La negación de Pedro y su restauración – Pastor David Jang

1. La fragilidad humana evidenciada en la negación de Pedro La escena en la que Pedro niega tres veces a Jesús aparece en los cuatro Evangelios, cada uno con ligeras variaciones en los detalles, pero transmitiendo el mismo suceso esencial. Aquí nos centraremos principalmente en Juan 18:22-27, y complementaremos con otros pasajes como Lucas 22:31-32 … Read more

L’Épître aux Éphésiens et la doctrine de la prédestination – Pasteur David Jang

1. La signification de l’agencement de l’Ancien et du Nouveau Testament, et la corrélation entre les Évangiles et la Loi Comprendre la disposition générale des Livres de la Bible est extrêmement important lorsque nous abordons la Parole. Observer comment l’histoire du salut divin se déploie dans la structure traditionnelle de l’Ancien Testament (39 livres) et … Read more

エペソ書と予定論 – 張ダビデ牧師

1. 旧約と新約の配列の意味、そして福音書と律法の相関性 聖書の配列を理解することは、私たちが御言葉に接するうえで非常に重要である。旧約39巻と新約27巻という大きな枠組みの中で、伝統的な配列を通して神の救済史がどのように展開されていくのかを見極めることは、信徒たちに深いインサイトを与える。旧約は一般的に、1)モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)、2)歴史書、3)知恵書、4)預言書という形に区分・配列され、新約もまた1)福音書、2)使徒の働き(歴史書)、3)教理書(書簡群)、4)黙示録(預言書)という構図に沿って編纂されている。このような構造が示すように、キリスト教信仰の核心は、旧約と新約が有機的につながった一つの書物として私たちに伝えられている点にある。 例えば、旧約のモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)は、イスラエルの民に与えられた律法と契約の根源を示している。「私の目を開いて、あなたの律法の驚くべきことを見させてください」(詩篇119:18)と詩篇記者は告白しているが、ここで言う「律法」とは神の御言葉であり、その律法をしっかりと握ることによってこそ神の聖さにあずかることができると強調される。これは新約においても同様である。新約の最初の区分である福音書は、イエス・キリストの行跡、教え、十字架と復活を通して、「目に見える律法」としてのイエス様を私たちの眼前に示す。「言葉は人となって、この世に住まわれた」(ヨハネ1:14)という現実そのものが、新約の律法がすなわちイエス・キリストであることを可視的に示すのである。 張ダビデ牧師が強調する点もこれと密接につながる。彼は、新約を旧約の継続としてとらえながら、律法を単なる規範や命令の集まりではなく、イエス・キリストのうちに完成された神の愛と救いの道具として解釈する。「イエスは私たちの律法です」という言葉は、すでに旧約で提示された「律法」の究極的完成をイエス様が成し遂げられたことを意味する。だからこそ、福音書は律法を新約的文脈で新しく照らし出し、私たちがイエスを通して神の御心を学び、イエス様こそ聖の基準であり模範であるという事実を再発見するよう導く。 その次に置かれている『使徒の働き』は、まるで旧約の歴史書のように、初代教会がどのように誕生し、拡大していったのかを詳細に示している。教会はキリストの血によって建てられ、聖霊の力によって継続された。エルサレムで始まった福音がサマリアやあらゆる異邦の地へ広がっていく過程が、新約の歴史書である『使徒の働き』に生き生きと描写されている。旧約の歴史書が、イスラエルの民の荒野生活やカナン定着、王制時代と捕囚期、そして帰還の歴史などを記録したのと同様、新約の歴史書は、キリストが昇天されたあと、弟子たちと使徒たちを通して成し遂げられた「福音の拡張の物語」を伝えている。この部分を通して私たちは、歴史が単なる過去の事実の記録ではなく、神の救いの計画が具体的に繰り広げられる舞台であることを悟ることができる。 『使徒の働き』の後に位置する教理書(書簡群)は、旧約の知恵書に相当すると見ることもできる。もちろん、知恵書には詩篇、箴言、伝道者の書、雅歌、ヨブ記などが含まれ、個人の敬虔生活や人生の中での知恵、さらには苦難との格闘などを扱うが、新約の教理書は、この「教会」という共同体が信仰の中で成熟していく過程を一目で整理している。パウロをはじめとする使徒たちは、イエス・キリストの福音が本当のところ何なのか、その福音に含まれた核心の教理が何なのかを、さまざまな手紙の形で証しした。ローマ人への手紙、コリント人への手紙第一・第二、ガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙などは、それぞれの教会が置かれた状況によって具体的な主題や適用点は異なるものの、根本的には福音のアイデンティティを明確にすることで、信者が揺らぐことのない信仰の基礎を築くことを目的としている。 張ダビデ牧師もまた、「教理(doctrine)は福音の真髄にして核心であり、教会をしっかりと建て上げる土台である」と強調してきた。教理は決して教会内部の知的探求だけのためにあるのではなく、信仰共同体が世の中で福音を伝え、自分が受けた救いを確信して生きるうえで必要な“錨(アンカー)”の役割を果たすのである。教理が堅固であれば信仰が揺るがず、信仰が揺るがなければ伝道の実も結ぶことができるというのが、伝統的なプロテスタント神学者たちの共通の見解であり、張ダビデ牧師もこれをさまざまな講義と著作を通して際立たせてきた。 特にローマ人への手紙は、福音を体系的に解説している書簡の中でも特に重要とされている。「義人は信仰によって生きる」というスローガンがパウロ神学の精髄を含んでおり、ユダヤ人と異邦人の間にある葛藤を克服する神の救いの計画がどのように実現するかを深く扱う。一方、コリント人への手紙第一・第二は、実際の教会共同体に起こった数々の問題(分裂、不品行、混乱した礼拝、賜物の濫用など)に対して具体的な答えを示す書簡である。ガラテヤ人への手紙は、律法主義に陥ろうとするガラテヤ教会に、「恵みによる信仰」こそが私たちの義を決定する核心だと宣言する。このような一連の教理書は、各々の歴史的・文化的背景の中にあっても、同じ福音の本質を宣べ伝えているため、今日の教会もこれらの書簡を通して時空を超えた神の教えを学び、適用しなければならない。 ここで張ダビデ牧師が言及する「5大教理書」とは、(1)ローマ人への手紙、(2)コリント人への手紙第一、(3)コリント人への手紙第二、(4)ガラテヤ人への手紙、(5)エペソ人への手紙を指し、ユダヤ人を対象とした「ヘブル人への手紙」もまた重要な教理書として扱われる。コリント人への手紙第一・第二を一つにまとめて考えれば、ヘブル人への手紙を含めて5大教理書とみなすこともでき、コリント人への手紙第一・第二を別々に分ければ、エペソ人への手紙も含め5大教理書として認識できる、という説明を通して、教理書は一、二冊にとどまらず非常に広い神学的スペクトルを網羅することが分かる。 結局、旧約と新約の構造は分離しておらず、互いに連続性をもちながら、福音書(イエス・キリスト)、使徒の働き(教会の歴史)、教理書(神学的土台)、そして黙示録(終末と完成)という順序で、私たちが徐々に神の救いの経綸を学ぶよう導いている。これは信仰者が聖書全体を正しく読むための土台であり、同時に教会の信仰告白が、イエス・キリストの十字架と復活、そして主の再臨を通して完成へと至る過程を照らしているのである。 2. 教会の誕生、教理書の本質、そして使徒たちの啓示的洞察 旧約の歴史書がイスラエル民族の形成と霊的闘争、勝利と挫折の記録であるとすれば、新約の歴史書である『使徒の働き』は、イエス様の昇天後に形成された初代教会の「誕生記」を扱う。『使徒の働き』の中の教会は、単なる人為的な組織ではなく、聖霊の力によって証印され、キリストの贖いを信仰によって告白する者たちの集まりとして姿を現す。こうして、教会は「キリストの血によって贖われた者たちの共同体」であり、同時に「神の国拡張の拠点」となる場所である。この教会が世界の各地へ拡大する中で、福音がどのように伝播していったのか、パウロをはじめとする多くの使徒たちの宣教行程と、その過程で遭遇した迫害や葛藤こそが、キリスト教史の始まりとなる。 この過程で、『使徒の働き』の後に配列された新約書簡は、教会共同体が現実の中で直面する数々の問題に対する解説書または解決策の役割を担う。パウロ、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、ユダなどの使徒や初代指導者たちは、それぞれ書簡の形で福音の核心教理を解き明かし、具体的な状況に合わせて助言し、勧めた。要するに、福音が「何か」を説明するだけにとどまらず、「その福音をどう実践するか」へと歩ませるのである。 こうして教会は、絶えず福音を解釈し、適用しなければならず、その結果として編纂された新約の教理書は、今に至るまで信徒たちの霊的成長と信仰生活に不可欠な指針となっている。パウロが「ペテロ使徒が言ったように、あなたがたの内にある希望について尋ねる人々に対して、いつでも弁明できるよう準備していなさい」(Ⅰペテロ3:15)という節を引用しながら教理の重要性を強調するのも同じ文脈である。私たちが信じる福音、すなわちキリストの十字架と復活によって示された救いの歴史的・超越的意味が何であるかを把握できなければ、実際の生活で福音を証しすることは容易ではない。 書簡の著者たちに共通する特徴は、「啓示の光」の中で福音を洞察した点である。張ダビデ牧師も、「使徒たちは主の啓示をまるで稲妻が光り輝くように一瞬で見て、その驚くべき真理を私たちに伝えた」としばしば強調する。稲妻が一瞬にして周囲を明るくするように、使徒たちもイエス・キリストの出来事を通して神の救済のご計画を一挙に悟り、その悟りを手紙として解き明かしたという意味である。ローマ人への手紙やコリント人への手紙第一・第二、ガラテヤ人への手紙などに見られる緻密で組織的な神学的構成は、決して人間の理性的思索だけでは要約しにくい、超自然的洞察の結果だと見る伝統的キリスト教の立場とも一致する。 さらに、コリント人への手紙第一・第二は一つの教会(コリント教会)に宛てられた手紙であるにもかかわらず、その内容は教会の公的問題から個人的問題まで網羅し、さらにはパウロの個人的な告白的要素までも包含しているという点が興味深い。教理書は「手紙」という形式をとっているが、その中に込められた「福音の原理」は非常に普遍的であり、時代を超えて通用する。パウロが自ら福音について「私の福音」と呼ぶのは、彼がイエス・キリストの十字架と復活を全面的に自己の内に受け入れて個人化したことを意味する。一方、手紙の読者たちは、その「教理」と「信仰の指針」を自らの生活に適用し、最終的に同じ福音を生きる道を学ぶこととなる。 そして、ヘブル人への手紙がユダヤ人信徒のために書かれた「特殊な教理書」である点にも注目すべきである。ユダヤ人は古くからの伝統の中で「天使」と「律法」を高く尊び、旧約の祭司制度をきわめて重んじてきた。ヘブル人への手紙は、まさにそうしたユダヤ人信徒に対し、イエス・キリストがどのように律法と祭司制度を完成するお方であるのかを体系的に説明する書簡である。「あなたがたは天使よりもさらに尊い存在だ」という宣言(ヘブル1章)から始まり、イエス様こそが完全な大祭司であり、より優れた契約の仲保者であることを一つひとつ明らかにする。これは旧約の延長線上にあって、イエス・キリストがすべての祭司制度の目標であり絶頂であることを示す証拠となる。 このように教会の胎動と教理形成の過程は、本質的に救済史を記録し、実践する共同体が自らの位置づけを確立していく過程であった。ローマ帝国の支配下、多神教と皇帝崇拝が蔓延する環境の中で、キリスト教共同体はただイエス・キリストの主権を叫び、迫害に耐え抜いた。パウロがエペソで受けた迫害と論争、宣教的勝利の過程もまた、『使徒の働き』19章に詳しく示されているように、当時の文化的・宗教的衝突は非常に深刻だった。エペソはアルテミス(ディアナ)神殿で有名な巨大な偶像崇拝の中心地であり、ローマ、アレクサンドリア、アンティオキアと並ぶ“四大都市”のひとつに数えられるほど栄えていた。その地でパウロが3年の間、「へりくだりと涙をもって」(使徒20:18-19, 31)牧会しながら結んだ福音の実は、その後アジア地方の諸教会がしっかりと建て上げられる基盤となった。 ここで張ダビデ牧師が特に強調する重要なポイントは、教会が「共同体的回覧書簡」を通して御言葉を分かち合い、教理によって武装しなければならないということである。当時、エペソ人への手紙やガラテヤ人への手紙、ピレモンへの手紙などは特定の受信者がいたが、初代教会はそれらを回覧して、多くの地域教会が共に読み、黙想する伝統を築いた。このような公的回覧の過程を通して、教会は教会の垣根を越えて互いに交わり、教理的一致を成し遂げていったのである。ガラテヤ人への手紙が複数の「ガラテヤ教会」に回覧されたという事実は、これらの手紙が一つの教会だけの専有物ではなく、信仰共同体全体に必要な教えであったことを証明している。 結局、教会が成熟の段階に進むほど、より深い真理を悟ろうとして教理書に没頭するようになる。これは信徒個人が信仰の根本を探る作業とも結びついている。イエス・キリストが私の救い主であることを頭で知るだけでなく、使徒たちが伝えた啓示の光と教理的体系を通して、それを心で、そして生活の中で内面化していく過程こそが信仰の成熟なのである。 3. エペソ書に込められた予定論の核心と張ダビデ牧師の注釈的洞察 さて、ここからはエペソ書を本格的に考察してみよう。エペソは当時のローマ帝国の中でも屈指の大都市であった。ローマ、アレクサンドリア、アンティオキアと並ぶ“四大都市”の一つで、ギリシア・ローマ神話に由来するさまざまな神殿と、皇帝崇拝思想が混在する地域的特色を備えていた。この地に教会が建てられたという事実だけでも、福音伝播において非常に重要な転換点がもたらされたと言える。パウロがエペソで実に3年間もの間仕え、「へりくだりと涙をもって」教会を世話したという記録(使徒20:18-19, 31)は、この教会がどれほどパウロの働きの中核をなしていたかをよく示している。 張ダビデ牧師は、エペソ書が「成熟した教会が読むべき手紙」であると強調する。その理由の一つは、エペソ書が教会のアイデンティティと一致、そしてより高次の信仰水準で扱われるさまざまな主題(キリストにおける予定、ユダヤ人と異邦人の一致、教会が聖霊のうちに建て上げられる原理など)を包括的に扱っているからである。ほかの書簡が教会問題の解決や教理の解説に集中するならば、エペソ書はさらに普遍的で宇宙的な視点から教会を説き明かしている。「天上にあるすべての霊的祝福」(エペソ1:3)から始まる1章の叙述だけでも、私たちの霊的実在が地上の法則や欲望に縛られるのではなく、キリストにあってすでに確定された勝利の世界と結ばれていることを宣言している。 このエペソ書1章1~14節は、特に「予定(Predestination)」という概念を際立たせて扱う。張ダビデ牧師は“Predestination”を「Pre(あらかじめ)+Destination(目的地)」という言葉として解釈し、神が人類の救いをあらかじめ定められた事実を強調する。人が空港へ行くとき、自分の目的地を確認して航空券を手配し搭乗するように、信仰においても「私たちがどこへ行くのか」という目的地を確実に知らなければならないというわけである。この確実な目的地こそが、「神が私たちを予定して、ご自分の子とならせてくださる」という真理にあり、これを握る者は揺らぐことなく信仰を守り抜くことができる、という洞察を提供する。 実際にエペソ書1章3~6節、7~14節のように区分すると、それぞれ「賛美すべき理由」が提示されている。最初の区分(3~6節)は「私たちの主イエス・キリストの父が、キリストにあって天上のすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださった」という宣言(エペソ1:3)で始まる。そして続く1章4節で「神は世界の基の据えられる前からキリストにあって私たちを選び」と語り、「世界の基が据えられる前」という表現で予定の時点をはっきりと示す。これは、私たち個人の人生が偶然によって決まるのではなく、永遠の昔から存在される神の御心とご計画の内にあることを意味する。 これはしばしば、夫婦が結婚を通して出会うことも、二人の愛だけではなく、その愛の前にすでに神が定めておられた「天生の縁(天生緣分)」があるという例えで語られる。張ダビデ牧師が結婚式の司式や新しい家庭への礼拝(信家礼拝)などでしばしば引用する箴言16章1節、9節は、人間の経営と神の導きとの関係を明確に示している。人は心の中で自分の道を計画しても、その歩みを導かれるのは主であるという事実は、私たちの人生が神の予定のうちに進む聖なる旅路であることを暗示している。このように予定論は、結婚だけでなく人生全般のあらゆる局面において、信仰者が必ず握らなければならない核心的な真理として位置づけられる。 また、エペソ書1章5節は「神はそのみこころの良しとするところによって私たちを予定し、イエス・キリストによってご自分の子にしようとされた」と語る。この節は、奴隷だった者が「養子(法的に子として迎えられた者)」の身分を得るという衝撃的な恵みを説き明かす。ローマ帝国時代、奴隷が養子になるならば、法律的に実子と同等の権利を行使できた。これは「神と人間」のあいだに新しい関係が結ばれたことの象徴である。全知全能の創造主なる神を主人として仕えていた人間が、今やそのお方の子という、さらに驚くべき身分を与えられるという事実は、教会の構成員がなぜ賛美して喜ばなければならないのかを明確に示す。 続いて、第二の区分(7~12節)は、私たちがイエス・キリストの血によって罪のゆるしを得たと宣言し(エペソ1:7)、「これは神の豊かな恵みによるのだ」と強調する。「豊かさ」という言葉は、福音が私たちの功績や善行で得られるのではなく、神のあふれる愛と恵みによってもたらされることを際立たせる。さらに、神の御心の奥義が「キリストにあって時が満ちる救いの計画のために定められたこと」(エペソ1:9)と明らかにし、歴史が偶然に流れていくのではなく、最終的には「キリストにあって万物がひとつにまとめられる」(エペソ1:10)ことを教える。これは救済史の大局的視点を与える本文であり、世の混乱や人間の罪があっても、最終的には神の国が完成されるということを予告している。 第三の区分(13~14節)は、「聖霊の証印」によって私たちがその約束の相続にあずかる者となり、その聖霊が私たちの相続の「保証」となっているという宣言で締めくくられる。保証(ギリシャ語でἀρραβών、アラボーン)は、婚約指輪のように、将来に起こる完全な結合を今確実に保証してくれる役割を果たす。これによって救いの究極的完成はこれから実現するが、私たちはすでに聖霊の働きを通してその保証を与えられており、今この地上で神への栄光の賛美をささげながら生きる望みを持つことができるのである。 このように、エペソ書1章3~14節は予定論の核心思想を示し続け、賛美すべき理由を次々と提示している。張ダビデ牧師は、これを信仰者が「偶然ではなく、神の超越的なご計画のうちに生きている」ことを刻印する決定的根拠とする。神が私たちをあらかじめ計画し選ばれたという認識は、日常のあらゆる揺らぎを前にしても、「決して放棄できない希望」を与える。また、これは単に教理的知識や冷静な理性の産物だけではなく、教会共同体が礼拝と生活を通して共に体験し、確認していく“生きた真理”であることが強調される。 だからこそエペソ書は、信仰が成熟した信徒に一段と深い洞察を許す。ローマ書が「福音の理論的構造」を明快に説明するならば、エペソ書は「教会論」と「宇宙的救い」の視点から、神が建て上げられる共同体がどのように完成していくかを示す。続くエペソ書2章でパウロは、ユダヤ人と異邦人の「隔ての壁」を打ち壊して、互いを和解させる福音の力を説くが、これこそが人間関係の中の妬みや嫉妬(カインの罪)を克服させる十字架の和解の働きである。信仰が成熟するとは突き詰めると、「イエス・キリストの十字架のうちにあって私たちが互いに受け入れ、一つとなる道を学ぶこと」であり、エペソ書のメッセージは教会内の紛争を超え、世の対立においても有効な解決策となりうる。 最後に、エペソ書は「獄中書簡」という背景を持つ。パウロがローマの牢に囚われている状況で書かれた手紙であるにもかかわらず、これほどまでに豊かな「天上の祝福」を力強く宣言している事実は、福音が置かれた環境を超越する真理であることを示す。獄中は生存を脅かす場所であったに違いないが、そこでパウロが証しする「予定される神」の救いの約束は揺らがなかった。聖霊の力によって「証印」を受けた者は牢の中でも賛美することができ、やがて来る神の国に向かって希望を抱くことができるからである。 まとめると、張ダビデ牧師がエペソ書1章を通して強調する要旨は次のように整理できる。 結局、予定論は運命論や宿命論とは異なり、私たちに「神があらかじめ定めておられる目的地(destination)」へ積極的に進むよう鼓舞する原動力となる。私たちが置かれた現実や社会がどんなに混乱しているように見えても、その究極的結末は「キリストにあって一つになる」という神の主権的なみわざによって導かれるからである。信仰者はこのような予定をしっかりと握り、一歩一歩従順して歩むとき、内面に賛美が絶えない生涯を享受するようになる。 張ダビデ牧師が結論的に示すように、これらすべての真理が教会共同体の中で礼拝と御言葉、聖礼典を通して具体化され、「共同体的回覧」として信徒同士で分かち合われるとき、初めて世に感動を与える信仰の実を結ぶことができる。初代教会がエペソやガラテヤ、ピリピ、コロサイ、そしてコリントやローマに至るまで書簡を回覧しながら福音の真髄を共有したように、今日の教会もエペソ書が証しする「予定」の福音、「キリストにあって一つとなる」福音を実践することによって、世に主の栄光を示さなければならないのである。

Ephesians and Predestination – Pastor David Jang

1. The Significance of the Old and New Testament Arrangement, and the Correlation between the Gospels and the Law Understanding the arrangement of the Bible is extremely important when we approach Scripture. Within the overarching framework of the 39 books of the Old Testament and the 27 books of the New Testament, examining how God’s … Read more

Efesios y la Doctrina de la Predestinación – Pastor David Jang

1. El significado de la disposición del Antiguo y Nuevo Testamento, y la correlación entre los Evangelios y la Ley Comprender cómo está dispuesto el texto bíblico es de gran importancia cuando nos acercamos a la Palabra. Al examinar la estructura de los 39 libros del Antiguo Testamento y los 27 libros del Nuevo Testamento, … Read more

L’Évangile parvenu à Rome – Pasteur David Jang

1. L’histoire du salut à Malte et la dérive de Paul Dans Actes 27 et suivants, Paul et ses compagnons traversent une épreuve dramatique de dérive et de naufrage. À l’époque, la traversée de la Méditerranée était elle-même difficile, et le bateau transportant Paul, d’autres prisonniers ainsi que des passagers, s’est retrouvé pris dans un … Read more

The Gospel Reaching Rome – Pastor David Jang

1. The History of Salvation on Malta and Paul’s Shipwreck From Acts 27 onward, Paul and his companions undergo a dramatic ordeal of drifting at sea and shipwreck. In those days, crossing the Mediterranean by ship was itself challenging. The vessel carrying Paul and other prisoners and passengers encountered a fierce northeaster (the Euraquilo) near … Read more

教会的纷争与劝勉 – 张大卫牧師 

教会的纷争与劝勉当我们今天再来细读《腓立比书》,便会猛然发现,保罗使徒想要传递给腓立比教会的信息,并不只是在信仰生活层面作全面的教义说明。保罗写这封书信时正身陷囹圄,他在四处宣扬福音的漫长旅程中,最深的痛苦往往并非外在逼迫,而是来自教会内部的分裂。尤其在腓立比教会——这是保罗在欧洲宣教时最先进入的城,也是他踏上欧洲福音之路的起点。在那里,吕底亚和几位姐妹成为教会开拓成员,为福音奠定坚实根基。但随着时光流逝,教会内部竟然出现了冲突。面对这一情况,保罗并未以斥责或刻薄口吻加以处理,反而以美好且温柔的语气,提出化解之道。张大卫牧师也强调,当今教会若发生纷争,理当效法保罗的方式:先以温和的劝勉和鼓励为始,逐步引导教会走向医治与修复。 张大卫牧师多次在讲道中指出,若教会要摆脱冲突与纷争,最终仍须“存基督的心”为根本。我们常想到严厉斥责冲突当事人,或迅速切割问题的方式,但在《腓立比书》2章1-4节,保罗却选择了温柔的姿态。保罗所指的第一把钥匙是“劝勉”,意在彼此加力、在灵魂层面上互相鼓励。这不只停留在“努力吧”或“别太在意”这种程度,而是从当事人内心深处着手。许多人既会陷于自我合理化,又同时背负罪疚和羞耻。张大卫牧师以《创世记》中该隐的例子佐证:当该隐杀死弟弟后,上帝并未立即予以惩罚,反而先行庇护。看似必须审判的时刻,上帝却拦阻任何人加害该隐,并为他制做衣物,以此深切顾念他的灵魂。正如上帝顾念该隐一般,面对教会中彼此冲突的当事人,也应该先以劝勉靠近,让他们内心的疼痛被看见。 《腓立比书》4章2节中,保罗直言“我劝友欧底和劝循都基”,对两位冲突方都给出同样的劝勉,而非只偏向任何一人。他以此向双方展现智慧与善意,助力他们平缓化解争执。教会内部的对立常常不断加剧,其中一个主要成因,便在于领袖或周遭人因私交更好而偏袒某方,以致调解时带有成见。保罗对此深怀警惕,并鼓励当事人更勇敢地面对彼此。张大卫牧师将此举称为“兼具公正与爱的牧养关怀”,它不但能避免煽动攻击性,更能让当事人逐渐走向恢复与和解。 当年腓立比教会所爆发的内讧,与今日教会内部的争端并无二致。这个教会原由吕底亚和几位姐妹建立,在保罗心中极为珍贵。然而,一旦内部矛盾发生,也让身陷囹圄的保罗痛心不已。虽说他久经外界苦难,却坦承教会内部纷争比任何试炼都更使人沉重。张大卫牧师观察到,不少教会一遇上冲突,就急于追究“谁的错更大”,试图用指责来解决。然而,保罗的第一步不是斥责,而是先行劝勉。对教会而言,这不仅是一项基本的道德操守,更关乎属灵层面的智慧。 接下来,在《腓立比书》2章1节,保罗进一步写道:“所以在基督里若有什么劝勉、爱心有什么安慰、圣灵有什么交通、心中有什么慈悲怜悯……”。这里呈现了教会迈向合一、跨越纷争的具体路径。张大卫牧师解释道,这里提到的四要素,恰是消弭紧张对立所需的阶段。首先,“在基督里”说明,教会冲突不应像世俗那般纯以利害关系衡量,因为教会乃基督的身体,信徒之间因信心相连,因而必须在基督里化解冲突。 然而,当矛盾已然深重时,“在基督里”听来未必容易。对沉溺在愤怒、委屈与挫折中的人来说,仿佛相距遥远。张大卫牧师因此强调,所谓“劝勉”绝非“空洞教义”,而是实际的“牧养之爱”。深陷冲突的人往往思绪纠缠,旧伤累累,还会觉得自己陷于难堪与内疚。此时,比起责备,更需要切实的关怀;胜过指摘,更需要真挚的鼓励。这也是保罗在狱中写信时,依旧首先呼吁“当彼此劝勉”的原因。 张大卫牧师也提醒,劝勉并非一次性说服就能达成,若冲突当事人的情绪极度敏感,往往需反复的安慰与倾听。就此而言,教会若想整体化解争端,与其急于定论,不如花时间聆听,透过祷告求圣灵带领。要谨慎避免凭个人判断逼迫某方“认错”,反倒要鼓励双方各退一步,并自我省察。唯有历经这样细致的过程,才可能令彼此放下成见,直面问题根源,走向真和好。 爱的安慰与圣灵的交通在《腓立比书》2章1节中,保罗于“劝勉”之后继续提到:“爱心有什么安慰、圣灵有什么交通、心中有什么慈悲怜悯……”。这里的第二个关键词是“安慰”,且明确言及“爱心有什么安慰”。倘若教会内的安慰缺乏诚挚,最终也只会是流于形式。张大卫牧师举例指出,“没事,一切都会过去”式的表面安慰,有时会让当事人觉得更受伤。因为这样一来,对方的情感和处境并未被真正看见,仅以肤浅方式应对而已。 出自真挚之爱的安慰,必须先明白对方为何如此盛怒?是什么令他(或她)心力交瘁?先前是否已有隐痛或创伤?很多人陷入纠纷时,总想先“说服对方”,但在此之前,更需要给对方足够空间来倾诉。张大卫牧师解释,“爱心有什么安慰”的关键,就在于让人感觉到“有人真心理解并愿意聆听”。如能如此,对方的心门才会慢慢打开,教会化解纷争便有了真正的起点。 保罗随即补充“圣灵有什么交通”,强调真诚的安慰并不只存在于人性的情感层面。教会毕竟是属神的共同体,惟有依靠圣灵的引导,方能达成彻底医治。张大卫牧师把“圣灵的交通”理解为教会在敬拜、赞美与祷告中的全程互动。若只凭人对人的对话,情绪激烈时很容易适得其反;但在圣灵同在的敬拜或祷告小组里,人心往往被逐步软化。透过诗歌或经文默想获得神而来的安慰,人对曾经反感厌恶之人,也可能在神迹般的转变中重新看待。 张大卫牧师将这过程称为“唯有圣灵促成的奇迹”。曾经互相视为对立面的人,竟能在圣灵里开启对话,甚至流泪祷告。透过此景可见,教会的根本属性并非人类组织,而是圣灵所带领的属灵群体。无论冲突再严重,一旦圣灵工作苏醒人心,就可能在某个时刻让心墙瓦解。正因此,“圣灵的交通”是修复教会纷争不容或缺的环节。 紧接着,保罗提出“慈悲和怜悯”——在属灵层面的运作中,这同样得自圣灵的催生。卷入冲突的人,见到彼此首先涌现的往往是怨怼或愤恨。哪怕对方曾经是亲密的弟兄姐妹,如今在争端中也会成为让人心烦的对象。但若“慈悲和怜悯”生发,我们便能怜惜对方的境遇,并想起:“他也是上帝所珍爱的灵魂。”张大卫牧师说,教会纷争的悲剧之处,正是信徒互视为敌,撕裂基督的身体;反之,若能坚持慈悲与怜悯,即使冲突未彻底终结,也会先学会换一个视角去凝视对方,心中渐渐萌生“他为何会落到如此境地?”的体恤。 那些冲突长久的教会,常因情感鸿沟太深,不可能一朝一夕就拨乱反正。张大卫牧师因此劝告,教会若能在平日就建立彼此安慰、鼓励、并于圣灵中亲密相交的氛围,一旦爆发冲突,不至手忙脚乱。若在问题滋生后才匆忙介入调解,往往来不及;反之,教会若平常就用真诚营造健康的属灵共同体,冲突发生机率也较低,就算起纠纷也更容易解决。保罗在此提及的“爱心有什么安慰”与“圣灵有什么交通”,正是教会于危机时能依托的根基。 张大卫牧师多次严肃地提醒:“没有扎实属灵底子的教会,往往会因一点小事就轻易垮塌。”随着事工增多,信徒数渐增,关系也变得复杂。然而,若能持续透过祷告会、敬拜、赞美,以及小组分享等,以此构筑在圣灵中相通的文化,那么即使有冲突出现,也会迅速运用“复原力”(resilience)去化解。此复原力更会以慈悲与怜悯为果实,使教会再次稳固相连。 谦卑的心与看别人比自己强的态度保罗在《腓立比书》2章2-4节里进一步强调:“你们就要意念相同,爱心相同,有一样的心思,有一样的意念,使我的喜乐可以满足。凡事不可结党、不可贪图虚荣,只要存心谦卑,各人看别人比自己强。”这正说明,教会要在解决争端后,如何继续彼此合一并持续成长的核心原则。张大卫牧师尤其留意到保罗在这里所说的“谦卑”和“看别人比自己强”。实际上,教会内大多数冲突并非天大之事,而是源于一些小矛盾、小高傲或虚荣心上的对撞。此时,“谦卑”正是最重要的应对方式。 保罗警告信徒,不要“结党”或“贪图虚荣”。张大卫牧师进一步提到,许多教会纷争本质上皆出自“我是对的”“你们为什么不听我”的执念。若一方提出意见,另一方由于担心自身权益受损而筑起防御,双方互不相让,最终陷入僵局。为此,保罗提出“各人看别人比自己强”的劝勉,并非要真正断定对方比自己更有才能,而是一种自觉要更尊重对方的决定。 张大卫牧师坦言,这份决定并不容易。因为人被委屈、不甘和自尊裹挟时,难免想:“为何要我让步?我会不会亏了?”可若遵照保罗“各人不要单顾自己的事,也要顾别人的事”的教导,反倒会在冲突中获得更深的团契与共同体意识。他也经常引用《加拉太书》6章2节“你们各人的重担要互相担当”来诠释,教会唯有彼此背负重担,才会更坚固并减少争端。 当然,现实中并不乏“应如何帮?帮到什么程度?”的难题。对此,张大卫牧师建议,教会需在日常崇拜或平日小组中给予信徒了解彼此境况的机会。若对他人的处境毫不知情,往往会因为一句无心的话就造成伤害;但如若平日里就明白“那人也很不容易”,就能避免许多不必要的误会或争执。这样,教会即使面临冲突,也已具备可迅速修复的土壤。 张大卫牧师相信,当这种实践往复循环,教会内就会逐渐形成“看别人比自己强”的气氛。彼此尊重、彼此成全后,大家便不会再过度在意“谁坐上更高位”。耐人寻味的是,当我们摒除骄傲和自我中心,教会反而变得更加坚实与强大。这也与保罗在狱中“使我的喜乐可以满足”的心情相呼应。若他得知腓立比教会摆脱冲突、持续在合一中成长,身陷囹圄的保罗也能倍感欣慰。毕竟,这才是教会应有的面貌。 更进一步说,张大卫牧师指出,当教会学会谦卑并彼此成全,就会对世人展现更美好的福音见证。若教会内部矛盾不断,外人就会讥讽:“你们口口声声讲爱,结果自己反而争得不可开交!”但如果教会在冲突中仍能以爱彼此扶持、自行化解,它所彰显的圣灵能力和基督之心自会让世人刮目相看。因此,《腓立比书》2章的信息不仅在于内部修和,也直接关系到教会如何向世界宣扬福音的见证。 基督的心与教会的复兴最终,保罗在《腓立比书》2章5节宣告:“你们当以基督耶稣的心为心。”张大卫牧师对此倍加强调:教会要得以脱离裂痕与创伤,根本之道就是切实拥有基督的心。基督的心便是“自己卑微,取了奴仆的形象,顺服至死,且死在十字架上”的谦卑、牺牲与怜悯。保罗在2章6-8节以“赞美诗”般的口吻描述耶稣如何原具神的尊荣,却甘愿降卑,为罪人舍命至死。 因此,“以基督的心为心”不仅适用于教会内部的冲突,也关乎我们在日常信仰中应对大大小小冲突的关键。难点在于,这说来容易,真要躬行却不轻松。张大卫牧师直言:“我们有时连一点小事都能怒火中烧,感情用事在先,甚少先去体谅对方。”但基督的道路恰恰是要“倒空自己”。人性往往抗拒这点,故而导致许多教会里冲突双方都不肯放下自尊,终至各行其是。 然而,一旦“基督的心”真正临到,就会产生截然不同的复和。当我们在圣灵里祷告,默想基督的谦卑牺牲,就会先意识到自己的不足,转而先行悔改。张大卫牧师将此过程称为“与自己灵魂的对峙”。固然对方伤害过我,但我是否也同样忽视或伤害过他?在这样自省时,骄傲与怨气便渐渐融化。这种改变唯有出自圣灵的恩典。当我们默想基督的舍己,便会问:“主尚且为我这罪人降卑至死,我又为何不能包容那弟兄或姐妹呢?”就在此刻,教会内部的僵局也迎来转机。 当整个教会都持守“基督的心”,冲突不仅被化解,还会让彼此关系更为坚固,信徒生命也得以更深成长。纵观教会历史,原本势不两立的信徒,有时在圣灵运行里竟能重修旧好,且较此前更加亲密。张大卫牧师将之称为“冲突带来的反向益处”:冲突固然痛苦,但若以基督之心面对,教会反能因此经历更美好的成长。 保罗之所以对腓立比教会说“使我的喜乐可以满足”,也正基于同理。腓立比是欧洲最先迎接福音之地,由吕底亚等人聚集小型祷告团体起家,渐渐成为当地重要的教会。保罗视之为“我的喜乐和冠冕”,却惊闻此教会陷入纷争,让他在狱中也无限心痛。因而,他在书信中极力劝勉他们要回到基督的心。只要真正于基督里化解矛盾,保罗便可凌驾牢狱之苦,收获满足的喜乐。 张大卫牧师把这种情境投射到现代教会的各种分裂上,提出同样的追问:“教会若互相争斗,我们的主耶稣又会何等伤痛?”毕竟教会是用基督宝血所买赎,肩负向世界传扬神爱的使命。如果被内部纠纷缠住,不仅使命难成,还会让福音黯然失色。相对地,若能回到“基督的心”,彼此包容伤口、坦诚对话、严肃悔改,教会就会比过去更加坚韧丰盛。基督教历史里,类似例证早已不胜枚举。 更甚者,当教会活出基督的心,世人就会见证到福音那真正的力量。张大卫牧师说,毋须刻意掩饰教会的冲突,也不必粉饰太平,而应以坦率的悔改和接纳彼此的行动来回应。这样,世人反倒会看到教会如何勇于承认不足,并彼此相爱,不再只是一味说教。于是福音也因而更具说服力,让更多人相信教会不仅口讲爱,且能确实实践。 总的来说,保罗在《腓立比书》对腓立比教会所传达的信息,虽经两千载岁月,今日仍然恰如其分地适用。张大卫牧师在多次证道和讲座中不断提及,《腓立比书》2章所呈现的四项要素——劝勉、爱心的安慰、圣灵的交通,以及慈悲怜悯——正是医治矛盾与冲突的核心环节,而贯穿这四环节的精髓就是“基督的心”。教会不论经历多大的风浪,只要紧紧持守这颗心,就能跨越分裂,化危机为更成熟的共同体。教会对于冲突的应对方式,决定了能否把生命之福音传递给人,也决定了别人是否会因失望而离开。腓立比教会的教训,正好给我们借鉴。 我们毕竟都是软弱、易犯错的群体,但张大卫牧师认为,这份软弱也许反而能令教会更加坚固。如果人人能在谦卑中重视彼此,并从心底努力效法基督的品格,冲突就会成为灵命提升的契机。正如保罗虽身陷牢狱,但仍殷切担忧腓立比教会的纷争,在信中不断“劝勉”和“鼓励”他们;今天的教会领袖与信徒,同样要彼此秉持这份态度。 于是,《腓立比书》2章中保罗那句“你们当以基督耶稣的心为心”,不仅是解决教会纷争之关键,更是信仰群体迈进的根本方向。张大卫牧师始终坚守这信息,致力于牧养各处教会,安抚因分裂而受伤的人,中心主旨一直围绕“基督的心”。当教会众人真能共享这心思意念,世人便会透过教会看见神的爱与救赎。腓立比教会在早期本是热情洋溢却遭遇内讧,保罗给出的最后处方仍是“效法基督”。这也是张大卫牧师一再传递的讯息:唯有存谦卑与爱彼此服事,纷争才能成为新的合一起点,使保罗所期盼的“充满喜乐的教会”在今日眼前得以成就。

教会の紛争と勧め – 張在亨牧師

教会の紛争と勧め 今日、私たちがピリピ人への手紙を読むとき、パウロがピリピ教会に伝えようとしたメッセージは、単なる信仰生活全般の教理的説明ではなかったという事実に改めて気づかされる。彼は手紙を記した当時、牢獄に囚われの身だった。そして、各地を巡って福音を伝える長年の宣教において、外部からの迫害よりもむしろ教会内部の紛争こそが、最も痛切な苦しみだったと告白している。とりわけピリピ教会は、パウロがヨーロッパ宣教を開始する際、最初に足を踏み入れた都市であり、そこではルディアをはじめとした数人の女性たちが開拓メンバーとなって福音の基礎を築いた。ところが時の経過とともに、内部の対立が深刻化していったのだ。この状況に直面したパウロは、厳しい叱責ではなく、穏やかで美しい調子で問題解決を提案している。張在亨牧師も、今日の教会において紛争が生じた際には、パウロのアプローチに倣うべきだと強調する。すなわち、柔和な勧めと励ましから始まり、対立を癒やすプロセスが何より大切だというのである。 張在亨牧師は数多くの説教を通じて、教会内での紛争や対立を回復に導くためには、最終的に「キリストの心」を抱くことが不可欠だと繰り返し語ってきた。私たちは往々にして、当事者を強く叱責するか、一刀両断に問題を裁く方法を想像しがちである。しかしピリピ2章1~4節に目を向けると、パウロはむしろ穏やかさによって問題に対処している。パウロが提示する第一の鍵は「勧め」である。勧めとは、互いに力を与え、魂を励ます行為だ。それは「頑張れ」「大したことではない」などの気休めとは一線を画し、当事者の心の奥底を見つめる姿勢から始まる。人はしばしば自己合理化をする一方、罪悪感や羞恥心に苛まれることもある。張在亨牧師は創世記のカインの物語を例に挙げ、弟を殺害したカインですら、神はすぐに罰するのではなく、まずは彼を保護されたと振り返らせる。裁きが当然と思える場面ですら、神はカインを害されないよう守り、革の衣を与えて根本的なケアを施された。これと同様に、教会紛争の当事者にもまずは勧めを通じて近づき、内面の苦しみを理解してあげることが重要だという。 実際、ピリピ4章2節でパウロは「ユウオディアに勧め、スントケにも勧める」と記し、紛争当事者双方に対して平等に勧めを行った。これは一方のみに味方するのではなく、両者に対して同様にアプローチし、対立を穏やかに解こうとする態度を表している。教会内の紛争が激化する原因のひとつに、指導者や周辺の人々が自分と親しい側だけをかばう偏った仲裁がある。パウロはそうした姿勢を警戒し、当事者同士がきちんと向き合うよう導いたのだ。張在亨牧師は、このパウロのやり方を「公正さと愛が調和する牧会的ケア」と呼んでいる。こうしたケアこそ、紛争当事者にさらなる攻撃心を煽ることなく、回復と和解を実現させる鍵だと強調する。 このように、ピリピ教会に起こった紛争は、現代の教会においても基本的には変わらない問題だと言える。ピリピ教会はルディアら女性たちを中心に設立され、パウロにとって特別に愛着のある共同体だった。しかしある時点で内部の対立が生じ、牢にいるパウロの心を深く痛めつけた。長年迫害や苦難を耐え抜いてきたパウロでも、教会内部の紛争は何より重い負担だったのである。張在亨牧師は、教会に紛争が起こると、多くの人々が「どちらがより大きな過ちを犯したか」を問い詰め、叱責でもって決着を図ろうとする姿勢を問題視する。だがパウロは、まず勧めるという手段を選んだ。これは教会が紛争下で守るべき基本的な倫理観であり、また霊的な知恵でもある。 さらにピリピ2章1節でパウロは、「もしキリストにあって何か勧めがあり、愛にあって何か慰めがあり、御霊にあって何か交わりがあり、憐れみや慈しみがあるなら…」と述べ、教会が一致し、紛争を乗り越えるための具体的な道筋を示している。張在亨牧師はここで示される四つの要素を、緊張や不和を解決するプロセスだと解釈する。まず「キリストにあって」とは、教会における紛争が世間一般のように利害関係で判断されてはならない、という前提を示す言葉だ。教会は本来、イエス・キリストの体であり、私たちは信仰によって結ばれた共同体であるがゆえ、紛争も「キリストにあって」解決すべきということである。 実際に、紛争が激しくなるほど、この言葉は当事者にとって簡単には受け入れがたい場合がある。怒りや悔しさ、挫折感に捕らわれている人には、「キリストにあって」という表現そのものが非常に遠いものに感じられるだろう。だからこそ張在亨牧師は、勧めを「抽象的な教義」ではなく、紛争の渦中にいる人々を実際に包み込む「牧会的な愛」だと説く。争い合う人々の胸の内は複雑であり、深い傷を負い、ときには自分への嫌悪感さえ抱えていることもある。このとき最も必要とされるのは、叱責ではなくケアであり、非難ではなく励ましなのだ。パウロが牢獄から手紙を送る際に、真っ先に「互いに勧め合え」と書き送ったのも、そのためである。 張在亨牧師はまた、勧めは一度の説得だけでは足りないと指摘する。紛争当事者が感情的に極度に敏感になっている場合、一度話をした程度では不十分で、繰り返しの励ましや慰めが求められる。こうした点で、教会の共同体全体が紛争解決の過程に関わるとき、性急に結論を出すのではなく、相手の声に丁寧に耳を傾け、祈りによって聖霊の導きを仰ぐ必要がある。私たち自身の判断だけで誰かを追い詰めるのではなく、全員が少しずつ譲歩し、お互いを省みるよう促すことが大事だ。こうしたプロセスを経てこそ、互いの心が開き始め、根本的な原因を認め合い、和解へと向かうことができる。 愛の慰めと聖霊の交わり パウロはピリピ2章1節で、勧めに続いて「もし愛にあって何か慰めがあり、御霊の何か交わりがあり、憐れみや慈しみがあるなら」と語る。ここで重要となる二つ目のキーワードは「慰め」だが、はっきり「愛にあって」と付け加えられている点に注目したい。教会の中でも「慰め」のやり取りはあるが、そこに真心が伴わなければ、表面的な解決に終わってしまいがちだ。張在亨牧師はよく、「大丈夫、すぐに終わるよ」といった言葉が、かえって紛争当事者を深く傷つける場合もあると指摘する。なぜなら、紛争を招いた当事者の心情や状況に丁寧に寄り添うことなく、うわべだけで対応してしまう可能性があるからである。 真の「愛にあっての慰め」は、相手がどうしてそこまで怒りを爆発させたのか、その魂を疲弊させた要因は何か、もともと心に積もっていた傷や苦しみは何なのかを探るところから始まる。私たちは紛争の場面で、相手を説得したり納得させたりしようと焦るが、その前に相手が十分に自分の思いを語れる空間を提供する必要がある。張在亨牧師によれば、「愛にあって何か慰め」とはまさにそうした場を設定し、本気で相手を理解して聞く行為だという。自分が追いつめられているときに、少なくとも一人だけでも心から理解し、話を聞いてくれる人がいるなら、自然と心の扉が開き始める。そのとき、はじめて本格的な紛争解決の糸口がつかめるのである。 またパウロは「御霊の何か交わり」とも付け加え、単なる人間的な感情のやり取りだけでは、こうした愛の慰めは完成しないことを強調する。教会は神の共同体であり、真の癒やしは聖霊の助けを通じてこそ可能となるからだ。張在亨牧師は、この「聖霊の交わり」を礼拝や賛美、祈りの集会など、教会のあらゆる営みとして解釈する。人間同士だけが向き合っていると、感情が高まった状態で更なる傷を与え合ったり、逆に相手を一層傷つけてしまうことがある。しかし聖霊の臨在がある礼拝や祈祷会、小グループの交わりでは、心の防御機構が徐々に解かれていく可能性がある。賛美の歌詞や御言葉の黙想を通じて神からの慰めを感じると、憎しみを抱いていた相手が少しずつ異なる姿に見えてくるのだ。 張在亨牧師は、こうした変化を「聖霊だけが起こすことのできる奇跡」と呼んできた。深い対立の末に背を向け合った人々が、聖霊のもとで対話し、涙を流し合いながら祈る姿こそが、教会における紛争解決の本質を明確に示している。教会は人間が運営する組織である以前に、聖霊の導きに委ねられている霊的共同体だからだ。どれほど深刻な紛争であっても、聖霊の働きの前では、ある瞬間に心の壁が崩れる可能性が生まれる。ゆえに「御霊の何か交わり」は、教会の紛争解決に不可欠な要素なのである。 続けてパウロが言及する「憐れみ」と「慈しみ」も、聖霊の働きによって初めて成立する。紛争の渦中にいる人々は、相手を見ると憎しみや怒りが先立つ場合が多い。かつては親しく交わっていた兄弟姉妹でも、今や対立関係にあるため、煩わしさや不快感しか感じられないことも珍しくない。しかし、憐れみと慈しみが心に与えられると、その人の内面を思いやり、「あの人も神が愛してくださる魂だ」という視点を取り戻すことができるようになる。張在亨牧師は、教会紛争における最大の悲劇は、信徒同士が互いを敵視し、キリストの体を傷つけ合うことだと指摘する。一方で、憐れみと慈しみを実践し始めると、紛争の真っ只中でも相手を新しい目で見る可能性が開ける。つまり、「なぜあの人は、あのようにしか振る舞えなかったのだろう」という理解の感情が少しずつ芽吹いてくるのである。 長引く紛争を抱えた教会ほど、感情の溝が深く、簡単には解決に至らないことが多い。だからこそ張在亨牧師は、教会が日ごろから互いに慰め合い励まし合い、聖霊の交わりを十分に持つ習慣を築くことを強く勧める。問題が生じてから仲裁に奔走するのではなく、健全な信仰共同体として日々を積み重ねていれば、そもそも深刻な対立が起こりにくい。たとえ紛争が起きたとしても、すでに根付いている聖霊の交わりがあれば、解決に至る時間が短縮される。結局、パウロが示した「愛にあって何か慰め」と「御霊の何か交わり」は、紛争の瞬間を乗り越えるために教会が前もって用意しておくべき霊的基盤なのだ。 張在亨牧師は数々の説教の中で、「こうした霊的基盤が欠けている教会は、小さな問題でも容易に崩れてしまう」と警鐘を鳴らしている。活動が増え、教会員が増加すれば、互いのケアはますます複雑になる。それでも、祈祷会や礼拝、賛美の時間、小グループの交わりを通して継続的に聖霊のうちで交わる文化を築いておけば、紛争が生じても、互いを顧みる“回復力(レジリエンス)”が発揮されるのだ。そしてこの回復力こそ、憐れみと慈しみという実を結び、教会全体を再び安定へ、さらには一致へと導く原動力になる。 謙遜な心と「自分より他人を優れた者とみなす」姿勢 パウロはピリピ2章2~4節で、「心を合わせ、同じ愛の心を持ち、思いを一つにして、何事も利己的な争いや虚栄からするのではなく、へりくだった思いをもって互いに相手を自分よりも優れた者とみなしなさい」と、より直接的な勧めを述べている。これは、教会が紛争を解決したあと、どのようにして引き続き一致し、成長していけるのかを示す核心原理である。張在亨牧師は、とりわけ「謙遜」と「他人を自分より優れた者とみなす態度」を重要視する。教会で起こる紛争の多くは、大きな教理や理論の対立ではなく、ちょっとした誤解や自慢、虚栄心など、小さく見える感情的衝突がきっかけになることが多い。その際、最も必要なのが「謙遜な心」というわけだ。 パウロは「何事も利己的な争いや虚栄によって行ってはならない」と警告する。張在亨牧師によれば、教会紛争の多くが「私のほうが正しい」「なぜ私の意見を無視するのか」という承認欲求から始まるという。ある人が自分の主張を押し通そうとすれば、相手も自分の権利を守るために身構え、結局双方が意地を張り合い、深刻な対立へと発展してしまう。このような状況のなかで、パウロは「ただへりくだった思いをもって、相手を自分よりも優れた者とみなせ」と命じる。これは、相手が実際に自分より能力が高いか否かという話ではなく、相手をより深く尊重するための意志を示す行為なのだ。 張在亨牧師は「この決断を下すこと自体が容易ではない」と率直に語る。なぜなら、悔しさや怒り、プライドが私たちの胸を支配し、「少しでも譲歩すれば自分だけが損をするのではないか」という不安を抱きやすいからである。しかしパウロが具体的に示す「それぞれ自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい」という教えを実践してみると、紛争のただなかにあっても、むしろより深い関係性や共同体意識が生まれる。張在亨牧師は、しばしばこの言葉をガラテヤ6章2節「互いの重荷を負い合いなさい。そうすることでキリストの律法を全うすることになる」と結びつけて解説する。自分自身の重荷をしっかりと担うだけでなく、他者の重荷もともに負おうとするとき、教会はより強固になり、対立も緩和されるのである。 もちろん現場では、誰がどこまで相手の重荷を代わりに背負うのか、どこまで理解し支援すべきかといった複雑な問題が生じうる。だからこそ張在亨牧師は、教会が毎週の礼拝や週中の小グループを通じて、信徒の置かれている事情を詳しく知る機会を設けるよう勧めている。相手がどんな状況に直面しているのか知らなければ、たった一言の不用意な発言でも大きな傷を与える恐れがある。しかし先に相手の状況を把握していれば、「あの人も大変だから、あんなふうになるのだろう」と理解でき、不必要な衝突を防げるのだ。こうした取り組みを通じて、教会がふだんから同じ心を持って互いを気遣い、仕え合っていれば、いざ紛争が起きてもすぐに和解へ向かえる土台が整っている。 張在亨牧師は、このような実践が繰り返されるうちに、教会に「自分より他人を優れた者とみなす」雰囲気が醸成されると説く。互いを尊重し、立て合う過程を積み重ねることで、「誰が上に立つのか」をめぐる争いそのものが不要になっていく。皮肉にも、私たちが高慢や独善を捨てたとき、教会はかえって一層健全で力強い共同体へと成長する。こうしてパウロが獄中から「私の喜びを満たしてほしい」と記した真意が、改めて明るみに出る。ピリピ教会が紛争に煩わされることなく、一致した姿を見せてくれたなら、パウロは監獄の中にいようとも大きな喜びを得たに違いない、ということだ。要するに、これこそが教会が保持すべき根本姿勢なのである。 さらに張在亨牧師は、こうして互いに謙遜に仕え合う教会こそが、世に対して福音の香りを放つ証人になり得ると語る。もし教会が内部対立ばかりなら、人々は「愛し合えと言っているのに、なぜあの教会はあんなふうなのか?」と嘲笑するだろう。一方で教会が、紛争や対立を経験しながらも、自ら愛と仕え合いによって問題を克服していく姿を示すなら、人々は教会に注がれる聖霊の力とキリストの心を目撃するようになる。したがってピリピ2章のメッセージは、単なる内部問題の解決策にとどまらず、教会が世に福音を伝えるうえでも決定的な意味を持つ核心なのだ。 キリストの心と教会の回復 結論として、ピリピ2章5節でパウロは「あなたがたの間ではこの思いを抱きなさい。キリスト・イエスのうちにある思いです」と言い切る。張在亨牧師はこの聖句を最重要視し、教会が分裂や傷から回復するためには、「キリストの心」を真に抱くしかないと説いている。キリストの心とは、すなわち「ご自身を低くし、しもべの姿をとり、十字架の死に至るまで従順に歩まれた」謙遜と犠牲、憐れみと慈しみの心である。パウロは、この心を続く2章6~8節で賛歌のように描き出し、イエスが本来神の身分でありながら、罪人のために最も低いところにまで下られ、死に至るまで従われたことを強調している。 このようにキリストの心を抱くことは、教会の紛争だけでなく、私たちの信仰生活で直面するあらゆる葛藤を解くための要ともなる。問題は、それが言葉で言うほど容易ではない点にある。張在亨牧師は「私たちは小さな衝突でも簡単に怒りを爆発させ、感情が先行し、相手を思いやる前に自分の悔しさを訴えてしまう」と語る。こうしたときこそキリストの道、すなわち「自己を空しくする」ことが必要だが、人の本性はそれを拒もうとする。それゆえ、当事者同士が互いのプライドを下げられず、平行線をたどるケースは教会内でも珍しくない。 しかし「キリストの心」が実際に私たちの中に受け入れられるとき、まったく別次元の回復が起こり得る。聖霊の前に祈り、キリストの謙虚と犠牲を黙想するうち、私たちは相手の過ちを責める以前に自らを省みて悔い改めるようになる。張在亨牧師は、この過程を「自分の魂との対面」と呼ぶ。相手からの傷は大きいとしても、自分が先に相手を見下し、傷を与えていなかったかと再評価する機会が訪れるからだ。こうして高慢と怒りが溶解していく体験は、自力ではなく、聖霊から与えられる恵みによる。キリストの犠牲を黙想するとき、「主は私のような罪人のためにこれほどまで低くなられたのに、なぜ私は兄弟姉妹を受け入れられないのか」と悟らされるのである。 教会全体がこの思いを共有すれば、紛争が解消されるだけでなく、むしろ以前より絆が強化され、成熟が深まるということを何度も目撃してきたのが教会史でもある。互いを嫌悪していた人々が真実に和解し、以前以上に親密になる例が繰り返し存在するのだ。張在亨牧師はこれを「紛争がもたらす逆説的な祝福」と呼び、「紛争自体は痛ましいが、それをキリストの心で解決していくなら、教会はかえって一層美しく成長する」と強調する。 パウロがピリピ教会に「私の喜びを満たしてほしい」と求めたのも、まさに同じ文脈である。ピリピ教会はヨーロッパで初めて福音が伝えられた都市であり、ルディアらが始めた小さな祈り会から出発して、地域に福音を広げる中心的な教会となっていった。パウロはこの教会を深く愛し、「私の冠」と呼ぶほど大きな喜びを得ていた。ところが、その最愛の教会が紛争に巻き込まれたという知らせは、獄中のパウロをいっそう苦しめた。だからこそ彼は手紙で、キリストの心を回復し、互いに和解するよう強く訴えたのである。ピリピ教会が一時紛争状態にあったとしても、パウロの勧めどおりキリストにあって和解するなら、パウロは牢獄という環境を超える充ちあふれた喜びを得るに違いないからだ。 張在亨牧師は、現代の教会が抱える多種多様な紛争に関しても、まったく同じことが言えると指摘する。「教会が分裂しているとき、私たちの主イエス・キリストはどれほど心を痛められるだろうか」と。その教会は、イエスがご自分の血をもって買い取られ、世に神の愛を伝える使命を委ねられた共同体である。しかし紛争や対立の中で互いを傷つけ合っているなら、本来の使命を果たしづらい。一方、「キリストの心」に立ち戻ってお互いの傷を癒やし、必要であれば厳しいほどの話し合いや悔い改めを伴う本物の和解を成し遂げたとき、教会は以前にも増して強靱で豊かな共同体に変えられる。これはキリスト教史の各所で証明されてきた事実でもある。 さらに教会内に「キリストの心」が具体的に実行されると、世の人々は教会を通して福音のリアルな力を味わうようになる。張在亨牧師は、教会が紛争を隠蔽したり取り繕うのではなく、素直に悔い改めと相互の受容を選ぶ姿勢を見せるとき、かえって世は「教会という場所は、失敗を認め合い、愛で包み合うところなんだ」と目の当たりにし、福音の説得力をいっそう感じるようになる、と力説する。こうして人々は、教会がただ“愛”を口にするだけでなく、それを実際に生きていると知るのだ。 要するに、パウロがピリピ教会に示したメッセージは、2000年の時を経た今日でも教会にそのまま当てはまる。張在亨牧師は、多くの説教や講演で、ピリピ2章が示す四つの要素――勧め、愛の慰め、聖霊の交わり、憐れみと慈しみ――こそが、紛争を癒やす核心ステップであると繰り返し語ってきた。そしてそれらすべてを貫くのが「キリストの心」である。いかに激しい対立の嵐が吹き荒れようとも、この心を守り続ける教会であれば、分裂を乗り越えてより成熟した共同体へと生まれ変われる。教会が紛争をどう扱うかによって、人々の魂にいのちをもたらすこともあれば、逆に失望させて信仰の道から遠ざけてしまうこともある。そういう意味で、ピリピ教会の事例は私たちに非常に大きな教訓を与えている。 人は皆、弱く、失敗しやすい存在である。けれども張在亨牧師は、その弱さこそがむしろ教会を一層強くしていく契機になり得るのだと説く。へりくだって互いを大切に思い、心の奥深いところでキリストの品性に倣おうと努めるならば、紛争はむしろ霊的成長の扉になる。パウロが牢獄に囚われながらも、教会内部の紛争を憂慮し、手紙で切々とピリピの信徒を「勧め」「励まして」いたように、現代の教会指導者や信徒もまた、互いに同じ態度を求められているのだ。 結局、ピリピ2章でパウロが高らかに宣言した「あなたがたの間ではこの思いを抱きなさい。キリスト・イエスのうちにある思いです」という言葉は、教会紛争の解決にとどまらず、信仰共同体が向かうべき根源的な方向を示すものだ。張在亨牧師はこのメッセージを軸に、多くの教会を支え、分裂によって傷ついた人々を慰め、包み込む働きに献身してきた。その中心には常に「キリストの心」というテーマがある。教会がこの心を共有するとき、世は教会を通して神の愛を見いだし、救いの福音を体験するだろう。初期のピリピ教会が持っていた熱い情熱と献身が、紛争によってかすみそうになったとき、パウロは最後の処方箋として「キリストを見習いなさい」と命じた。そしてこれは、張在亨牧師が今日も変わらず示している揺るぎないメッセージでもある。教会が謙遜と愛をもって互いに仕えるならば、紛争はかえって新たな一致への始発点となり、パウロが願った「喜びに満ちる教会」が私たちの目の前に実現するのである。