回復」が起こります。それこそが神が農夫であり、イエス様がまことのぶどうの木となられ、私たちがその枝として召された究極的な理由なのです。

 以上、ヨハネの福音書15章に関する張ダビデ牧師のメッセージをまとめると、「私たちは水と血と聖霊によって清められ、愛のうちにイエス様と連合し、そのとき初めて豊かな結実を得る」という結論に至ります。多くの実を結べば結ぶほど、教会の内外における誘惑や混合主義の危険も増しますが、そういうときこそさらに徹底的に十字架の血潮をつかみ、悔い改めと罪の告白へと進まなければなりません。「主を離れては何もできない」という聖書の言葉は、結局人間の弱さと神の力の絶対性を示しています。しかし、その神が今も私たち一人ひとりと共同体をぶどうの木の枝として立て上げ、聖霊のわざを通して遠く諸国にまで福音を伝えるよう導いておられるのだと、張ダビデ牧師は力強く語ります。彼が述べるC12や153のグローバルネットワーク構想も、何か巨大なプロジェクトそのものを誇ろうとしているのではありません。主のうちにとどまるときに起こる「結実の拡大」を証しすることで、すべての信徒が同じ希望を抱いて主の前に献身することを願っているのです。

 信仰生活は、「木」である主に「枝」である私たちが日々つながっている姿だと要約することができます。清さがなければ結実は不可能であり、愛の連合がなければ継続的に実を結ぶことはできません。それにもかかわらず、私たちが望みを持てるのは、「神に不可能はない」という真理をすでに十字架と復活を通して示してくださったからです。したがって教会共同体は、いつも十字架と復活、聖霊降臨を記念し思い起こしながら、この善循環を続けていくべきです。「わたしの愛のうちにとどまりなさい」と言われた主の御言葉は、キリストの花嫁として召された教会が永遠に握って生きるべき最も重要な契約なのです。

www.davidjang.org

Leave a Comment