Pasteur David Jang, Matthieu 13 et le Royaume de Dieu

Mots‑clés de recherchePasteur David Jang • Matthieu chapitre 13 • Paraboles du Royaume • Parabole du semeur • Parabole de l’ivraie • Parabole du grain de sénevé et du levain • Parabole du trésor caché • Royaume de Dieu • Enseignements de Jésus • Mission du disciple Les paraboles de Matthieu 13 ne sont pas … Read more

张大卫牧师,马太福音13章与神的国 元描述 

马太福音13章并不是一连串抽象艰深的宗教命题,而是把神国的真相嵌入日常景象:田里的播种、面团里的酵、海中的渔网。张大卫牧师强调,耶稣用这些生活化的画面告诉我们,神的国如何开始、怎样成长、为何值得人欢喜地以全部交换,并且终将如何完成。换句话说,信仰不只是周日的仪式,更是每一天的生活方式,它会改变我们当下的选择、习惯、关系,乃至工作的动机与方法。 若回到叙事的背景,马太福音11章带出一个关键时刻:施洗约翰被囚,心中起了疑惑,问耶稣是否就是“那要来者”。耶稣没有展开长篇理论,而是指向弥赛亚的记号——看见的眼、行走的脚、临到贫穷人的福音。张大卫牧师把这视为旧时代谢幕、新时代开门的转折:约翰站在期待者的位置,门徒则成为跟随“已来者”的见证人。这里的“天国是努力进入的”,与其说是攻击性的冲撞,不如说是没有迟疑的决断。人在福音面前立定心志的那一刻,新的时代就已经开启,于是耶稣用一连串比喻铺展神国的宏图。 首先是撒种者的比喻,这讲的是起点:神的话语像一粒带生命的种子,而我们的心与群体像一块等候耕耘的田。路旁的坚硬让种子被夺走;石地的浅薄使幼苗遇难即枯;荆棘地的焦虑与贪恋挤压了根。只有悔改使心变得柔软诚实,田才成了好土。张大卫牧师提醒,听道很重要,但更要养成“耕心”的习惯:安静祷告、持续默想、微小却真实的顺服、坦诚的对话、节制虚荣的操练。这些看似平凡的动作,正为种子留出生长的空间。果子未必马上可见,但生命会在“时候满足”时显出来。我们的责任不是焦虑地催促结果,而是以信赖取代急躁,把每一天做好。 稗子的比喻把镜头拉向现实的复杂:好种之田中仍有稗子。人的直觉是赶紧拔除,但主人却说让两样一起长,等到收割再分开。这不是放弃分辨,而是承认人分辨的有限,避免在热情中误伤麦子。张大卫牧师由此强调一种平衡:一方面清楚持守真理,另一方面对人的光景保持谦卑与克制。最终审判属于神,在未到终局之前,忍耐与祷告常常比迅速的定论更可靠。我们既不因稗子的存在而沮丧,也不因自觉像麦子就自满,当下更重要的是确认自己该往哪一个方向成长。公义必会显明,而在这之前,是神的慈悲在为世界与教会保留时间。 芥菜种与面酵的比喻讲的是扩张与转化。再小的种子也能长成遮荫之树,再少的酵也能使全团发起来。用现代的话说,芥菜种像关系网络的扩散,面酵像文化结构的渗透。一个不显眼的诚实选择、一顿不求回报的款待、一段持续的代祷,都会悄悄地向外扩展,终有一天改变人们的常识与制度。张大卫牧师因此劝勉我们,不要执着于规模与数字,而是坚持“种子与酵”的逻辑——投入微小却本质的东西。今天的细微忠诚,正在为明天的丰盛荫凉与清新气息预备基础。 藏宝与重价珠子的比喻聚焦价值的重排。那人与商人之所以“欢欢喜喜”地变卖所有,是因为看见了更好的东西,舍弃不再是勉强,而是明智的交换。福音不是诸多选项中的一个,而是让整张清单重写的中心。于是时间管理、金钱与才干的使用、关系的建立与修复、工作的目的与衡量,都围绕这“更好的”而重新排列。信仰不仅在主日出现,更进入职场的公义、家庭的责任与爱、对弱者的照顾,以及与受造界和好的生活习惯。为了宝藏与珠子而付上的代价,会以另一种喜乐归还;这就是神国的“经济学”。 撒网的比喻把视野放到群体的边界。网罗起“各样”的鱼,表明福音的邀请极其宽广;但最后“好的与坏的要分开”,说明神的标准并未模糊。作“得人如得鱼”的人,不仅是人数的增加者,更是建立学习、操练、分辨、成圣的共同体的人。教会要学会在包容与圣洁之间维持健康张力;个人则要在欢喜领受恩典的同时,通过顺服的操练来梳理生活。 当耶稣讲完这些比喻,又谈到“为天国作门徒的文士”。他像家主从库里拿出新旧的东西,既明白旧约的启示,也把握其在基督里的成全。张大卫牧师主张一种“不对立而整合”的读经观:在福音之内理解旧新约、律法与恩典、传统与创新的关系。这样的视角会影响我们处理伦理、经济、科技、文化、政治与教育的态度:既尊重创造秩序与人的尊严,又不把人降格为工具;爱邻舍不止停在情感与捐助,还追求结构性的公义。能融通新旧的智慧,最终会成为改变现实的力量。 把这些比喻放在一起看,可以看见神国运转的三股动力。第一,话语的种子改变个人与群体的深层结构;第二,神的忍耐为历史与教会维持时间的空间;第三,喜乐的献身重排价值的序列。这些动力在家庭与职场、学校与城市、线上与线下同时运行。微小的灵修、诚实的汇报、节制过度消费、为弱者预留时间、先道歉的勇气、主动促成和解、减少垃圾、珍惜受造——这些普通的选择,像芥菜种与面酵般缓慢而坚定地改变风景。 因此,张大卫牧师反复提醒:看重“方向”而非“结果”。果子是神所赐,而定向并迈步是人的本分。悔改翻耕,使我们不断校正方向;在稗子之间的忍耐,使我们守护方向;看见宝藏与珠子的喜乐,则推动我们向前。若我们像监狱中的约翰那样动摇,就再一次确认福音的记号:软弱者得力、瞎眼者复明、忧伤者得安慰——耶稣正在这些地方作工。跟着这些记号走,比喻就会变成灯,照亮脚前的路。 如今,轮到韩国教会与散居世界各地的基督徒,用今天的语言来诠释并实践这些比喻。信仰会从个人的偏好,迈向公共的责任;礼拜会成为整周的节奏;宣教会在尊重他者文化的款待中呈现;门徒之道会超越比较与竞争,显为成熟稳重。我们像种子与面酵成为社区的枢纽,在稗子面前学谦卑,在渔网之中同学真理与爱。那种手里拿着“新与旧”的圣经想象力,使我们在持守传统时不僵化,在追求创新时不失根基。重要的是信赖经文,也相信这份信赖带来的缓慢而确实的改变。 最后,马太福音13章把问题丢回给我们:现在,我的心是怎样的田地?我欢喜地舍弃什么,又换取了什么?我作为怎样的“渔夫”,在何处撒网?对这些问题的坦诚回应,就是我们今天该做的顺服。顺服的累计会改变景象:家庭更温厚,职场更正直,城市更宽容。像面酵那样缓慢,却不会出错;像种子那样不起眼,却终会显明。神的国已经临到我们中间,如今仍在成长,并终将荣耀地完成。所以,今天就开始耕心、播种,忍耐稗子,做芥菜种与面酵那样的渗透者。 www.davidjang.org

張ダビデ牧師、マタイによる福音書13章と神の国

マタイ13章に並ぶたとえ話は、難解な専門用語で組み立てられた抽象理論ではありません。畑に種をまく農夫、パン生地に混ぜるパン種、海に投げ入れる網といった身近な情景を通して、神の国がどのように始まり、どう広がり、何を価値とし、どのように完成へ向かうのかを、極めて現実的に描いています。張ダビデ牧師は、これらを「今・ここ」という私たちの実存の場へと引き寄せます。旧約の約束はイエス・キリストという人格において現実となり、その現実は私たちの選択、習慣、人間関係、働き方にまで及び、根底から変えていく――この視点が軸です。ゆえに、信仰とは日曜の儀式に閉じ込められた行為ではなく、日常を貫く生き方そのものだ、という事実が見えてきます。 文脈を押さえると、たとえの意味はさらに鮮明になります。マタイ11章で、牢の中のバプテスマのヨハネは「来るべき方はあなたですか」と尋ねました。これは不信ではなく、時代の変わり目に立つ預言者の真摯な問いです。イエスは神学講義ではなく、盲人が見え、足の不自由な人が歩き、貧しい者に福音が告げ知らされるという、到来のしるしを示されました。張牧師はここに「古い時代の終わりと新しい時代の始まり」という歴史的分岐点を見るのです。ヨハネは「来られる方」を待った最後の証人、弟子たちは「既に来られた方」に従う最初の証人でした。「天の御国は激しく押し進められている」という言葉は、暴力の勧めではなく、先延ばしをやめて福音に応答する決断の緊張を表します。まさにこの文脈の中で、イエスは神の国の全体像を一連のたとえとして開示されました。 出発点は命を宿した「みことば」という種です。畑は私たちの内なる心であり、同時に私たちが属する共同体でもあります。道ばたのように固くなった心には根が下りません。石地のように浅い心は試練に耐えられません。茨に覆われた心は、思い煩いと富への渇望に窒息します。けれども、悔い改めによって耕された良い土地――誠実な心――は、成長のための受け皿となります。張牧師は、「みことばをどれだけ聞くか」と同じくらい「心の畑を耕す習慣」が重要だと語ります。静かな祈り、継続的な黙想、日々の小さな従順、偽りのない対話、不要な飾りを削ぐ節制――こうした実践が土壌を豊かにします。収穫はすぐには見えなくても、時が来れば芽は出ます。焦らず、信頼して日々の務めを積み重ねることが私たちの責務です。 良い種が蒔かれた畑に、敵が夜のうちに毒麦を蒔きました。人間の感覚は即時の排除を求めますが、主人は「収穫まで待ちなさい。今抜けば麦まで痛む」と言います。これは、教会と社会に善と不善が混じり合う現実への現実的な答えです。張牧師は、ここに「人間の分別の限界」を認める謙遜を見ます。真理の基準は守りつつも、性急に断罪しないこと。最終的な裁きは神の主権にあり、私たちは忍耐と祈りにとどまるのが賢明です。毒麦の存在に絶望するのでも、自らを麦と決めつけて傲慢になるのでもなく、今日どの方向に成長すべきかを見つめ直す。神の公義は必ず顕れ、その時まで神の憐れみが時間を支えている――この希望を手放さないことです。 極小のからし種は、やがて鳥が巣づくほどの木になり、少量のパン種は生地全体をふくらませます。現代の言葉に置き換えれば、からし種は「関係のネットワークの有機的拡大」、パン種は「文化の内側からの質的浸透」です。目立たない善意、地道な誠実さ、静かなもてなし、粘り強い執り成し――こうした行為が、やがて常識や制度を動かします。張牧師は、このロジックを信頼するよう勧めます。外側の数や規模に固執せず、内在する力――小さいが本質的であること――を着実に蒔き、混ぜ込む。今日のささやかな誠実さが、明日の木陰と香りを生むのです. 宝を見つけた人も、最上の真珠を求めていた商人も、「喜びのあまり」全財産を売ってそれを手に入れます。ここでの中心は、義務による犠牲ではなく、最高価値を見出したことから湧き上がる喜びです。福音は選択肢のひとつではなく、リストそのものを書き換える中心です。だから弟子道は一時的な熱心さではなく、人生の構造を変える持続的な決断となります。時間・財産・才能の用い方、人間関係のスタイル、労働の目的――すべてが再編されます。影響は礼拝堂を越え、職場の公正、家庭での責任と愛、社会的弱者への配慮、被造世界の保全へと広がります。「宝と真珠のために喜んで払った代価」が、さらに深い喜びとして戻ってくる――これが神の国の経済学です。 海に投げ入れられた網は、さまざまな魚をすくい上げます。福音の招きは出自や身分、過去を問わず開かれています。しかし最後には、良いものと悪いものが選り分けられます。招きは広いが、基準は曖昧ではありません。張牧師は「人間をとる漁師」の務めが、単なる数の拡大ではないと指摘します。広く迎え入れる一方、共同体の内側では、訓練・分別・成熟・聖化を育む環境が不可欠です。安価な恵みは存在せず、弟子の道は明確です。教会は包摂性と聖性の健全な緊張を学び、個人は恵みへの感謝から従順の訓練に歩み出します。 物語の締めくくりで、イエスは「倉から新しいものと古いものを取り出す家の主人」の比喩を語ります。弟子は、旧約(古いもの)とキリストにおいて成就した福音(新しいもの)を統合的に理解し、時代が求める真理を適切に差し出す者です。張牧師は、聖書を二元論で割らず、福音という光の下で全体を調和させる読み方の訓練を強調します。旧約と新約、律法と福音、伝統と革新を対立させずに調停する視座です。そうして社会課題を見るとき、倫理・経済・科学・文化・政治・教育に向き合う姿勢も変わります。創造の秩序と人間の尊厳を記憶するなら、技術の進歩を肯定しつつ、人を手段に落とすことを退け、隣人愛は感情的施しを越えて構造的正義の追求へと深まります。新旧をともに扱う知恵こそ、現実を変える力になるのです。 13章全体をひとつの流れとして読むと、神の国を動かす三つの原動力が見えてきます。第一に、みことばの種が、個人と共同体の深層を変えます。第二に、神の忍耐が、歴史と教会の時間を摂理的に支えます。第三に、喜びに根ざした献身が、価値の序列を覆します。この三つは、家庭・職場・学校・都市、オンライン/オフラインの区別なく働きます。日々の聖書研究、仕事での正直な報告、過剰消費を抑える節制、弱い隣人を迎えるもてなし、過ちを認めて先に謝る勇気、関係修復のための和解、環境に配慮した生活――これら一つひとつの平凡な選択が、からし種やパン種のように静かに、しかし確実に世界へ浸透していきます。 張牧師は繰り返し「結果ではなく方向」を見るよう促します。実りを与えるのは神であり、正しい方向に歩み続けるのが私たちの応答です。悔い改めが方向を定め、毒麦の前での忍耐が方向を保ち、宝と真珠の喜びが最後まで押し進める力になります。現実という牢獄の中で、ヨハネのように心が揺れる時もあるでしょう。その時は、福音のしるしをもう一度確かめればよいのです。弱い者が力を得、見えなかった者が見えるようになり、失意の人が希望を見出す――そこにイエスの働きは今も現れています。このしるしに従うなら、たとえのみことばは私たちの道を照らす光となります。 今や、韓国の教会、そして世界に散るキリスト者たちが、自分たちの時代の言葉でこれらのたとえを翻訳し、実践する番です。信仰は私的な趣味から公共の責任へと高められ、礼拝は生活全体のリズムとなり、宣教は異文化を尊重するもてなしへ、弟子道は比較と競争を超える人格的成熟へ結実します。地域社会の結節点として小さな種とパン種のように働き、毒麦の前で謙遜を学び、網の中で真理と愛の双方を訓練する。聖書的想像力は、伝統を尊重しつつ硬直を避け、革新を追いながら根を失わない道を拓きます。聖書のテキストを信頼し、その信頼が生み出す、緩やかだが確かな変化を信じるように――張牧師はそう勧めます。 最後に、マタイ13章は私たちに三つの根源的な問いを向けます。 これらへの誠実な応答が、今日の従順です。その積み重ねが、やがて風景を変えます。家庭の空気が和らぎ、職場の文化が清くなり、都市の日常が寛やかになります。パン種のようにゆっくりと、しかし確実に。種のように目には見えにくくても、最後にははっきりと。神の国はすでに私たちの間に来ており、今も成長し、やがて栄光のうちに完成します。だからこそ、今日も心を耕し、種を蒔き、毒麦に耐え、からし種とパン種の働きに信頼し、宝と真珠のゆえに喜んで決断し、網を広く投げつつ聖さの基準を保ち、新しいものと古いものをともに取り出す知恵を求め続けましょう。そう生きるとき、私たちもまた「天の御国の弟子となった律法学者」として召命を全うする者となります。福音という神の大いなる物語の、今日の章を共に紡いでいく者として。 www.davidjang.org

Matthew 13, Here and Now: Pastor David Jang

The parables in Matthew 13 aren’t abstract doctrines wrapped in churchy language. They use everyday scenes—a farmer scattering seed, yeast worked into dough, a net thrown into the sea—to show how God’s kingdom starts, grows, and reaches its goal. Pastor David Jang invites us to read these stories as guidance for the present moment. He … Read more

장재형목사, 초대교회 회복: 십자가·부활 신앙과 성령의 능력

장재형(장다윗)목사는 오늘의 교회가 어디에서 길을 잃었는지 묻기 전에, 처음 어디에서 출발했는지를 보자고 권한다. 그가 가리키는 출발점은 언제나 사도행전에 기록된 초대교회다. 초대교회는 복잡한 이론이나 유행하는 방법론으로 세워지지 않았다. 하나님의 구원 계획을 신뢰하고, 예수 그리스도의 십자가와 부활을 믿으며, 회개와 세례를 통해 성령의 능력 안에서 공동체가 자라난 단순하고도 견고한 길을 걸었다. 장재형목사는 이 원형을 오늘의 현실 속에서 다시 살아 움직이게 하는 데 사역의 초점을 맞춘다. 그에게 … Read more

David Jang – Le Temple et la Prière

1. Comprendre la prière dans le Temple au milieu de la détresse, et la présence de DieuLe pasteur David Jang met l’accent, à travers l’épisode de la dédicace du Temple par Salomon et la promesse qui suit dans 2 Chroniques 7, sur la nature et la signification essentielles du Temple. Dans 2 Chroniques 7, versets … Read more

张大卫牧師 – 圣殿与祷告

第一部分:圣殿、患难中的祷告,以及对神同在的理解 张大卫牧师通过列王纪下(译注:原文为,即《历代志下》。下文统一改为“历代志下”)第7章中所记载的所罗门奉献圣殿场景,以及随后的神应许之言,来强调圣殿的本质与意义。在《历代志下》7章11-12节,我们看到所罗门为神奉献圣殿之后,进入王宫。那夜,神向所罗门显现,对他说要把这殿作为献祭之处。这是一项极为重要的宣告。自此,对于以色列民族而言,圣殿成了他们与神相会的场所,由所罗门所建的圣殿成为神同在的“圣殿”。 那究竟什么是圣殿?张大卫牧师提到雅各在“伯特利”与神相遇的场面(创世记28章),并说明圣殿的根本源头正是那伯特利。当雅各睡觉时,在梦中看见天梯通到天上,天使在梯子上上下往来。此时,神在天上对他说:“我是你祖亚伯拉罕的神,也是以撒的神。”雅各在伯特利与神相遇的这件事,预示了日后圣殿将具备的本质:也就是“神降临之处,人能与神相遇的特别地点”。 所罗门的圣殿正是从这样的意义出发。他完成宏伟的圣殿之后,在奉献时祷告,神对他说:“我已选择这殿为献祭的地方。”从此,以色列百姓便可以通过耶路撒冷圣殿敬拜神、得蒙罪的赦免,并在遭遇患难时向神求助,从而拥有一个“祷告的殿”。以赛亚先知称其为“万民祷告的殿”(赛56:7)。在圣殿里所献的祷告与敬拜,不仅是一种制度性的仪式,而是人与神相交、悔改、并寻求赦免的实际途径。 在《历代志下》7章13-15节,神继续应许说,如果以色列百姓犯罪,以致天闭塞不下雨、蝗虫吞吃土产、或有瘟疫流行,只要“这称为我名下的子民若离弃所行的恶道,谦卑下来祷告、寻求我的面,我必从天上垂听,赦免他们的罪,医治他们的地。”这个应许说明,由于人类罪孽而封闭的天会再次敞开;无论是肉体的软弱、生活的贫穷,甚至像新冠疫情那样的瘟疫,都无法成为向神跪拜祷告之人的障碍。也就是说,通过祷告这个行动,我们可以恳求神的怜悯和帮助,而神必垂听我们的祷告,医治我们的土地。 张大卫牧师根据这段经文,强调对当代的我们而言,“看似没有出路的境况里,依然会出现出路”的真理。当这个世界再怎样陷在罪恶之中,也似乎忘记了神,但只要教会和信徒“俯伏在神面前恳切呼求,神就会垂听我们的祷告,并医治这地”,我们绝不能忘记这伟大的应许。他提到过去数年间全球经历的疫情,以及教会的种种困难、财政的拮据、教会场所的买卖等现实问题,提醒我们:在绝望之中我们能做的最好事情,就是跪在神面前,寻求祂的帮助。 随后,张大卫牧师又提到撒迦利亚书14章的预言,那里提到在患难的日子,人要逃跑得避难之处,神也要在那里显现(亚14:4-5)。尤其那句“耶和华的脚必站在橄榄山”让人联想起耶稣在橄榄山上的“橄榄山讲论”。在马太福音24-25章,耶稣就在橄榄山上与门徒讨论末世、再来,以及患难的征兆。耶稣当时说过,当患难来临时,要逃往山上(太24:16)。对此,张大卫牧师在经文的基础上分享道:“虽然在患难时期,教会似乎要倒塌,但神会赐给我们属灵的避难所和安息之处。” 现实中,教会在各种艰难里受困,确有不少教会关门或被出售,这令人痛心。对此,张大卫牧师表示:“我们所能做的,就是为维护神的教会尽最大努力,然后将一切交托给神。”正是在这样的信心与祷告之中,神赐下了多处避难之所,并让信徒真实地经历神。例如,在欧洲某地,一位信徒陷入绝望之中导致失去意识,但当弟兄姐妹同心合意地祈求时,他的意识恢复,于是大家一同欢呼流泪,向神献上感恩,这就是一个典型的见证。 因此,在数九寒冬之际,或在生活的狂风暴雨,以及瘟疫横行的严重患难时,信徒仍愿鼓起勇气前来敬拜、祷告、向神呼求,这在世人眼中也许难以理解,但张大卫牧师强调,这却是我们最宝贵要坚守的准则。无论我们身体多么软弱,生活多么艰辛,问题多么棘手,都要记得“神是鉴察人心的神”。只要我们的心向着神,纵然力量不足、条件不够,神仍会悦纳我们那赤诚的心,并在其中工作。 尤其是建造圣殿或教会,或为教会寻得场地设立本部等,并不单单是盖一栋建筑而已。这意味着要在世上预备“人与神相会的属灵通道”、“万民祷告的殿”,并且也要为“世界宣教”设立前进据点。张大卫牧师强调,为此事祷告在神面前何等重要,并提到“橄榄谷(Olivet Valley)”的建造案例。他盼望这处场所日后能成为全球教会同心合意敬拜祷告的属灵中心,许多人也正为此忠心摆上。 此外,张大卫牧师指出,教会的使命不仅限于聚集的敬拜。教会的本质是宣教。从第一世纪《使徒行传》中的教会开始,教会就一直被差派到各处向世人传扬福音。二十世纪的教会亦然,在彼此相聚敬拜的同时,也要走出去向未信者、向世界传达爱的福音。因此,教会设立本部,最终目的是要带着“辅教机构(parachurch)的精神”,成为为宣教、服事、济贫与传福音而摆上的群体。若只是盖了一栋漂亮的礼拜堂,而没有履行教会真正的使命,那就背离了神的心意。神或许会问:“在这患难时期,你们究竟做了什么?”到那时,祂要寻找我们在宣教、济贫、祷告与服事中的爱之痕迹。 所以,在艰难危险的时刻,我们更要带着神圣的负担切切祷告,寻求神的面,努力恢复教会的灵性合一。疫情期间全球数百万人丧生、数亿人受感染,这种前所未有的灾难仍在继续,然而神仍在此情景中为我们开路、赐下避难所。正如神的同在在耶路撒冷一样,今天在我们所处之地,神的同在同样是可能的。而这样的大能同在,往往是在祷告的密室里、在共同敬拜的场所里,以及在艰难中也绝不放弃的奉献现场里被经历到的。 张大卫牧师所宣讲的《历代志下》7章核心信息在于:圣殿乃是“连接神与我们的通道”,并且在患难之中祷告时,垂听祷告的神会带领我们走向复兴、医治之路。而撒迦利亚书14章及耶稣的橄榄山讲论(太24-25章)也一并说明,即使在患难的日子,神也会成为我们的属灵避难所,并带领普世教会聚集祷告,显明祂的计划。最终,我们在患难中不可失去盼望,而要恒切祷告,并在祷告中持守神的心意、过圣洁生活。这就是从所罗门时代建造圣殿起延续至今的“神之圣殿”的真正意义,也是张大卫牧师在当今时代对教会和信徒们的核心提醒。 第二部分:保罗的人情味与和解的精神,以及借着爱跨越寒冬 接下来,张大卫牧师引用《提摩太后书》4章9-13节,展示保罗身上散发的“基督馨香之气”。保罗为福音舍弃一切,在《哥林多后书》1章里,他自述曾遭遇超过自己所能承受的极重苦难,几乎失去生存的盼望,却仍单单仰赖神。可即便是这位属灵伟人,也在《提摩太后书》4章中迫切地对提摩太说:“你要赶紧到我这里来。”他希望在冬天来临前(参4章21节)能有同伴相伴,并且因同工有人去了加拉太、有人去了挞马太,有人因贪爱世界离他而去,他独自一人在孤独中挣扎。所幸身旁仍有“路加”医生陪伴,他也央求提摩太“快来见我”。 保罗这样的呼唤,在某些人看来,也许显得有些“人之常情”或“软弱”。可是在张大卫牧师看来,这正是保罗所展现出的真实与人情味,是在孤单中仍然向人敞开心扉、流露爱心的姿态。外表看来,保罗是一位坚忍、无所动摇的信心勇士,可在现实生活中,他也会感觉寒冷、体会背叛、渴望有人作伴。他并不隐瞒这点。反而对提摩太坦白地诉说自己的处境,并说:“你来的时候,要把那件外衣和那些书卷,特别是那些皮卷带来。”因为在这寒冷的监狱里,他需要一件能够保暖的外衣,也需要能滋养灵命的神话语。 值得注意的,还有保罗对提摩太说的这句话:“把马可带来,因为他在传道的事上于我有益处”(提后4:11)。我们若回顾《使徒行传》,会发现马可曾在保罗第一次宣教旅程中中途退出,这导致保罗与巴拿巴之间发生严重分歧,最后二人各自分道扬镳(徒15:37-39)。巴拿巴想再次起用马可,但保罗不信任马可。然而,如今身处狱中的保罗,或许也是他人生最后的寒冬,却说“把马可带来”,并且“他对我有益处”。可见保罗对马可的心意大有转变。 对此,张大卫牧师指出,这一处让我们深思何谓真正的爱与和解。若是按人的逻辑,谁曾伤害过我们,就可以把那人排斥在外;或觉得那人“对我造成负担”,就弃之不顾。但对基督徒而言,绝不应该如此。因为圣经说:“因祂使我们和睦,将两下合而为一,拆毁了中间隔断的墙”(弗2:14)。耶稣基督使人类与神和好,也使犹太人与外邦人和好,并拆毁因罪而产生的一切隔阂。若要效法耶稣所显明的爱与和好,我们也当在与人的关系中,拆掉那道拦阻的墙,即便那人曾令我们受伤、使我们失败,也依然要重新接纳、拥抱。 当初,保罗因马可中途退出而与巴拿巴意见严重冲突,但之后,保罗一直记挂马可,也珍惜与巴拿巴之间深厚的关系。最终,保罗对马可的心意转变了,出于爱接纳了他。保罗如今在狱中所发出的“把马可带来,他对我有益处”这话语,就是这份爱的明证。在教会这个时常会出现各种不同意见、冲突的团体里,这种化解矛盾、走向和解的福音态度尤其可贵。张大卫牧师提醒说,教会事工越扩展、规模越大,彼此之间的意见碰撞越可能增加,唯有以福音精神化解冲突、彼此和好,才是基督徒应持守的态度。我们每个人都当“爱到底”。就如耶稣在最后的晚餐,依然想挽回卖祂的犹大一样,我们也应对身边的人不轻言放弃。 张大卫牧师还引用了《腓利门书》作为例子。在这卷书信中,保罗调解逃跑的奴隶阿尼西莫与主人腓利门之间的关系。他表明:“若我们在基督里与神和好,就不该在与人的关系上继续处于不和状态。”因此,保罗请求腓利门“接纳阿尼西莫”,甚至说愿意替阿尼西莫还债。这才是真正的和好之精神。在这里也彰显了张大卫牧师屡屡强调的“最终留下的唯有爱”这一福音核心。人生难免经历生老病死,都会走到尽头;在这有限的人生旅程里,最宝贵的果子就是爱,而这种爱会跨越伤害与失败,把人再度连结起来。 就这样,保罗在寒冷监狱的孤独中,看着同工相继离去,却依然在最后时刻谈论爱。他能够度过寒冬的秘诀,不仅仅是有一件能保暖的“外衣”,也有那能滋养灵魂的“书卷”(即神的话语),更有那“和好后的同工关系”所带来的温暖。张大卫牧师强调,我们今天也应在此得到深深的感动。在现代社会,同样存在寒冷,不光是季节的寒冷,也包括人心的冷漠、冲突争执、背叛伤害,以及相互漠视与冷淡,这些都能使生活陷入寒冰。然而,若我们真诚地彼此相爱、彼此接纳,并牢牢抓住神的话语,将那曾有嫌隙的人也再度拥抱,那么我们就能在严冬的深处也感受到温暖。 张大卫牧师感慨说:“这不只是建造一栋建筑而已,而是真正地建立人,建立爱。”也许许多人的奉献金钱、付出劳力和祷告,最终呈现在某幢崭新的建筑上,但最根本的目的,是要借着这些建筑让普世教会合一,在爱中成为一体,并走向那些还未听过福音的人。纵使教会数量再多、礼拜堂再宏伟,若没有爱和宣教,也毫无意义。我们之所以要建立教会的本部,或在各地预备庇护所与安息之所,最终都是为了让人真实经历并分享神的爱。若有人在绝望里沉沦,我们能够与他同担重负、同心祈求,并帮助他恢复,这才是教会存在的价值。否则,即使有华丽的建筑,也不过是徒有虚名。 在疫情中,全球已有超过550万人死亡,上亿人感染,这是人类从未经历过的惨痛。这样的大时代伤痛面前,教会该扮演怎样的角色?张大卫牧师指出,教会绝不可与世人的痛苦隔绝,自我满足于“小小的天国”。我们要带着真诚的爱和祈祷,医治世界的创伤,活出怜悯,并凭基督所示范的和解精神,在各自岗位上忠心摆上。这正是保罗在最后的书信中亲身实践的爱的榜样,也是耶稣留给我们“你们要彼此相爱”(约13:34)之新诫命的实践方式。 在《提摩太后书》4章末尾,保罗提到教会内部依旧可能产生伤害与冲突。人的意见多种多样,人心像芦苇随时摆动,也可能朝令夕改。但在这种不稳定中,“我们却不可动摇”的是爱,是神的话语,以及彼此怜悯之心。保罗因马可离弃一事曾极度不快,但到最后却说:“马可对我有益。”这种教会的合一性体现在这简短却深刻的转变当中。社会在各处充满了仇恨、分裂,世界在急剧变化中也流行随意抛弃、遗忘彼此,但教会应是一个始终抓住爱的群体,像保罗呼唤提摩太“快到我这里来”,也需要“把外衣和书卷带来”这样温暖而有人情味的交流。 我们的信仰生活要在这两大核心——在圣殿中与神相遇、并在对人的爱中践行福音——之间保持平衡。在神同在的敬拜之所,我们能献上真挚的祈祷,经历超越生活贫困、疾病瘟疫的恩典;与此同时,无论经历何等冲突,都要学会饶恕、和解、彼此搀扶,成为“至终仍不舍弃爱的群体”,这样才能在严冬里也保有心灵的温暖。这就是张大卫牧师借着《提摩太后书》4章要对教会和信徒们所传达的信息。 因此,我们信仰生活的目标,不是单单个人得救就结束了,而是要在教会共同体中彼此相爱、彼此补足,并同心成就宣教与服事的异象。主曾说:“你们若有彼此相爱的心,众人因此就认出你们是我的门徒了”(约13:35),爱才是基督徒存在的最显明标志。若教会失了爱,即使圣殿再华美,神也不会喜悦。反之,纵然看来软弱匮乏,但若信徒之间充满炽热的爱,彼此和解与接纳,圣灵的恩膏就会常在其中,并在那样的教会中行神迹奇事。 如今我们当肩负何等使命?正如《历代志下》7章的应许所言:在患难中祷告以致这地得医治;又如撒迦利亚书14章的预言:主必在橄榄山显现,为我们带来避难之所。同时,我们也要效法《提摩太后书》4章里保罗的榜样,在寒冬里透过外衣、神的话语,以及和解的精神来维持温暖。就像保罗呼唤马可再度回来,今天的我们也要重新包容那些曾与我们发生冲突的人,在爱里呼唤他们回归共同体。张大卫牧师借着这些属灵与实践的讯息,最终劝勉我们:“切勿失去对神仍在我们生命和历史中工作的信心。” “只要我们自卑祷告,神必从天上垂听,赦免我们的罪,医治我们的地。”——《历代志下》7章的这句话必须紧紧抓住。与此同时,如果人与人之间的问题带来痛苦,就应当遵循“和解”这一福音精神,恢复破裂的关系。保罗最后说“马可对我有益”,让我们省思:在我们生命中,那些我们本以为应该推开的对象,也许正是我们最终应当重新拥抱的弟兄姊妹。 张大卫牧师呼吁信徒:要“建立万民祷告的殿”,成为“面向普世进行宣教的教会”,并且活出“永不弃爱的群体”。我们对教会的热爱、对教会建设和本部设立的努力,通过基督教媒体传福音的热心等,若其动机始终不离“爱”,便会璀璨发光。若失了爱,即使有再辉煌的成就也不过是空壳。但若有坚固的爱,任何服事都会有永恒的价值。纵使如今寒冬漫长,只要在神的恩典里,就会化为“属灵的温暖寒冬”。这就是保罗在《提摩太后书》4章末尾所彰显的“基督馨香之气”,也是我们应持守的“和解、接纳和爱的精神”。 正如张大卫牧师一再强调的,我们应当留在这怜悯的世界里。在经历瘟疫与风暴的时代,要更加切切祷告,为建立教会、敬拜神,以及向万民传扬福音而竭力。这些并不是因为我们有余力、有能力,而是因为我们的心向着神。另一方面,在教会内部也可能出现冲突或误解。此时,保罗、马可与巴拿巴之间的关系修复,正成了我们的镜子。“爱到底”的心,才是福音在我们里面生根的明证。有了这爱,我们便能共同度过极其严酷的冬天。 这样的爱也体现在教会建造现场。当那些为教会工程辛苦劳作的弟兄姐妹,将自己汗水与祷告凝结在那施工场地时,这已经超越了纯粹的体力付出。张大卫牧师形容,这是一种“饱含对普世教会之爱与奉献”的见证。日后我们要将这样的见证传给子孙后代:“在那寒冷的冬日里,有一群为教会付出身体和心力的信徒,他们所作的不仅是简单的劳动,而是流露着对神和他人的爱。”这样的爱的故事,正是教会生生不息、福音向普世传播的养分。 我们的当务之急,就是怀揣《历代志下》7章的祷告、撒迦利亚书14章的预言,以及《提摩太后书》4章保罗的迫切呼唤,在这严冬里依然寻求神,也活出爱。有时我们不只需建造外在的殿堂,也需在心中建立圣殿;有时需要在教会内部以“和好精神”化解冲突;有时则要投身于普世宣教的异象,把自己摆上。但在这些事工背后,有一条不可动摇的准则——“主的爱不可冷淡”。张大卫牧师的信息,归根结底,是呼唤我们将此真理活出来,并借此参与到“神在我们中间亲手建造圣殿”的工作中。 张大卫牧师在讲道中频频强调,人在能做的范围内当竭尽全力,但这努力应建立在祷告和爱之上,其余一切后果则交托于主。也许这个冬天会更加寒冷,也许疫情的阴影仍笼罩着全球,但我们必须铭记“主是我们的避难所”,以及“爱到底的人会得胜”这样的信仰宣告。保罗在监狱里渴望同工的陪伴而呼唤“冬天前你务必赶来”,要那“外衣、书卷、还有马可”的请求,今天仍然对我们的生命极具意义。正如御寒的外衣会呵护我们的身体,神的话语滋润我们的灵魂,而当我们能重新找回马可般的同工时,那便是我们持守下去的“爱之复合”。 正因如此,纵览全文,若我们能在信仰和爱中反复省思,就会更深地认识到:在圣殿中借祷告冲破患难,并以保罗“请再带回马可”之和好精神彼此服事,这样的群体无论面对何等天灾人祸,都不会倒下,还会在地上如同堡垒般矗立,彰显神的国度。这,正是张大卫牧师所强调的核心,也是《历代志下》7章、《提摩太后书》4章、撒迦利亚书14章以及马太福音24-25章等整本圣经都在为福音见证的坚固根基。当我们抓住“爱与和解,并祷告所彰显的能力”前行时,神必定成就“我必从天上垂听,赦免他们的罪,医治他们的地”之应许,并赐给我们在严冬中永不消逝的温暖。 www.davidjang.org

張ダビデ牧師 – 聖殿と祈り

1. 聖殿と患難の中での祈り、そして神の臨在に対する理解 張ダビデ牧師は、歴代誌下7章に登場するソロモンの聖殿奉献の場面と、続く神の約束の御言葉を通して、聖殿の本質と意味が何であるかを強調する。歴代誌下7章11-12節を見ると、ソロモンが神に聖殿を奉献した後、自分の宮殿に入っていったところ、夜になって神がソロモンに現れ、この聖殿をいけにえをささげる所にすると宣言される。これは非常に重要な宣言である。ここからイスラエルの民にとって、聖殿は神に会う場所として位置づけられ、ソロモンが築いた聖殿が神の臨在される「聖なる家」となったのだ。 では、聖殿とは何だろうか。張ダビデ牧師は、ヤコブが「ベテル」で神に出会った場面(創世記28章)に言及し、聖殿の根源はまさにベテルにあると説明する。ヤコブは眠っている間、天まで届くはしごがあり、その上を天使たちが上り下りする夢を見た。そのとき、天の上から神が「わたしはあなたの祖父アブラハムの神、イサクの神である」と語りかける。ヤコブがベテルで神と出会ったこの出来事は、のちに聖殿がもつことになる本質を示している。すなわち「神が降りてこられるところ、人間が神に出会う特別な接点」が聖殿だということである。 ソロモンの聖殿は、そのような意味から出発する。ソロモンは巨大な聖殿を完成させ、奉献の祈りを捧げることで、神から「わたしはこの所を選んで、わたしにいけにえをささげる聖殿とした」という祝福の言葉をいただく。こうしてイスラエルの民はエルサレムの聖殿を通して神を礼拝し、罪の赦しを受け、患難の時には神の助けを求める「祈りの家」を手に入れることになった。イザヤ書では「万民の祈りの家」(イザヤ56:7)という表現でこれを強調している。聖殿で捧げられる祈りと礼拝は、単なる制度的儀式ではなく、神と出会い交わる場であり、自らの罪を悔い改め、赦しを願う実質的な通路となったのだ。 歴代誌下7章13-15節を見ると、神はもしイスラエルの民が罪を犯し、天が閉ざされて雨が降らないとか、いなごが土の産物を食い尽くすとか、疫病が流行するときに、「わたしの名で呼ばれているわたしの民が、悪の道から離れ、自らへりくだり、祈り、わたしの顔を求めるなら、わたしは天から聞いてその罪を赦し、彼らの地をいやす」と言われる。この約束は、人間の罪のゆえに閉ざされた天が再び開かれ、肉体的な弱さや生活の窮乏、コロナのような疫病でさえも、神の前にひざまずき祈る者には乗り越えられない障壁とはならないことを示している。すなわち、祈りという行為を通して私たちは神の助けとあわれみを求めることができ、その祈りを神は聞いてくださり、私たちの地を回復させてくださる、というのだ。 張ダビデ牧師はこの御言葉を根拠に、現代を生きる私たちにも「道がないように見える状況でも道が開ける」という事実を強調する。世の中がどれほど罪に沈み、神を見失っているように見えても、教会と信徒が「神の前にひれ伏して切に願うなら、神はその祈りを聞いてこの地をいやしてくださる」という偉大な約束が私たちに与えられていることを忘れてはならない、と説く。牧師は、ここ数年の世界的パンデミックの状況、そこに伴う教会の困難や財政的困窮、教会建物の売買などの現実的問題に触れつつ、絶望のさなかにあって私たちができる最善は、神の前にひざまずき、その助けを求める祈りであることを改めて思い起こさせる。 さらに張ダビデ牧師は、ゼカリヤ書14章の預言を思い出させる。そこでは預言者が、患難の時に逃れて避難所を得ること、そして神がその場所に臨まれると語っている(ゼカリヤ14:4-5)。特にオリーブ山に主の足が立つというこの預言は、イエスがオリーブ山でしたオリベット説教を思い起こさせる。マタイの福音書24-25章で、イエスは終末と再臨、患難のしるしなどをオリーブ山で弟子たちに語られた。イエスは患難が来たら山へ逃げよと言われ(マタイ24:16)、張ダビデ牧師はこの箇所を通して「患難の時に教会が崩れ落ちるかのように見えるが、神は私たちに霊的避難所と安息所を与えてくださる」という信仰告白を語る。 様々な現実の苦難の中で教会が困難に置かれ、実際、多くの教会が閉鎖や売却に至る痛みを経験したという。そのようなとき、「私たちができることは、教会を生かすために、神の体なる教会を守るために最善を尽くし、あとは神に委ねることだ」と張ダビデ牧師は言う。その信仰の努力と祈りの中で、神は様々な避難所を与えられ、実際に神を体験する恵みが起こった。たとえばヨーロッパのある兄弟姉妹が絶望の中で意識を失ったが、皆が心を合わせて祈ったときに意識が戻り、共に歓声を上げ涙を流しながら神に感謝したという証などがその代表的な例である。 ゆえに、信徒たちが寒い冬や人生の荒波、そして伝染病の流行という極度の患難のときに勇気を出して礼拝を捧げ、祈り、神に願い求めることは、世の論理では容易ではないように見えるが、それでも私たちが最も大切にすべき基準なのだ、と張ダビデ牧師は力説する。私たちの身体が弱く、生活環境が劣悪で、あらゆる問題が目の前に迫っていても、「神は私たちの心を見ておられる」という事実を忘れてはならない。もし私たちの心が神に向かっているなら、私たちの力が足りず、状況が整わなくとも、神はその中心を尊く見てくださり、御業をなしてくださる。 特に聖殿や教会を建てること、教会がある空間を得て本部を設立することなどは、単に建物を建てることではない。これは「この地上で神に出会う霊的通路」を整えることであり、「万民が祈る家」を建て上げることであり、同時に「世界宣教の拠点」を準備することでもある。張ダビデ牧師は、このために祈ることが神の前でどれほど重要かを強調し、“オリベットバレー(Olivet Valley)”という建築事例を挙げる。この空間が将来、世界中の教会が一つになり神を礼拝し祈る霊的センターとなることを願い、多くの人々が献身的に奉仕しているのだという。 また張ダビデ牧師は、教会の使命が単に集まって礼拝することだけにとどまらない点も指摘する。教会の本質は宣教にある。1世紀の使徒行伝の教会に始まり、教会は常に散らされて世に出て行き、福音を伝えてきた。20世紀の教会も同様に、集まる礼拝だけでなく、散らされて不信者と社会に向かい、愛と福音を伝えなければならない。ゆえに教会が本部を建てるのは、最終的に「パラチャーチ(parachurch)の精神」をもって宣教と仕え、救済と福音の伝播に献身する共同体となることが目的である。建物だけが建ち、華やかな礼拝堂を飾ることは、教会の真の使命ではない。神は「この患難の時に、おまえたちは何をしたか」とお尋ねになるとき、私たちが宣教と救済、祈りと奉仕を通して愛を実践した痕跡を探されるのだ。 したがって私たちは聖なる負担感をもって、厳しく危うい時期にこそ、さらに切に祈り、神を求め、教会の霊的回復と一致のために尽力すべきである。パンデミックによって全世界で数百万人が命を落とし、数億人が感染するという未曽有の災害を経験しているにもかかわらず、神は今なお私たちに道を開き、避難所を与えてくださる。エルサレムに神の臨在があるように、今日の私たちの生活の場にも神の臨在は可能であるという信仰が大切だ。そしてその臨在は、祈りの密室で、共に捧げる礼拝の場において、そして困難の中でも決してあきらめず献身する現場で体験される。 張ダビデ牧師が説く歴代誌下7章の核心メッセージはこれである。聖殿は「神と私たちをつなぐ通路」であり、患難の中で祈るとき、その祈りを聞かれる神が私たちを回復へと導いてくださるということだ。ここにゼカリヤ書14章とイエスのオリーブ山での説教(マタイ24-25章)の文脈が加わり、患難の時にも私たちの霊的避難所となり、世界中の教会が集まって祈れるように導かれる神のご計画が示される。結局、私たちは患難の中でも希望を捨てずに祈り、その祈りの中心に神の御心を抱いて聖く生きるべきなのだ。これこそソロモンの時代から受け継がれてきた「神の聖殿」に対する真の理解であり、現代の教会と信徒に張ダビデ牧師が強調する核心なのである。 2. パウロの人間味と和解の精神、そして愛による冬の克服 次に張ダビデ牧師は、テモテ第二の手紙4章9-13節を引用し、パウロがもっていた「イエスの香り」を照らし出す。パウロは福音のためにすべてを捧げ、コリント第二1章で生きる望みすら絶たれるほどの激しい苦難を味わいながら、その中でも神だけに頼った信仰の巨人であった。そんなパウロでさえ、テモテ第二4章では「何とかして早く私のもとに来てほしい」と切実に願っている。パウロは冬になる前に(4章21節参照)、一緒にいてほしかったのだ。ガラテヤやダルマティアに去ってしまった同労者たち、世を愛して去っていった人々の間で、孤独に取り残された寂しさを吐露する。しかしそのそばには医師のルカが依然として同行していた。そしてテモテに向かって、ぜひ会いたいので急いで来てほしいと求める。 パウロのこの願いは、人間的な些細さや弱さと映るかもしれない。だが張ダビデ牧師は、ここでパウロが見せる人間味と、孤独の中でも人を求める愛の姿勢こそが真の福音的態度なのだと説く。外見上、強靭で揺るぎない信仰者に見えても、現実の生活では寒さを感じ、裏切りを経験し、誰かがそばにいてくれることを願う「人間」だということである。パウロはその事実を少しも隠そうとしない。むしろテモテに自分の状況を正直に打ち明け、「冬の着物と聖書(革の書物)を持って来てほしい」と頼む。パウロは冷えきった牢獄で身を守る外套と、霊の糧を満たす神の御言葉を切に必要としていたのだ。 次に注目すべきは、「マルコを連れて来てほしい。彼は私の務めに役に立つからである」(テモテ第二4:11)というパウロの言葉である。使徒行伝を読むと、マルコはパウロの第一回伝道旅行の途中で離脱した過去があった。険しい道に耐えきれず、逃げるように去ったマルコのせいで、パウロとバルナバの間には深刻な対立が生じ、ついには二人は別々の道を歩むことになる(使徒行伝15:37-39)。バルナバはマルコを再び起用しようとしたが、パウロは彼を信用しなかった。しかし、今のパウロは牢獄に囚われ、自身にとって最後の冬かもしれない時間を過ごす中で、「マルコを連れて来てほしい」と願う。「彼は私の務めに有益だ」とまで言う。これはマルコに対するパウロの心が大きく変えられたことを示している。 張ダビデ牧師は、この一節をめぐり、真の愛と和解とは何かを深く黙想すべきだと強調する。人間的な計算や判断で、「この人は私に傷を負わせた人だから」と排斥したり、「あの人は私にとって負担になる人だ」と遠ざけたりするのは誰にでもできる。だがキリスト者はそうするわけにはいかない。なぜなら聖書は「キリストこそ私たちの平和であり、ふたつをひとつにし、隔ての壁をその肉において打ち壊された」(エペソ2:14)と証ししているからだ。イエスは人間と神とのあいだを和解させ、異邦人とユダヤ人を和解させ、罪によって分断されたあらゆる壁を取り壊された。イエスが示された和解と愛に倣うなら、私たちも人間関係の壁を取り壊し、傷つけ合い失敗した人でも再び受け入れることが求められる。 パウロはかつてマルコのせいでバルナバとの深刻な対立が起こり袂を分かったが、その後もパウロは絶えずマルコを覚えており、バルナバとの深い関係を大切に思っていた。やがてパウロの中でマルコに対するわだかまりが解け、愛をもって受け入れるに至る。そうして結実した愛のあかしこそが「マルコを連れて来い。彼は私の務めに役に立つ」という告白である。これは衝突が多く、意見が異なる人々が衝突しがちな教会共同体の中でも、きわめて必要な精神だ。張ダビデ牧師は、働きが拡大し教会が大きくなるほど、むしろ「違う意見の衝突」が多発しうるが、そのたびに衝突を解き、和解に向かう福音的態度が大切なのだと説く。キリスト者は誰しも「最後まで愛する心」を抱く必要がある。イエスが最後の晩餐の場においてさえイスカリオテのユダを引き留めようとされたように、私たちも最後の瞬間まで人をあきらめずに受け入れようとする姿勢が必要だ。 張ダビデ牧師はピレモン書を例に挙げる。ピレモン書でパウロは、逃亡した奴隷オネシモと、その主人ピレモンのあいだを和解させようと取り持つ。パウロは「キリストにあって神と和解した者であるなら、人間関係において不和な状態のままでいることはできない」と言い、「オネシモを受け入れてほしい」という手紙をピレモンに送り、オネシモの負債は自分が肩代わりするとまで言う。これこそが和解の精神である。そこには張ダビデ牧師が幾度も強調する「結局残るのは愛だけだ」という福音の核心が含まれている。生老病死に代表される人生において、いつか私たちは皆、老い、病み、死を迎える。この限られた人生の旅路で、最も価値ある実は愛であり、その愛は、傷や失敗を乗り越えて他者を受けとめることで実践されるのだ。 このようにパウロは、寒い牢獄で、自分を見捨てて去ったデマスなどの同労者への孤独感の中でも、最後の瞬間まで愛を語る。冬を克服する秘訣は、物理的な保温である「外套」だけでなく、「革の書物」に書かれた御言葉という霊的糧、そして「愛する同労者との和解された関係」がもたらす温かさでもある、と張ダビデ牧師は説く。ここに現代の私たちは深い感動を覚えるべきだという。今日でも寒さは存在する。それは単に季節的な寒さだけでなく、心の寒さ、葛藤や争い、裏切りや傷、無関心や冷遇といったものが私たちの人生を凍らせる。しかし、私たちが互いを真実に愛し受け入れ、神の御言葉をしっかり握り、まだ愛を注ぐことができる人々に手を差し伸べるなら、最も厳しい冬の只中でも暖かさを経験できるのだ。 張ダビデ牧師は「これは単に建物を建てることではない。人を建て、愛を築くことだ」と語る。多くの人々の献金、労力、祈りが集まって建物が建てられるが、究極的にはその建物を通して世界の教会が一つになり、愛のうちに一致し、まだ福音に触れていない人々に近づくことこそが真の目的である。いくら教会が多くても、礼拝堂が華麗でも、そこに愛と宣教がなければ何の役にも立たない。教会の本部を建てることも、各地域で避難所や安息所の役割を果たす拠点を整えることも、結局は神の愛を体験し分かち合うためだ。誰かが絶望の中にあるとき、その窮状を共に担い、祈りながら回復をともに目指す思いがなければ、いくら美しい建物でも意味がないだろう。 パンデミックの期間に全世界で550万人以上が亡くなり、数億人が感染した。どの戦争よりも多くの命が奪われたほど、全人類が苦痛を味わった。このような時代の痛みに直面して、教会はどんな役割を果たすべきだろうか。張ダビデ牧師は、教会が世の苦しみと切り離されて自己満足していてはならないと言う。真実な愛と祈りをもって世の傷を癒し、あわれみを実践し、キリストが示してくださった和解の精神をもって、それぞれが置かれた場所で誠実に献身することが大切だ。これはパウロが最後の手紙で身をもって示した愛の手本であり、イエスが残してくださった「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)という新しい戒めの実践でもある。 張ダビデ牧師は、テモテ第二4章の御言葉を結論として、教会の中で傷や葛藤が生じうることを認める。人の意見は多様で、人の心は葦のように揺れ、人情は朝と夕でも変わるものだ。しかしその不安定さの中でも「私たちが揺るがされてはならないもの」がある。それは愛であり、神の御言葉であり、互いを思いやる憐れみの心である。パウロが「マルコを再び受け入れ、彼は私の務めに役立つ」と告白したその地点に、キリスト教の共同体性がある。社会のあちこちで憎しみや分裂が蔓延し、変化の激しい世の流れの中で互いを簡単に切り捨て忘れてしまう風潮があったとしても、教会こそは愛を握りしめ、パウロのように「急いで私のところに来てほしい」と求め、「外套と革の書物を持って来てほしい」と依頼する、人間的で温かい交わりがなければならない。 私たちの信仰生活の目標は、この二つの軸—神と出会う聖殿の霊性と、人への愛の実践—がバランスを成すときに全うされる。神の臨在がある礼拝の場で、私たちは真実な祈りを捧げ、人生の窮乏や疫病さえ乗り越えられる恵みを体験する。同時に、たとえ衝突があっても赦し合い、和解し、互いに支え合い、「最後まで愛を手放さない共同体」を形づくるとき、どんな厳しい冬の只中でも心の温もりを失わずにいられる。これが張ダビデ牧師がテモテ第二4章を通して教会と信徒に伝えたいメッセージだ。 だから信仰生活のゴールは、単に自分個人が救われて終わるのではなく、教会という共同体の中で愛を分かち合い、互いの欠けを補い合って、共に宣教と仕えのビジョンを果たしていくことだ。主が「互いに愛し合うなら、それによってすべての人があなたがたの弟子であるとわかる」(ヨハネ13:35)と仰ったように、愛こそがキリスト者の存在を証明する最も確かな印だ。もし教会から愛が失われてしまったら、どんなに聖殿が豪華であっても神は喜ばれない。逆に、見たところ弱く不足しているようでも、信徒間に熱い愛があり、和解と受容がある教会なら、そこにはいつも聖霊の油注ぎが臨み、恵みの奇跡が起こる。 今日、私たちが担うべき使命は明確である。歴代誌下7章の約束のとおり、患難の中でも祈って地が癒されるようにしなければならない。ゼカリヤ14章の預言のように、主の臨在があるオリーブ山の避難所を見いださねばならない。そしてテモテ第二4章に描かれているパウロの姿に倣い、冬の寒さの中でも外套と御言葉、そして和解の精神によって温かさを保たなければならない。マルコを再び呼び寄せたパウロの声のように、私たちは衝突した人々さえも再び受け入れ、愛をもって招く共同体を築かねばならない。張ダビデ牧師は、このような霊的・実践的メッセージを伝えながら、最終的には「神は私たちの人生と歴史のただ中で、今も働いておられる」という信仰を失わないようにと勧める。 「もし私が自らへりくだって祈るなら、神は天から聞いて罪を赦し、地を癒される」という歴代誌下7章の御言葉を握らなければならない。同時に、人間同士の問題によって痛みが生じたのなら、「和解」という福音の精神に従って傷ついた関係を回復しなければならない。「マルコが私の務めに有益である」と告白するパウロの愛は、私たちに「だれを避けるべきなのか」ではなく、「最後まで手を離してはならない相手はだれか」を問いかける。 張ダビデ牧師は、信徒たちが「万民の祈りの家」である聖殿を建て、「全世界へ向けて宣教する教会」へと歩み出し、「最後まで愛をあきらめない共同体」として生きるよう促している。私たちが教会を愛し、教会を建て、本部を整え、クリスチャンメディアを通して福音を伝えようとするすべての努力は、結局「愛」という動機が揺らがなければこそ最も輝く。もし愛が揺らぐなら、たとえいかにすばらしい偉業を成し遂げても真の意味は消えてしまう。しかし愛がしっかり根を下ろすなら、私たちの献身は永遠の価値を持ち、今の寒い冬すらも神の恵みのうちに「霊的に温かな冬」へ変わるだろう。これこそパウロがテモテ第二4章の結びでほのめかした「イエスの香り」であり、私たちが握るべき「和解と受容、そして愛」の精神である。 張ダビデ牧師が強調するように、私たちはこのあわれみの世界にとどまるべきだ。そして患難と暴風、疫病によって苦しむ世代のただ中で切に祈り、教会を建てて神を礼拝し、万民に福音を伝えることに力を注ぐ。それは私たちに余裕や力があるからではなく、私たちの心が神の前にあるからこそ可能なのだ。一方、教会の中でも葛藤や誤解が生じることがある。そうしたときこそ、パウロとマルコ、バルナバの関係回復は私たちの模範となる。「最後まで愛する心」こそ福音が私たちの内にしっかり根ざしていることの証拠であり、その愛がなければ、厳しい冬を共に乗り越えることはできない。 このような愛は、教会建築の現場で働く人々の汗と祈りが、単なる工事現場を超えた意味を持つことによく現れている、と張ダビデ牧師は見る。それを「世界の教会に対する愛が込められた献身」だと捉えている。私たちの子孫にも、「あの寒い冬に、教会のために身を挺して苦労した信徒たちがいた。それはただの労働ではなく愛だったのだ」と伝えられるようにしたい。その愛の物語こそが教会を存続させる力であり、世に福音を伝える糧となる。 今、私たちに残された課題は、歴代誌下7章の祈りとゼカリヤ14章の預言、そしてテモテ第二4章におけるパウロの切実な願いを胸に刻みながら、今日も厳しい冬の只中で神を求め、愛を実践することである。ときには建物ではなく心の聖殿を築く必要があり、ときには教会共同体内の葛藤を和解の精神によって解きほぐし、ときには全世界に向かう宣教的ビジョンの実践に自らを捧げる必要がある。そのすべての背後には、「主の愛が冷えてはならない」という絶対的命題がある。張ダビデ牧師のメッセージは、最終的に私たちがこの真理を生活に適用し、それによって「聖なる聖殿を建て上げていかれる神の御業」に参与せよ、という招きなのだ。 張ダビデ牧師が説教で繰り返し強調するのは、人間ができる限りの最善を尽くしつつ、それが常に祈りと愛の上に築かれるべきだという点である。そしてその後のすべての結果は主の御手に委ねる。今度の冬がいっそう寒く苛烈に感じられ、世界がパンデミックの後遺症にいまだ苦しんでいるとしても、「主が私たちの避難所である」という事実、そして「最後まで愛する者が勝利を得る」という信仰的確信を思い出そうではないか。パウロが牢獄で宣教の協力者たちを慕い、「冬の着物と聖書、そしてマルコ」を求めたように、それらは私たちの人生でも有効な必需品であり続ける。冬の夜をしのぐ外套のように、私たちの魂を守ってくれる聖書の御言葉のように、かつては衝突があったとしても再び出会えるマルコのような愛の回復こそ、私たちが守るべき信仰的遺産なのだ。 このように厚みのある信仰と愛の価値を噛みしめながら、すべての人が神の臨在のある聖殿で祈りによって患難を突破し、パウロが「マルコをもう一度連れて来なさい」と言ったあの和解の精神をもって互いに仕えるなら、この地上にどんな災難が襲おうとも決して崩れない揺るぎない共同体が打ち立てられるだろう。そしてその共同体は、まさに神の国を現実のうちに実践し映し出す生きた聖殿として機能するはずである。これが張ダビデ牧師が強調する核心であり、歴代誌下7章からテモテ第二4章、さらにゼカリヤ14章やマタイ24-25章へと至る聖書全体が証言する福音の確固たる根幹である。私たちがこの愛と和解、そして祈りの力を握って進むとき、神は必ず「わたしが天から聞いて彼らの罪を赦し、その地を癒す」という約束を成就してくださる。さらにその約束によって、冬の寒さを歩む私たちに永遠に変わらない温もりを注いでくださるだろう。 www.davidjang.org

Pastor David Jang – The Temple and Prayer

1. Understanding the Temple and Prayer in Times of Tribulation, and the Presence of God Pastor David Jang highlights the essence and significance of the temple through the scene of Solomon dedicating the temple in 2 Chronicles 7, and the ensuing promise of God. In 2 Chronicles 7:11–12, after Solomon completes the dedication of the … Read more