ローマに到達した福音 – 張ダビデ牧師

1. マルタ島での救いの歴史とパウロの漂流 パウロと同行者たちは、『使徒の働き』27章から、劇的な漂流と難破の過程を経験する。当時、地中海を横断する航海は決して容易ではなかった。パウロを含む囚人や乗客を乗せた船は、クレタ島付近で激しい北東風(ユラグロ)に遭い、長い間漂流することになった。この暴風に直面して皆が絶望し、食事さえも喉を通せないほど士気が落ちていた。しかしパウロは神から示された啓示を通して「船は難破するが、あなたがたのうち一人も命を失わない」という約束を宣言する。これは単なる宗教的慰めにとどまらず、荒れる海の上でただ神のみが成し得る驚くべき摂理を示す言葉だった。実際、船はマルタ(メリテ)島の近海で破損し座礁したが、乗船していた276名全員が泳いで無事に島へたどり着く。『使徒の働き』27章後半は、人間的な希望がほとんど断たれた瞬間にも神の言葉が具体的にどのように成就するのかを、鮮明に描き出している。 張ダビデ牧師は、このマルタ島への上陸事件を通して示される神の細やかな守りを強調する。もし人々が疲れ果て、希望を完全に手放して散り散りになってしまっていたら、あるいは体調を崩したり負傷していたなら、全員が無事に島へ上陸できなかったはずである。またマルタ島はローマからおよそ500kmほど離れた地点で、シチリアのすぐ下に位置する。古代から地中海の重要な交易ルート上にある場所で、暴風に翻弄された船がちょうどその島に流れ着いたこと自体、神の時の中に組み込まれていたと示唆される。中世や近世においてもマルタは、東方宣教や中東地域に入る宣教師たちが停泊する重要な戦略拠点であった。その背景を考慮すると、すでに1世紀のパウロの時代から、この島が何らかの形で福音伝播の過程に用いられる準備が整っていたと言えるだろう。 マルタ島へ上陸した際の島民たちの反応も注目に値する。聖書では彼らを「土の者(野蛮人)」と呼ぶが、実際には276名というかなり大勢の見知らぬ異邦人の遭難者に対して、まったく敵意を示さなかった。むしろ『使徒の働き』28章2節の記録にあるように、雨と寒さに見舞われていた状況にもかかわらず、島民は火を焚いてパウロたちを手厚くもてなしている。当時の文化的・宗教的背景を考慮すると、これは非常に稀なことである。張ダビデ牧師はここで、神の細やかな摂理とともに、福音が伝えられる現場ではしばしば予想外の仕方で人々の心が開かれることが多いという点を指摘する。何の縁故もなく、場合によっては敵対心が生じてもおかしくない状況であったにもかかわらず、マルタの島民は彼らの安全を助け、惜しみなくもてなしを与えた。これは初代教会の時代から、神が福音を必要とする、あるいは神のご計画のある場所にあらかじめ人々の心を備えておられたことを示唆している。 特に、パウロが枝を集めて火をくべる際に毒蛇に噛まれる場面は、この出来事に一層の神秘性を添えている。パウロの手を噛んだ毒蛇を見た島民たちは、最初「この男は人殺しに違いない。海では助かったが、結局は神の裁きを免れなかったのだ」と考えた。これは古代社会で非常に一般的だった因果応報的な思考を示す例であり、海で救われた者が毒蛇に噛まれて死ぬなら、その者は必ず極悪な罪を犯しているに違いないという民俗的な信念が働いたのである。しかし、パウロは噛まれた部分に痛みや中毒症状が深刻化することもなく無事に生き延び、その様子を見た島民たちは今度は「この人は神だ」とまで言うようになる。張ダビデ牧師はこの部分から、神の民であっても時に「神格化」されたり、過度に崇拝の対象とされる危険があることを戒めるべきだと強調する。パウロは少しも自分を高めることなく、ただ神が許された力と奇跡によって生じた出来事であることを淡々と示すだけだった。 続いてパウロは、島で最も地位が高い人物であったポプリオ(英語表記ではプリオ、聖書の日本語訳によって表記揺れあり)の招きを受け、3日間滞在することになる。彼の父親が高熱と下痢(赤痢)で倒れていた。古代地中海地域では赤痢は致命的な伝染病とみなされることも多く、高熱を伴う様々な疾患に対する迅速な治療法はほとんどなかった。パウロはこの患者のもとを訪れ、祈りと按手によって彼を癒やした。これによって島全体にパウロの存在と、彼が伝える福音への関心が広まり、多くの病人がパウロを訪れて癒やされるようになる。やがてマルタの住民たちは、パウロ一行が島を出航する際に必要な物資を惜しみなく提供してくれた。張ダビデ牧師はこの場面について、「神の人がある土地に入るとき、その土地に与えられる霊的祝福がいかに豊かであるかを示す例」として解説する。パウロと協力者たちが経験した出来事は、単なる不測の難破ではなく、神が意図された福音伝播の旅路の一幕だったのである。 マルタ島で3か月間、冬を越した後、パウロ一行は2月頃にアレクサンドリア船に乗って再びローマを目指して出発する。ルカはここで船の名前として「ディオスコロイ(双子の神)」を記しており、読者に対してこれらの記録が噂話ではなく具体的史実であることを思い起こさせる。『使徒の働き』にはパウロの航海ルートや到着地が詳細に書き残されており、1世紀地中海の商船航路や当時の海上交易の流れを歴史的に推測するための手がかりにもなる。張ダビデ牧師は、「聖書が単なる宗教的・道徳的教訓集ではなく、実際の歴史的背景や地名を網羅した具体的かつ生々しい証言であること」を強調する。シュラクサイ、レギオン、ポテオリなどを経由して、いよいよ陸路でローマへ近づいていくという『使徒の働き』28章の物語は、長い漂流の末に「ついにパウロがローマに到着する」というクライマックスへと突き進む展開を演出している。 このようにマルタでの漂流と救済の歴史は、神のきめ細やかな主権と福音拡大の流れをありありと示す。多くの人が死にかけた状況で、神は全員の命をお守りになるだけでなく、その地を新たな福音伝播の拠点としても用いられた。マルタの住民の好意と癒やしの奇跡を通して、パウロは帝国の中心地ローマへ向かう途中で尊い実を結ぶことになり、結果的にローマで2年以上にわたって福音を伝える機会を得たのである。張ダビデ牧師は「人生で思いがけない嵐に見舞われるとき、その背後で働かれる神を信頼し、目の前の苦難が福音の門を開く手段となり得ることを思い起こすべきだ」と力説する。もしマルタ島での経験がなかったなら、パウロのローマ入りも、その後に展開する数々の出会いも、『ピレモン書』のような聖書書簡の執筆も、まるで違った形となっていたに違いない。その点で、『使徒の働き』27~28章にわたるパウロの漂流とマルタ上陸事件は、西欧キリスト教史、そして世界福音化の決定的転換点だったと言っても過言ではない。 さらに張ダビデ牧師は、その後の数世紀にわたりマルタ島がいかに重要な注目を集めるようになっていったかにも言及する。聖地巡礼やキリスト教史の研究者たちの間でも、パウロのマルタ漂流は象徴的な意味をもって受け止められている。1世紀の地中海世界で起こったこの事件は、その後の多様な神学的・歴史的解釈の端緒となった。いかにも小さな島に見えるマルタだが、荒れ狂う嵐から漂流した船を安全に導く神が、その地を通して新たな福音の歴史を開かれたという認識が広まっていったのだ。初代教会の信徒たちは、おそらく当時マルタ島で起こった出来事を「偶然」だとは思わなかっただろう。そして現代の信徒たちもまた、世界のどんな片隅でどのような試練に遭遇しようとも、その場には神が据えられた目的と召しが潜んでいると信じ、その地に福音の種を蒔く準備を整えるべきだというメッセージを見いだすのである。 結局、マルタ島での救いの歴史と漂流の物語は、聖書の中にだけ閉じ込められた「昔話」ではなく、どの時代の信徒たちにも読み取り、適用すべき霊的指針を提供している。神の約束は決して空しく終わらず、難破のように見える絶望の只中でも、神が立てた人を通して多くの命を守り、福音を輝かせる。教会の歴史と宣教の歩みにおいても、同様のパターンが繰り返し見いだされる。張ダビデ牧師は「これらすべてが単なる記録された歴史としてとどまるのではなく、現在を生きる私たち自身が直接体験する生ける証となるべきだ」と強調する。マルタ島でのパウロの漂流は、結果的に誰も阻むことのできない神の救いのご計画が、人々の生活とどのように密接に結びついているかを、実に驚くべき形で見せる場面となっている。 2. ローマに到着したパウロと兄弟たちの愛 パウロはマルタで3か月間を過ごした後、アレクサンドリア船に乗ってシュラクサイ、レギオン、そしてポテオリを経由し、ようやくローマに近づいていく。『使徒の働き』28章15節以下を見ると、ローマの兄弟たちはこの知らせを聞きつけ、なんとアッピオ市(アッピオ・フォーラム)とトレス・タベルネ(トリ・タベルネ)まで出迎えに来たと記録されている。当時、トリ・タベルネやアッピオ・フォーラムのある地点はローマの市内から50km以上離れており、現代なら車で1〜2時間ほどの距離かもしれないが、当時は徒歩で丸2日かかるかなりの遠路である。それでも彼らは、パウロがやって来ると聞くやいなや、喜んで出迎えにやってきた。これは初代教会の信徒たちが持っていた熱い愛と歓待の文化を象徴的に示す出来事である。 張ダビデ牧師は、この歓迎の場面を通して、初代教会が持っていた「互いに世話し合う」精神を具体的に確認できるのだと言う。初代教会はローマ帝国全域に広がっていき、散らばった信徒たちはしばしばこのように互いを迎えに出て共に喜び合った。人間的に見れば、自宅監禁状態で移送されてくるパウロには大した力がないようにも思える。しかし彼らはパウロがどんな存在であり、彼の福音宣教がいかに重要かを知っていた。さらに神の僕を歓待することが、すなわち主を歓待することだという認識を持っていた。こうした愛の行為は、単なる礼儀以上の霊的交わりとして明らかになる。 アッピオ・フォーラムやトレス・タベルネまで出迎えに来た兄弟たちを見て、パウロは『使徒の働き』28章15節後半によると「神に感謝し、勇気を得た」とある。遠方から駆けつけてきた彼らの歓迎と励ましは、パウロにとって非常に大きな力となったに違いない。パウロはすでにエルサレムで捕らえられ、数多くの裁判や苦難を経て、ようやくローマに到着することができた。また先にマルタ島で遭難までしているため、肉体的にも精神的にも疲労は相当なものだっただろう。そんなパウロを喜び勇んで出迎える兄弟たちの姿こそ、初代教会が共有していた兄弟愛と連帯意識の結晶である。この場面を通して、教会共同体が互いにとってどれほど大きな慰めと大胆な確信を与え得るのか、はっきりと示されている。 張ダビデ牧師はここで、初代教会の歓待精神を現代の教会にも適用すべきだと説く。もし今日の教会が建物や礼拝の形式に閉じこもってしまえば、初代教会が見せた「駆け出して迎える愛」を生き生きと再現するのは容易ではない。しかし、新約聖書のあちこちで「旅人をもてなすことを怠らないように」と勧められていることを思い起こすと、積極的に人を迎え入れ、世話をすることこそ、福音共同体の核心的DNAの一つであるとわかる。兄弟を誠心誠意もてなし、一緒に喜ぶ姿は、今の時代にもなお有効な福音の本質を体現する行為なのだ。 ついにパウロはローマに入り、一般的な収監者ではなく未決囚の身分として自宅軟禁状態に置かれる。ローマ法では皇帝への上訴を行った者は最終判決を待つ間、ある程度自由に外部との交流が許される場合があった。『使徒の働き』28章16節には「パウロは自分を守る兵士とともに、ひとりでいることを許された」とあるが、これはまさしくその状況を表している。つまりパウロは完全に閉ざされた監獄ではなく、ローマ兵が常駐する住居にいながら、人々と自由に会って福音を語ることが可能だったのである。 これはかえって福音を伝えるのに好都合となった。『使徒の働き』28章の最後の2節によれば、パウロは「まる2年の間、自分が借りている家に住んで、来る人は皆受け入れ、少しもはばからず神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストに関することを教えた」と記され、そこで物語は終わる。ルカはどうして『使徒の働き』をこのような形で締めくくったのだろうか。多くの聖書学者はこれを「開かれた結末」と呼ぶ。つまり福音がどんな抑圧も受けることなく広がっていくというメッセージが結論のように見える一方で、実際には今も続いている福音の物語を暗示しているのである。自宅軟禁状態なら通常は宣教活動に制約があるはずだが、逆にパウロはその真ん中で自由に福音を語った。人々はむしろ彼のもとを尋ねてきた。これは神の言葉が、人間のいかなる環境的拘束によっても妨げられないという強烈な真理を示している。 パウロがローマで過ごした2年は、多方面で貴重な期間だった。教会史の研究者たちは、この時期にパウロがいわゆる「獄中書簡」と呼ばれるエペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙を執筆したと考えている。これらの手紙は初代教会の信仰と福音理解を深める上で決定的な影響を及ぼした。特に『ピレモン書』では、自宅軟禁状態のパウロのところへ逃亡奴隷オネシモがやって来た際、彼を喜んで福音で受け入れ、その主人ピレモンにまで「オネシモを兄弟として迎え入れてほしい」と愛をもって勧める内容が展開される。当時の社会では奴隷制度が常識だったことを考えれば、これは非常に急進的なメッセージであり、パウロが置かれた状況が「拘束状態」であっても、福音そのものの本質的力は少しも衰えていなかったことを示す。 張ダビデ牧師は、パウロがローマに来るまでのすべての道のりと、ローマでの2年間の滞在が、結局のところ福音を伝え、信徒たちを励ますための神の広大なご計画であったと力説する。『使徒の働き』28章はその集大成とも言え、パウロに注がれたローマの兄弟たちの愛もこの点をいっそう引き立てている。患難と迫害のただ中でも依然として存在する信徒たちの歓迎と励ましが、パウロの大胆な宣言を可能にした。そしてこれらすべては、歴史の主権者である神の摂理のもとで展開されたことであった。 このような愛と歓待の実践は、福音の中心的価値を生き生きと示す。イエスも「もし互いに愛し合うなら、それによってすべての人があなたがたをわたしの弟子だと認める」(ヨハネ13:35の趣旨)と語られたように、福音の実体は教会共同体の中で交わされる愛によって具体化される。パウロは徹底監視下に置かれながらも、兄弟たちの温かい支援と心配りによって再び力を得て、そして「大胆に」神の国とイエス・キリストを語ることができたのである。張ダビデ牧師は、現代の教会においても困難に直面している肢体を励まし、支えられるような信徒たちの積極的かつ犠牲的な動きが必要と主張する。それがなければ教会は単なる制度化した機関に堕す危険があり、初代教会が示した神聖で美しい共同体性も失われかねない。しかし、どのような状況でも互いを受け入れ、惜しみなく愛を分かち合う教会は、歴史の嵐の中でも挫かれることなく成長を遂げていく。 こうしてローマに到着したパウロと、彼を迎えた兄弟たちの愛の物語は、マルタ島での救いの歴史と漂流体験を経て到達した結末でありながら、同時に福音拡大の新たな出発点でもある。エルサレムから始まった福音がついに帝国の心臓部であるローマに達したということは、『使徒の働き』が提示した「地の果てにまで福音を伝えよ」という大命令が、本格的に地中海世界全域に広がっていく始まりの合図だった。そしてその過程で見られた奇跡よりも重要なのは、神を信頼し互いに世話をする教会共同体の献身と愛だったと、張ダビデ牧師は強く述べる。これは21世紀を生きる信徒たちにとっても、大きな感銘を与える真理である。 3. イスラエルの希望と神の国に対するパウロの弁論 『使徒の働き』28章後半でパウロは、ローマに到着して最初にローマ在住のユダヤ人指導者たちを呼び集める。パウロはエルサレムで捕縛されて以来、同胞であるユダヤ人たちから激しい反対を受け続けてきた。しかし、彼は最後までユダヤ人への愛と連帯意識を捨てなかったことを複数の手紙で示している。『ローマ書』9章で「わたしの同胞、肉による同族のためなら、わたし自身がキリストから切り離されて呪われてもよいとさえ思う」と語るほど、パウロは民族への深い思いを抱いていた。これはパウロ自身のかつてのパリサイ的情熱に根ざす部分もあるが、同時にキリストの内に「イスラエルの希望」が成就したと確信したがゆえに、彼は同胞にこそそれをより積極的に伝えようとしていたのである。 このような文脈で、パウロはローマのユダヤ人たちに、自分が決して律法や先祖の慣習を破ろうとしていたわけではないと弁明する。そして『使徒の働き』28章20節で「イスラエルの望みのために、わたしはこの鎖につながれているのだ」と言う。この「イスラエルの望み」とは、旧約の預言者たちが長きにわたって宣言してきたメシア的待望、すなわちヤハウェの日と油注がれた者の到来に対する期待を指す。パウロはローマにおいても、このテーマを軸に据えつつ、自分が信じるイエスこそがそのメシアであると熱心に証しした。 イスラエルの希望と神の国という概念は密接に結びついている。旧約の律法と預言者たちは、メシアが来られて罪の問題を解決し、神が支配される新しい秩序——つまり神の国を完成されると教える。パウロは、イスラエルの希望が成就する方法は、イエス・キリストを通して明らかにされた神の国にこそあると繰り返し強調した。『使徒の働き』28章23節で「朝から晩まで熱心に神の国を証しし、モーセの律法と預言者の書をもってイエスのことを説き明かした」と記されるのは、旧約聖書にすでに示されていたイエス・キリストと神の国の預言がすべてこのお方において成就したことを、パウロがローマのユダヤ人へ力説したことを意味する。 張ダビデ牧師は、『使徒の働き』が繰り返し「神の国」と「イエス・キリスト」を対として提示している点に着目すべきだと語る。初代教会の福音の核心は、イエスが単なる優れた教師や預言者ではなく、罪人を救い世界を新しく治められる神の御子であるという確信にある。その方がこの地上に来られたことで、終末的な希望が部分的に実現し、今や段階的に神の国が拡大し、やがて究極的に完成するという期待が、この福音の枠組みを成している。これは、パウロがユダヤ人が待ち望んでいた「イスラエルを回復される神」が、すでにイエス・キリストを通してご自身の働きを開始されたのだと力説することと同じ流れである。 しかし『使徒の働き』28章24節にあるように、同じメッセージを聞いても、ある者たちは信じ、ある者たちは信じない。いかにパウロの論証が筋が通っていようとも、聞く人の心が頑なであれば、福音を受け入れられない。パウロはこれをイザヤ書6章9~10節の預言——「聞いても悟らず、見ても認めない」という言葉——になぞらえて説明する。一面では痛ましいことだが、他面では神の摂理の中でイスラエルがしばらくメシアを拒むあいだに福音が異邦世界へ拡散し、それによってユダヤ人たちは聖なる嫉妬を抱くようになり、最終的には帰ってくるという、『ローマ書』9~11章に描かれた深遠な歴史解釈とも繋がっている。 パウロは『使徒の働き』28章28節で「この神の救いは異邦人に伝えられたのだ。彼らはそれを聞き入れるだろう」と断固として宣言する。これは福音が単にユダヤ民族の境界を超えて帝国全域、さらに世界のあらゆる国々へ広がっていくという確信的な言葉だ。当時、同胞の多くから激しい抵抗を受けたとしても、やがて神の国はローマ帝国の全領域、ひいては歴史上のすべての時代へと行き渡る。3世紀以降、コンスタンティヌス帝によってキリスト教が公認され、国教化へと至る流れを歴史的に振り返るとき、パウロの宣言が単なる願望ではなく、実際に成し遂げられた預言だったことを確認することができる。 張ダビデ牧師は、この箇所から福音を伝える者の姿勢と神学的理解の重要性を指摘する。福音は本質的に「神の国」と「イエス・キリスト」を宣べ伝えるものであり、その過程でユダヤ人の排他性や異邦世界の無知をも超えていく。パウロが「イスラエルの希望」を根拠としながらローマのユダヤ人に近づいたにもかかわらず、一部が受け入れずに離れていく姿は、信仰の逆説をよく表している。しかし、この逆説こそ福音がいっそう広く伝わっていく通路となる。ユダヤ人が拒んだ場所で異邦人が福音を受容し、異邦人教会の成長に刺激されて、またユダヤ人が福音へ立ち返るという循環構造が、旧約時代の預言とも連動して起こるのである。 『使徒の働き』の最終章である28章が、「その後どうなったか」という具体的な続報を示さず、「パウロがローマで自由に福音を語った」という結びで終わるのは、この「開かれた結末」の象徴性が濃厚だからだ。ルカは、パウロが皇帝の前でどのような判決を受け、その後どうなったかを直接書かない。教会の伝承によると、このときパウロは一時的に釈放されてヒスパニア(スペイン)宣教を志したという説や、2年後に再び捕らえられて殉教したという説などが併存している。しかし、ルカはそうした後日談に言及せず、「福音を宣べ伝えるパウロ」の現在進行形のメッセージだけを残した。それは神の救済の業が終わったのではなく、今もなお続いているという象徴的表現となっている。 張ダビデ牧師は、このような開かれた結末が私たちに与える教訓を繰り返し強調する。パウロの時代にローマが福音の新たな中心地として浮上したように、現代においては福音が地球上のあらゆる地域へと広がっている。変わらない事実は、神の国が決して止まることなく、イエス・キリストの福音はどんな障壁も突破するという点である。マルタ島での漂流がローマ到着の足がかりとなったように、今日においても暗く危険に見える状況が、むしろ福音拡大の足場となり得る。また、パウロが最後まで同胞と異邦人の両方に福音を伝えることをあきらめなかった情熱は、教会が分裂や対立の中で揺れるときにこそ、回復すべき模範と言える。 イスラエルの希望と神の国というテーマは、教会が旧約から新約へ至るまでに啓示された神の全体的なご計画を理解するうえで非常に重要である。イエス・キリストは「イスラエルの王」であり、同時に「全世界の救い主」である。ユダヤ人がこれを拒絶する姿勢を示しながらも、その拒絶を通じて異邦世界が福音に目覚め、やがて異邦人教会の成長を見て再びユダヤ人たちが福音へ戻ってくるという力動的な物語が、『使徒の働き』全体を貫いている。張ダビデ牧師は、この物語を学ぶことが21世紀の教会にも依然として急務だと指摘する。福音は多くの対立を突き抜け、今日まで受け継がれてきたように、現代においても福音を伝える際には拒絶や誤解が起こる。しかし、それでもなお福音の本質を守り抜き、大胆に前に進むことこそ、一人ひとりに向けられた神の救いの歴史を拡張する道であると教えている。 『使徒の働き』28章、そしてその最後の節々は、あらゆる内容を総括して三つの事実を語っている。第一に、福音はどのような環境も突破する。第二に、福音の核心はイエス・キリストと神の国に関するメッセージである。第三に、福音はユダヤ人と異邦人を包含し、さらに時代を超えてすべてをつないでいく強力な真理だということである。張ダビデ牧師は、この結論から、教会がその本質を忘れずに、絶えずこの地で神の国が実現するよう祈り、行動するべきだと訴える。キリストを信じる者たちはすなわち、イスラエルの希望であり同時に全世界の民の希望を伝える使命を担う共同体なのである。パウロが拘束された状態にあっても絶え間なくこの希望を宣べ伝えたように、現代の教会も多様な制約や困難に直面してしばしば挫折を感じるが、その状況こそ福音をいっそう力強く、かつ創造的な形で広める機会となり得るのだ。 『使徒の働き』28章は単に「パウロのローマ到着記」にとどまらず、救いの歴史の展開において決定的な分岐点であり、神の約束が長い歳月を経て人類史のただ中でいかに成就・拡大してきたかをドラマチックに要約する章である。ローマに達したイスラエルの希望、異邦人へと広がる福音の流れ、そして互いに愛で結ばれた初代教会の共同体性は、現代の教会が継承すべき霊的遺産だといえよう。張ダビデ牧師は、この章で終止符を打つのではなく、「続いていく福音の記録」を見るように促している。有名な言葉で「使徒の働き29章は存在しないが、教会史を通して事実上書かれ続けている」と言われるように、パウロのローマ入城後の物語は、すべての時代の信徒たちによって引き継がれてきた。それこそが、今なお私たちが目の当たりにする神の国の現在進行形の歴史なのである。 張ダビデ牧師は、この『使徒の働き』28章のメッセージを深く黙想しながら、私たちが滞在するどの場所においても福音が伝えられ、取り残された人々が歓待され、ユダヤ人であれ異邦人であれ神へ立ち返って希望を見いだせるように尽力しようと呼びかける。座礁寸前の危機や自宅軟禁のような絶望的状況さえ、神は福音の通路へと変えられる。初代教会がまさにその証拠だった。この書かれた御言葉と歴史が、長い年月を経ても色あせず、絶えず信徒たちの心を打つのは、神の国が決して中断することなく、世界と歴史を貫いて続いているからである。教会はその聖なる連続性の中で、ときにマルタ島の住民のように異邦人を迎え、またローマの兄弟たちのように他者を先んじて出迎え、さらにはパウロのようにどんな場にあっても神の国を大胆に語り、イエス・キリストを明かしするという燃えるような使命を継承していく。 最終的に『使徒の働き』は28章で公式な記録を終えるが、その中に秘められた霊的原理と大いなる使命は少しも終わっていない。私たちはマルタ島のような思いがけない場所でも救いの歴史を展開される神を信じ、ローマに集う兄弟たちから愛と歓待を学び、イスラエルの希望であり同時に異邦人の光でもあるイエス・キリストをあらゆる民に知らせることを自らの使命とすべきである。そしてその宣教の歩みの中で、パウロが味わった漂流や拘束という数々の試練を上回る神の恵みが、私たちの時代にも力強く臨むのだと確信すべきだ。これこそ、張ダビデ牧師が『使徒の働き』28章の注解と説教を通して、信徒たちに最も伝えたい中心的メッセージなのである。

The Gospel Reaching Rome – Pastor David Jang

1. The History of Salvation on Malta and Paul’s Shipwreck From Acts 27 onward, Paul and his companions undergo a dramatic ordeal of drifting at sea and shipwreck. In those days, crossing the Mediterranean by ship was itself challenging. The vessel carrying Paul and other prisoners and passengers encountered a fierce northeaster (the Euraquilo) near … Read more

로마에 이른 복음 – 장재형(장다윗)목사

바울과 일행은 사도행전 27장에서부터 극적인 표류와 난파의 과정을 겪는다. 당시 지중해를 건너는 항해 자체가 쉽지 않았으며, 바울을 비롯한 죄수들과 승객들이 탄 배는 크레타 섬 인근에서 거센 유라굴로 광풍을 만나 오랫동안 표류하게 된다. 이 광풍 앞에서 모두가 절망하며 음식조차 삼키지 못할 정도로 사기가 저하되었으나, 바울은 하나님께 받은 게시를 통해 “배는 파선되겠지만 너희 가운데 한 사람도 목숨을 … Read more

教会的纷争与劝勉 – 张大卫牧師 

教会的纷争与劝勉当我们今天再来细读《腓立比书》,便会猛然发现,保罗使徒想要传递给腓立比教会的信息,并不只是在信仰生活层面作全面的教义说明。保罗写这封书信时正身陷囹圄,他在四处宣扬福音的漫长旅程中,最深的痛苦往往并非外在逼迫,而是来自教会内部的分裂。尤其在腓立比教会——这是保罗在欧洲宣教时最先进入的城,也是他踏上欧洲福音之路的起点。在那里,吕底亚和几位姐妹成为教会开拓成员,为福音奠定坚实根基。但随着时光流逝,教会内部竟然出现了冲突。面对这一情况,保罗并未以斥责或刻薄口吻加以处理,反而以美好且温柔的语气,提出化解之道。张大卫牧师也强调,当今教会若发生纷争,理当效法保罗的方式:先以温和的劝勉和鼓励为始,逐步引导教会走向医治与修复。 张大卫牧师多次在讲道中指出,若教会要摆脱冲突与纷争,最终仍须“存基督的心”为根本。我们常想到严厉斥责冲突当事人,或迅速切割问题的方式,但在《腓立比书》2章1-4节,保罗却选择了温柔的姿态。保罗所指的第一把钥匙是“劝勉”,意在彼此加力、在灵魂层面上互相鼓励。这不只停留在“努力吧”或“别太在意”这种程度,而是从当事人内心深处着手。许多人既会陷于自我合理化,又同时背负罪疚和羞耻。张大卫牧师以《创世记》中该隐的例子佐证:当该隐杀死弟弟后,上帝并未立即予以惩罚,反而先行庇护。看似必须审判的时刻,上帝却拦阻任何人加害该隐,并为他制做衣物,以此深切顾念他的灵魂。正如上帝顾念该隐一般,面对教会中彼此冲突的当事人,也应该先以劝勉靠近,让他们内心的疼痛被看见。 《腓立比书》4章2节中,保罗直言“我劝友欧底和劝循都基”,对两位冲突方都给出同样的劝勉,而非只偏向任何一人。他以此向双方展现智慧与善意,助力他们平缓化解争执。教会内部的对立常常不断加剧,其中一个主要成因,便在于领袖或周遭人因私交更好而偏袒某方,以致调解时带有成见。保罗对此深怀警惕,并鼓励当事人更勇敢地面对彼此。张大卫牧师将此举称为“兼具公正与爱的牧养关怀”,它不但能避免煽动攻击性,更能让当事人逐渐走向恢复与和解。 当年腓立比教会所爆发的内讧,与今日教会内部的争端并无二致。这个教会原由吕底亚和几位姐妹建立,在保罗心中极为珍贵。然而,一旦内部矛盾发生,也让身陷囹圄的保罗痛心不已。虽说他久经外界苦难,却坦承教会内部纷争比任何试炼都更使人沉重。张大卫牧师观察到,不少教会一遇上冲突,就急于追究“谁的错更大”,试图用指责来解决。然而,保罗的第一步不是斥责,而是先行劝勉。对教会而言,这不仅是一项基本的道德操守,更关乎属灵层面的智慧。 接下来,在《腓立比书》2章1节,保罗进一步写道:“所以在基督里若有什么劝勉、爱心有什么安慰、圣灵有什么交通、心中有什么慈悲怜悯……”。这里呈现了教会迈向合一、跨越纷争的具体路径。张大卫牧师解释道,这里提到的四要素,恰是消弭紧张对立所需的阶段。首先,“在基督里”说明,教会冲突不应像世俗那般纯以利害关系衡量,因为教会乃基督的身体,信徒之间因信心相连,因而必须在基督里化解冲突。 然而,当矛盾已然深重时,“在基督里”听来未必容易。对沉溺在愤怒、委屈与挫折中的人来说,仿佛相距遥远。张大卫牧师因此强调,所谓“劝勉”绝非“空洞教义”,而是实际的“牧养之爱”。深陷冲突的人往往思绪纠缠,旧伤累累,还会觉得自己陷于难堪与内疚。此时,比起责备,更需要切实的关怀;胜过指摘,更需要真挚的鼓励。这也是保罗在狱中写信时,依旧首先呼吁“当彼此劝勉”的原因。 张大卫牧师也提醒,劝勉并非一次性说服就能达成,若冲突当事人的情绪极度敏感,往往需反复的安慰与倾听。就此而言,教会若想整体化解争端,与其急于定论,不如花时间聆听,透过祷告求圣灵带领。要谨慎避免凭个人判断逼迫某方“认错”,反倒要鼓励双方各退一步,并自我省察。唯有历经这样细致的过程,才可能令彼此放下成见,直面问题根源,走向真和好。 爱的安慰与圣灵的交通在《腓立比书》2章1节中,保罗于“劝勉”之后继续提到:“爱心有什么安慰、圣灵有什么交通、心中有什么慈悲怜悯……”。这里的第二个关键词是“安慰”,且明确言及“爱心有什么安慰”。倘若教会内的安慰缺乏诚挚,最终也只会是流于形式。张大卫牧师举例指出,“没事,一切都会过去”式的表面安慰,有时会让当事人觉得更受伤。因为这样一来,对方的情感和处境并未被真正看见,仅以肤浅方式应对而已。 出自真挚之爱的安慰,必须先明白对方为何如此盛怒?是什么令他(或她)心力交瘁?先前是否已有隐痛或创伤?很多人陷入纠纷时,总想先“说服对方”,但在此之前,更需要给对方足够空间来倾诉。张大卫牧师解释,“爱心有什么安慰”的关键,就在于让人感觉到“有人真心理解并愿意聆听”。如能如此,对方的心门才会慢慢打开,教会化解纷争便有了真正的起点。 保罗随即补充“圣灵有什么交通”,强调真诚的安慰并不只存在于人性的情感层面。教会毕竟是属神的共同体,惟有依靠圣灵的引导,方能达成彻底医治。张大卫牧师把“圣灵的交通”理解为教会在敬拜、赞美与祷告中的全程互动。若只凭人对人的对话,情绪激烈时很容易适得其反;但在圣灵同在的敬拜或祷告小组里,人心往往被逐步软化。透过诗歌或经文默想获得神而来的安慰,人对曾经反感厌恶之人,也可能在神迹般的转变中重新看待。 张大卫牧师将这过程称为“唯有圣灵促成的奇迹”。曾经互相视为对立面的人,竟能在圣灵里开启对话,甚至流泪祷告。透过此景可见,教会的根本属性并非人类组织,而是圣灵所带领的属灵群体。无论冲突再严重,一旦圣灵工作苏醒人心,就可能在某个时刻让心墙瓦解。正因此,“圣灵的交通”是修复教会纷争不容或缺的环节。 紧接着,保罗提出“慈悲和怜悯”——在属灵层面的运作中,这同样得自圣灵的催生。卷入冲突的人,见到彼此首先涌现的往往是怨怼或愤恨。哪怕对方曾经是亲密的弟兄姐妹,如今在争端中也会成为让人心烦的对象。但若“慈悲和怜悯”生发,我们便能怜惜对方的境遇,并想起:“他也是上帝所珍爱的灵魂。”张大卫牧师说,教会纷争的悲剧之处,正是信徒互视为敌,撕裂基督的身体;反之,若能坚持慈悲与怜悯,即使冲突未彻底终结,也会先学会换一个视角去凝视对方,心中渐渐萌生“他为何会落到如此境地?”的体恤。 那些冲突长久的教会,常因情感鸿沟太深,不可能一朝一夕就拨乱反正。张大卫牧师因此劝告,教会若能在平日就建立彼此安慰、鼓励、并于圣灵中亲密相交的氛围,一旦爆发冲突,不至手忙脚乱。若在问题滋生后才匆忙介入调解,往往来不及;反之,教会若平常就用真诚营造健康的属灵共同体,冲突发生机率也较低,就算起纠纷也更容易解决。保罗在此提及的“爱心有什么安慰”与“圣灵有什么交通”,正是教会于危机时能依托的根基。 张大卫牧师多次严肃地提醒:“没有扎实属灵底子的教会,往往会因一点小事就轻易垮塌。”随着事工增多,信徒数渐增,关系也变得复杂。然而,若能持续透过祷告会、敬拜、赞美,以及小组分享等,以此构筑在圣灵中相通的文化,那么即使有冲突出现,也会迅速运用“复原力”(resilience)去化解。此复原力更会以慈悲与怜悯为果实,使教会再次稳固相连。 谦卑的心与看别人比自己强的态度保罗在《腓立比书》2章2-4节里进一步强调:“你们就要意念相同,爱心相同,有一样的心思,有一样的意念,使我的喜乐可以满足。凡事不可结党、不可贪图虚荣,只要存心谦卑,各人看别人比自己强。”这正说明,教会要在解决争端后,如何继续彼此合一并持续成长的核心原则。张大卫牧师尤其留意到保罗在这里所说的“谦卑”和“看别人比自己强”。实际上,教会内大多数冲突并非天大之事,而是源于一些小矛盾、小高傲或虚荣心上的对撞。此时,“谦卑”正是最重要的应对方式。 保罗警告信徒,不要“结党”或“贪图虚荣”。张大卫牧师进一步提到,许多教会纷争本质上皆出自“我是对的”“你们为什么不听我”的执念。若一方提出意见,另一方由于担心自身权益受损而筑起防御,双方互不相让,最终陷入僵局。为此,保罗提出“各人看别人比自己强”的劝勉,并非要真正断定对方比自己更有才能,而是一种自觉要更尊重对方的决定。 张大卫牧师坦言,这份决定并不容易。因为人被委屈、不甘和自尊裹挟时,难免想:“为何要我让步?我会不会亏了?”可若遵照保罗“各人不要单顾自己的事,也要顾别人的事”的教导,反倒会在冲突中获得更深的团契与共同体意识。他也经常引用《加拉太书》6章2节“你们各人的重担要互相担当”来诠释,教会唯有彼此背负重担,才会更坚固并减少争端。 当然,现实中并不乏“应如何帮?帮到什么程度?”的难题。对此,张大卫牧师建议,教会需在日常崇拜或平日小组中给予信徒了解彼此境况的机会。若对他人的处境毫不知情,往往会因为一句无心的话就造成伤害;但如若平日里就明白“那人也很不容易”,就能避免许多不必要的误会或争执。这样,教会即使面临冲突,也已具备可迅速修复的土壤。 张大卫牧师相信,当这种实践往复循环,教会内就会逐渐形成“看别人比自己强”的气氛。彼此尊重、彼此成全后,大家便不会再过度在意“谁坐上更高位”。耐人寻味的是,当我们摒除骄傲和自我中心,教会反而变得更加坚实与强大。这也与保罗在狱中“使我的喜乐可以满足”的心情相呼应。若他得知腓立比教会摆脱冲突、持续在合一中成长,身陷囹圄的保罗也能倍感欣慰。毕竟,这才是教会应有的面貌。 更进一步说,张大卫牧师指出,当教会学会谦卑并彼此成全,就会对世人展现更美好的福音见证。若教会内部矛盾不断,外人就会讥讽:“你们口口声声讲爱,结果自己反而争得不可开交!”但如果教会在冲突中仍能以爱彼此扶持、自行化解,它所彰显的圣灵能力和基督之心自会让世人刮目相看。因此,《腓立比书》2章的信息不仅在于内部修和,也直接关系到教会如何向世界宣扬福音的见证。 基督的心与教会的复兴最终,保罗在《腓立比书》2章5节宣告:“你们当以基督耶稣的心为心。”张大卫牧师对此倍加强调:教会要得以脱离裂痕与创伤,根本之道就是切实拥有基督的心。基督的心便是“自己卑微,取了奴仆的形象,顺服至死,且死在十字架上”的谦卑、牺牲与怜悯。保罗在2章6-8节以“赞美诗”般的口吻描述耶稣如何原具神的尊荣,却甘愿降卑,为罪人舍命至死。 因此,“以基督的心为心”不仅适用于教会内部的冲突,也关乎我们在日常信仰中应对大大小小冲突的关键。难点在于,这说来容易,真要躬行却不轻松。张大卫牧师直言:“我们有时连一点小事都能怒火中烧,感情用事在先,甚少先去体谅对方。”但基督的道路恰恰是要“倒空自己”。人性往往抗拒这点,故而导致许多教会里冲突双方都不肯放下自尊,终至各行其是。 然而,一旦“基督的心”真正临到,就会产生截然不同的复和。当我们在圣灵里祷告,默想基督的谦卑牺牲,就会先意识到自己的不足,转而先行悔改。张大卫牧师将此过程称为“与自己灵魂的对峙”。固然对方伤害过我,但我是否也同样忽视或伤害过他?在这样自省时,骄傲与怨气便渐渐融化。这种改变唯有出自圣灵的恩典。当我们默想基督的舍己,便会问:“主尚且为我这罪人降卑至死,我又为何不能包容那弟兄或姐妹呢?”就在此刻,教会内部的僵局也迎来转机。 当整个教会都持守“基督的心”,冲突不仅被化解,还会让彼此关系更为坚固,信徒生命也得以更深成长。纵观教会历史,原本势不两立的信徒,有时在圣灵运行里竟能重修旧好,且较此前更加亲密。张大卫牧师将之称为“冲突带来的反向益处”:冲突固然痛苦,但若以基督之心面对,教会反能因此经历更美好的成长。 保罗之所以对腓立比教会说“使我的喜乐可以满足”,也正基于同理。腓立比是欧洲最先迎接福音之地,由吕底亚等人聚集小型祷告团体起家,渐渐成为当地重要的教会。保罗视之为“我的喜乐和冠冕”,却惊闻此教会陷入纷争,让他在狱中也无限心痛。因而,他在书信中极力劝勉他们要回到基督的心。只要真正于基督里化解矛盾,保罗便可凌驾牢狱之苦,收获满足的喜乐。 张大卫牧师把这种情境投射到现代教会的各种分裂上,提出同样的追问:“教会若互相争斗,我们的主耶稣又会何等伤痛?”毕竟教会是用基督宝血所买赎,肩负向世界传扬神爱的使命。如果被内部纠纷缠住,不仅使命难成,还会让福音黯然失色。相对地,若能回到“基督的心”,彼此包容伤口、坦诚对话、严肃悔改,教会就会比过去更加坚韧丰盛。基督教历史里,类似例证早已不胜枚举。 更甚者,当教会活出基督的心,世人就会见证到福音那真正的力量。张大卫牧师说,毋须刻意掩饰教会的冲突,也不必粉饰太平,而应以坦率的悔改和接纳彼此的行动来回应。这样,世人反倒会看到教会如何勇于承认不足,并彼此相爱,不再只是一味说教。于是福音也因而更具说服力,让更多人相信教会不仅口讲爱,且能确实实践。 总的来说,保罗在《腓立比书》对腓立比教会所传达的信息,虽经两千载岁月,今日仍然恰如其分地适用。张大卫牧师在多次证道和讲座中不断提及,《腓立比书》2章所呈现的四项要素——劝勉、爱心的安慰、圣灵的交通,以及慈悲怜悯——正是医治矛盾与冲突的核心环节,而贯穿这四环节的精髓就是“基督的心”。教会不论经历多大的风浪,只要紧紧持守这颗心,就能跨越分裂,化危机为更成熟的共同体。教会对于冲突的应对方式,决定了能否把生命之福音传递给人,也决定了别人是否会因失望而离开。腓立比教会的教训,正好给我们借鉴。 我们毕竟都是软弱、易犯错的群体,但张大卫牧师认为,这份软弱也许反而能令教会更加坚固。如果人人能在谦卑中重视彼此,并从心底努力效法基督的品格,冲突就会成为灵命提升的契机。正如保罗虽身陷牢狱,但仍殷切担忧腓立比教会的纷争,在信中不断“劝勉”和“鼓励”他们;今天的教会领袖与信徒,同样要彼此秉持这份态度。 于是,《腓立比书》2章中保罗那句“你们当以基督耶稣的心为心”,不仅是解决教会纷争之关键,更是信仰群体迈进的根本方向。张大卫牧师始终坚守这信息,致力于牧养各处教会,安抚因分裂而受伤的人,中心主旨一直围绕“基督的心”。当教会众人真能共享这心思意念,世人便会透过教会看见神的爱与救赎。腓立比教会在早期本是热情洋溢却遭遇内讧,保罗给出的最后处方仍是“效法基督”。这也是张大卫牧师一再传递的讯息:唯有存谦卑与爱彼此服事,纷争才能成为新的合一起点,使保罗所期盼的“充满喜乐的教会”在今日眼前得以成就。

教会の紛争と勧め – 張在亨牧師

教会の紛争と勧め 今日、私たちがピリピ人への手紙を読むとき、パウロがピリピ教会に伝えようとしたメッセージは、単なる信仰生活全般の教理的説明ではなかったという事実に改めて気づかされる。彼は手紙を記した当時、牢獄に囚われの身だった。そして、各地を巡って福音を伝える長年の宣教において、外部からの迫害よりもむしろ教会内部の紛争こそが、最も痛切な苦しみだったと告白している。とりわけピリピ教会は、パウロがヨーロッパ宣教を開始する際、最初に足を踏み入れた都市であり、そこではルディアをはじめとした数人の女性たちが開拓メンバーとなって福音の基礎を築いた。ところが時の経過とともに、内部の対立が深刻化していったのだ。この状況に直面したパウロは、厳しい叱責ではなく、穏やかで美しい調子で問題解決を提案している。張在亨牧師も、今日の教会において紛争が生じた際には、パウロのアプローチに倣うべきだと強調する。すなわち、柔和な勧めと励ましから始まり、対立を癒やすプロセスが何より大切だというのである。 張在亨牧師は数多くの説教を通じて、教会内での紛争や対立を回復に導くためには、最終的に「キリストの心」を抱くことが不可欠だと繰り返し語ってきた。私たちは往々にして、当事者を強く叱責するか、一刀両断に問題を裁く方法を想像しがちである。しかしピリピ2章1~4節に目を向けると、パウロはむしろ穏やかさによって問題に対処している。パウロが提示する第一の鍵は「勧め」である。勧めとは、互いに力を与え、魂を励ます行為だ。それは「頑張れ」「大したことではない」などの気休めとは一線を画し、当事者の心の奥底を見つめる姿勢から始まる。人はしばしば自己合理化をする一方、罪悪感や羞恥心に苛まれることもある。張在亨牧師は創世記のカインの物語を例に挙げ、弟を殺害したカインですら、神はすぐに罰するのではなく、まずは彼を保護されたと振り返らせる。裁きが当然と思える場面ですら、神はカインを害されないよう守り、革の衣を与えて根本的なケアを施された。これと同様に、教会紛争の当事者にもまずは勧めを通じて近づき、内面の苦しみを理解してあげることが重要だという。 実際、ピリピ4章2節でパウロは「ユウオディアに勧め、スントケにも勧める」と記し、紛争当事者双方に対して平等に勧めを行った。これは一方のみに味方するのではなく、両者に対して同様にアプローチし、対立を穏やかに解こうとする態度を表している。教会内の紛争が激化する原因のひとつに、指導者や周辺の人々が自分と親しい側だけをかばう偏った仲裁がある。パウロはそうした姿勢を警戒し、当事者同士がきちんと向き合うよう導いたのだ。張在亨牧師は、このパウロのやり方を「公正さと愛が調和する牧会的ケア」と呼んでいる。こうしたケアこそ、紛争当事者にさらなる攻撃心を煽ることなく、回復と和解を実現させる鍵だと強調する。 このように、ピリピ教会に起こった紛争は、現代の教会においても基本的には変わらない問題だと言える。ピリピ教会はルディアら女性たちを中心に設立され、パウロにとって特別に愛着のある共同体だった。しかしある時点で内部の対立が生じ、牢にいるパウロの心を深く痛めつけた。長年迫害や苦難を耐え抜いてきたパウロでも、教会内部の紛争は何より重い負担だったのである。張在亨牧師は、教会に紛争が起こると、多くの人々が「どちらがより大きな過ちを犯したか」を問い詰め、叱責でもって決着を図ろうとする姿勢を問題視する。だがパウロは、まず勧めるという手段を選んだ。これは教会が紛争下で守るべき基本的な倫理観であり、また霊的な知恵でもある。 さらにピリピ2章1節でパウロは、「もしキリストにあって何か勧めがあり、愛にあって何か慰めがあり、御霊にあって何か交わりがあり、憐れみや慈しみがあるなら…」と述べ、教会が一致し、紛争を乗り越えるための具体的な道筋を示している。張在亨牧師はここで示される四つの要素を、緊張や不和を解決するプロセスだと解釈する。まず「キリストにあって」とは、教会における紛争が世間一般のように利害関係で判断されてはならない、という前提を示す言葉だ。教会は本来、イエス・キリストの体であり、私たちは信仰によって結ばれた共同体であるがゆえ、紛争も「キリストにあって」解決すべきということである。 実際に、紛争が激しくなるほど、この言葉は当事者にとって簡単には受け入れがたい場合がある。怒りや悔しさ、挫折感に捕らわれている人には、「キリストにあって」という表現そのものが非常に遠いものに感じられるだろう。だからこそ張在亨牧師は、勧めを「抽象的な教義」ではなく、紛争の渦中にいる人々を実際に包み込む「牧会的な愛」だと説く。争い合う人々の胸の内は複雑であり、深い傷を負い、ときには自分への嫌悪感さえ抱えていることもある。このとき最も必要とされるのは、叱責ではなくケアであり、非難ではなく励ましなのだ。パウロが牢獄から手紙を送る際に、真っ先に「互いに勧め合え」と書き送ったのも、そのためである。 張在亨牧師はまた、勧めは一度の説得だけでは足りないと指摘する。紛争当事者が感情的に極度に敏感になっている場合、一度話をした程度では不十分で、繰り返しの励ましや慰めが求められる。こうした点で、教会の共同体全体が紛争解決の過程に関わるとき、性急に結論を出すのではなく、相手の声に丁寧に耳を傾け、祈りによって聖霊の導きを仰ぐ必要がある。私たち自身の判断だけで誰かを追い詰めるのではなく、全員が少しずつ譲歩し、お互いを省みるよう促すことが大事だ。こうしたプロセスを経てこそ、互いの心が開き始め、根本的な原因を認め合い、和解へと向かうことができる。 愛の慰めと聖霊の交わり パウロはピリピ2章1節で、勧めに続いて「もし愛にあって何か慰めがあり、御霊の何か交わりがあり、憐れみや慈しみがあるなら」と語る。ここで重要となる二つ目のキーワードは「慰め」だが、はっきり「愛にあって」と付け加えられている点に注目したい。教会の中でも「慰め」のやり取りはあるが、そこに真心が伴わなければ、表面的な解決に終わってしまいがちだ。張在亨牧師はよく、「大丈夫、すぐに終わるよ」といった言葉が、かえって紛争当事者を深く傷つける場合もあると指摘する。なぜなら、紛争を招いた当事者の心情や状況に丁寧に寄り添うことなく、うわべだけで対応してしまう可能性があるからである。 真の「愛にあっての慰め」は、相手がどうしてそこまで怒りを爆発させたのか、その魂を疲弊させた要因は何か、もともと心に積もっていた傷や苦しみは何なのかを探るところから始まる。私たちは紛争の場面で、相手を説得したり納得させたりしようと焦るが、その前に相手が十分に自分の思いを語れる空間を提供する必要がある。張在亨牧師によれば、「愛にあって何か慰め」とはまさにそうした場を設定し、本気で相手を理解して聞く行為だという。自分が追いつめられているときに、少なくとも一人だけでも心から理解し、話を聞いてくれる人がいるなら、自然と心の扉が開き始める。そのとき、はじめて本格的な紛争解決の糸口がつかめるのである。 またパウロは「御霊の何か交わり」とも付け加え、単なる人間的な感情のやり取りだけでは、こうした愛の慰めは完成しないことを強調する。教会は神の共同体であり、真の癒やしは聖霊の助けを通じてこそ可能となるからだ。張在亨牧師は、この「聖霊の交わり」を礼拝や賛美、祈りの集会など、教会のあらゆる営みとして解釈する。人間同士だけが向き合っていると、感情が高まった状態で更なる傷を与え合ったり、逆に相手を一層傷つけてしまうことがある。しかし聖霊の臨在がある礼拝や祈祷会、小グループの交わりでは、心の防御機構が徐々に解かれていく可能性がある。賛美の歌詞や御言葉の黙想を通じて神からの慰めを感じると、憎しみを抱いていた相手が少しずつ異なる姿に見えてくるのだ。 張在亨牧師は、こうした変化を「聖霊だけが起こすことのできる奇跡」と呼んできた。深い対立の末に背を向け合った人々が、聖霊のもとで対話し、涙を流し合いながら祈る姿こそが、教会における紛争解決の本質を明確に示している。教会は人間が運営する組織である以前に、聖霊の導きに委ねられている霊的共同体だからだ。どれほど深刻な紛争であっても、聖霊の働きの前では、ある瞬間に心の壁が崩れる可能性が生まれる。ゆえに「御霊の何か交わり」は、教会の紛争解決に不可欠な要素なのである。 続けてパウロが言及する「憐れみ」と「慈しみ」も、聖霊の働きによって初めて成立する。紛争の渦中にいる人々は、相手を見ると憎しみや怒りが先立つ場合が多い。かつては親しく交わっていた兄弟姉妹でも、今や対立関係にあるため、煩わしさや不快感しか感じられないことも珍しくない。しかし、憐れみと慈しみが心に与えられると、その人の内面を思いやり、「あの人も神が愛してくださる魂だ」という視点を取り戻すことができるようになる。張在亨牧師は、教会紛争における最大の悲劇は、信徒同士が互いを敵視し、キリストの体を傷つけ合うことだと指摘する。一方で、憐れみと慈しみを実践し始めると、紛争の真っ只中でも相手を新しい目で見る可能性が開ける。つまり、「なぜあの人は、あのようにしか振る舞えなかったのだろう」という理解の感情が少しずつ芽吹いてくるのである。 長引く紛争を抱えた教会ほど、感情の溝が深く、簡単には解決に至らないことが多い。だからこそ張在亨牧師は、教会が日ごろから互いに慰め合い励まし合い、聖霊の交わりを十分に持つ習慣を築くことを強く勧める。問題が生じてから仲裁に奔走するのではなく、健全な信仰共同体として日々を積み重ねていれば、そもそも深刻な対立が起こりにくい。たとえ紛争が起きたとしても、すでに根付いている聖霊の交わりがあれば、解決に至る時間が短縮される。結局、パウロが示した「愛にあって何か慰め」と「御霊の何か交わり」は、紛争の瞬間を乗り越えるために教会が前もって用意しておくべき霊的基盤なのだ。 張在亨牧師は数々の説教の中で、「こうした霊的基盤が欠けている教会は、小さな問題でも容易に崩れてしまう」と警鐘を鳴らしている。活動が増え、教会員が増加すれば、互いのケアはますます複雑になる。それでも、祈祷会や礼拝、賛美の時間、小グループの交わりを通して継続的に聖霊のうちで交わる文化を築いておけば、紛争が生じても、互いを顧みる“回復力(レジリエンス)”が発揮されるのだ。そしてこの回復力こそ、憐れみと慈しみという実を結び、教会全体を再び安定へ、さらには一致へと導く原動力になる。 謙遜な心と「自分より他人を優れた者とみなす」姿勢 パウロはピリピ2章2~4節で、「心を合わせ、同じ愛の心を持ち、思いを一つにして、何事も利己的な争いや虚栄からするのではなく、へりくだった思いをもって互いに相手を自分よりも優れた者とみなしなさい」と、より直接的な勧めを述べている。これは、教会が紛争を解決したあと、どのようにして引き続き一致し、成長していけるのかを示す核心原理である。張在亨牧師は、とりわけ「謙遜」と「他人を自分より優れた者とみなす態度」を重要視する。教会で起こる紛争の多くは、大きな教理や理論の対立ではなく、ちょっとした誤解や自慢、虚栄心など、小さく見える感情的衝突がきっかけになることが多い。その際、最も必要なのが「謙遜な心」というわけだ。 パウロは「何事も利己的な争いや虚栄によって行ってはならない」と警告する。張在亨牧師によれば、教会紛争の多くが「私のほうが正しい」「なぜ私の意見を無視するのか」という承認欲求から始まるという。ある人が自分の主張を押し通そうとすれば、相手も自分の権利を守るために身構え、結局双方が意地を張り合い、深刻な対立へと発展してしまう。このような状況のなかで、パウロは「ただへりくだった思いをもって、相手を自分よりも優れた者とみなせ」と命じる。これは、相手が実際に自分より能力が高いか否かという話ではなく、相手をより深く尊重するための意志を示す行為なのだ。 張在亨牧師は「この決断を下すこと自体が容易ではない」と率直に語る。なぜなら、悔しさや怒り、プライドが私たちの胸を支配し、「少しでも譲歩すれば自分だけが損をするのではないか」という不安を抱きやすいからである。しかしパウロが具体的に示す「それぞれ自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい」という教えを実践してみると、紛争のただなかにあっても、むしろより深い関係性や共同体意識が生まれる。張在亨牧師は、しばしばこの言葉をガラテヤ6章2節「互いの重荷を負い合いなさい。そうすることでキリストの律法を全うすることになる」と結びつけて解説する。自分自身の重荷をしっかりと担うだけでなく、他者の重荷もともに負おうとするとき、教会はより強固になり、対立も緩和されるのである。 もちろん現場では、誰がどこまで相手の重荷を代わりに背負うのか、どこまで理解し支援すべきかといった複雑な問題が生じうる。だからこそ張在亨牧師は、教会が毎週の礼拝や週中の小グループを通じて、信徒の置かれている事情を詳しく知る機会を設けるよう勧めている。相手がどんな状況に直面しているのか知らなければ、たった一言の不用意な発言でも大きな傷を与える恐れがある。しかし先に相手の状況を把握していれば、「あの人も大変だから、あんなふうになるのだろう」と理解でき、不必要な衝突を防げるのだ。こうした取り組みを通じて、教会がふだんから同じ心を持って互いを気遣い、仕え合っていれば、いざ紛争が起きてもすぐに和解へ向かえる土台が整っている。 張在亨牧師は、このような実践が繰り返されるうちに、教会に「自分より他人を優れた者とみなす」雰囲気が醸成されると説く。互いを尊重し、立て合う過程を積み重ねることで、「誰が上に立つのか」をめぐる争いそのものが不要になっていく。皮肉にも、私たちが高慢や独善を捨てたとき、教会はかえって一層健全で力強い共同体へと成長する。こうしてパウロが獄中から「私の喜びを満たしてほしい」と記した真意が、改めて明るみに出る。ピリピ教会が紛争に煩わされることなく、一致した姿を見せてくれたなら、パウロは監獄の中にいようとも大きな喜びを得たに違いない、ということだ。要するに、これこそが教会が保持すべき根本姿勢なのである。 さらに張在亨牧師は、こうして互いに謙遜に仕え合う教会こそが、世に対して福音の香りを放つ証人になり得ると語る。もし教会が内部対立ばかりなら、人々は「愛し合えと言っているのに、なぜあの教会はあんなふうなのか?」と嘲笑するだろう。一方で教会が、紛争や対立を経験しながらも、自ら愛と仕え合いによって問題を克服していく姿を示すなら、人々は教会に注がれる聖霊の力とキリストの心を目撃するようになる。したがってピリピ2章のメッセージは、単なる内部問題の解決策にとどまらず、教会が世に福音を伝えるうえでも決定的な意味を持つ核心なのだ。 キリストの心と教会の回復 結論として、ピリピ2章5節でパウロは「あなたがたの間ではこの思いを抱きなさい。キリスト・イエスのうちにある思いです」と言い切る。張在亨牧師はこの聖句を最重要視し、教会が分裂や傷から回復するためには、「キリストの心」を真に抱くしかないと説いている。キリストの心とは、すなわち「ご自身を低くし、しもべの姿をとり、十字架の死に至るまで従順に歩まれた」謙遜と犠牲、憐れみと慈しみの心である。パウロは、この心を続く2章6~8節で賛歌のように描き出し、イエスが本来神の身分でありながら、罪人のために最も低いところにまで下られ、死に至るまで従われたことを強調している。 このようにキリストの心を抱くことは、教会の紛争だけでなく、私たちの信仰生活で直面するあらゆる葛藤を解くための要ともなる。問題は、それが言葉で言うほど容易ではない点にある。張在亨牧師は「私たちは小さな衝突でも簡単に怒りを爆発させ、感情が先行し、相手を思いやる前に自分の悔しさを訴えてしまう」と語る。こうしたときこそキリストの道、すなわち「自己を空しくする」ことが必要だが、人の本性はそれを拒もうとする。それゆえ、当事者同士が互いのプライドを下げられず、平行線をたどるケースは教会内でも珍しくない。 しかし「キリストの心」が実際に私たちの中に受け入れられるとき、まったく別次元の回復が起こり得る。聖霊の前に祈り、キリストの謙虚と犠牲を黙想するうち、私たちは相手の過ちを責める以前に自らを省みて悔い改めるようになる。張在亨牧師は、この過程を「自分の魂との対面」と呼ぶ。相手からの傷は大きいとしても、自分が先に相手を見下し、傷を与えていなかったかと再評価する機会が訪れるからだ。こうして高慢と怒りが溶解していく体験は、自力ではなく、聖霊から与えられる恵みによる。キリストの犠牲を黙想するとき、「主は私のような罪人のためにこれほどまで低くなられたのに、なぜ私は兄弟姉妹を受け入れられないのか」と悟らされるのである。 教会全体がこの思いを共有すれば、紛争が解消されるだけでなく、むしろ以前より絆が強化され、成熟が深まるということを何度も目撃してきたのが教会史でもある。互いを嫌悪していた人々が真実に和解し、以前以上に親密になる例が繰り返し存在するのだ。張在亨牧師はこれを「紛争がもたらす逆説的な祝福」と呼び、「紛争自体は痛ましいが、それをキリストの心で解決していくなら、教会はかえって一層美しく成長する」と強調する。 パウロがピリピ教会に「私の喜びを満たしてほしい」と求めたのも、まさに同じ文脈である。ピリピ教会はヨーロッパで初めて福音が伝えられた都市であり、ルディアらが始めた小さな祈り会から出発して、地域に福音を広げる中心的な教会となっていった。パウロはこの教会を深く愛し、「私の冠」と呼ぶほど大きな喜びを得ていた。ところが、その最愛の教会が紛争に巻き込まれたという知らせは、獄中のパウロをいっそう苦しめた。だからこそ彼は手紙で、キリストの心を回復し、互いに和解するよう強く訴えたのである。ピリピ教会が一時紛争状態にあったとしても、パウロの勧めどおりキリストにあって和解するなら、パウロは牢獄という環境を超える充ちあふれた喜びを得るに違いないからだ。 張在亨牧師は、現代の教会が抱える多種多様な紛争に関しても、まったく同じことが言えると指摘する。「教会が分裂しているとき、私たちの主イエス・キリストはどれほど心を痛められるだろうか」と。その教会は、イエスがご自分の血をもって買い取られ、世に神の愛を伝える使命を委ねられた共同体である。しかし紛争や対立の中で互いを傷つけ合っているなら、本来の使命を果たしづらい。一方、「キリストの心」に立ち戻ってお互いの傷を癒やし、必要であれば厳しいほどの話し合いや悔い改めを伴う本物の和解を成し遂げたとき、教会は以前にも増して強靱で豊かな共同体に変えられる。これはキリスト教史の各所で証明されてきた事実でもある。 さらに教会内に「キリストの心」が具体的に実行されると、世の人々は教会を通して福音のリアルな力を味わうようになる。張在亨牧師は、教会が紛争を隠蔽したり取り繕うのではなく、素直に悔い改めと相互の受容を選ぶ姿勢を見せるとき、かえって世は「教会という場所は、失敗を認め合い、愛で包み合うところなんだ」と目の当たりにし、福音の説得力をいっそう感じるようになる、と力説する。こうして人々は、教会がただ“愛”を口にするだけでなく、それを実際に生きていると知るのだ。 要するに、パウロがピリピ教会に示したメッセージは、2000年の時を経た今日でも教会にそのまま当てはまる。張在亨牧師は、多くの説教や講演で、ピリピ2章が示す四つの要素――勧め、愛の慰め、聖霊の交わり、憐れみと慈しみ――こそが、紛争を癒やす核心ステップであると繰り返し語ってきた。そしてそれらすべてを貫くのが「キリストの心」である。いかに激しい対立の嵐が吹き荒れようとも、この心を守り続ける教会であれば、分裂を乗り越えてより成熟した共同体へと生まれ変われる。教会が紛争をどう扱うかによって、人々の魂にいのちをもたらすこともあれば、逆に失望させて信仰の道から遠ざけてしまうこともある。そういう意味で、ピリピ教会の事例は私たちに非常に大きな教訓を与えている。 人は皆、弱く、失敗しやすい存在である。けれども張在亨牧師は、その弱さこそがむしろ教会を一層強くしていく契機になり得るのだと説く。へりくだって互いを大切に思い、心の奥深いところでキリストの品性に倣おうと努めるならば、紛争はむしろ霊的成長の扉になる。パウロが牢獄に囚われながらも、教会内部の紛争を憂慮し、手紙で切々とピリピの信徒を「勧め」「励まして」いたように、現代の教会指導者や信徒もまた、互いに同じ態度を求められているのだ。 結局、ピリピ2章でパウロが高らかに宣言した「あなたがたの間ではこの思いを抱きなさい。キリスト・イエスのうちにある思いです」という言葉は、教会紛争の解決にとどまらず、信仰共同体が向かうべき根源的な方向を示すものだ。張在亨牧師はこのメッセージを軸に、多くの教会を支え、分裂によって傷ついた人々を慰め、包み込む働きに献身してきた。その中心には常に「キリストの心」というテーマがある。教会がこの心を共有するとき、世は教会を通して神の愛を見いだし、救いの福音を体験するだろう。初期のピリピ教会が持っていた熱い情熱と献身が、紛争によってかすみそうになったとき、パウロは最後の処方箋として「キリストを見習いなさい」と命じた。そしてこれは、張在亨牧師が今日も変わらず示している揺るぎないメッセージでもある。教会が謙遜と愛をもって互いに仕えるならば、紛争はかえって新たな一致への始発点となり、パウロが願った「喜びに満ちる教会」が私たちの目の前に実現するのである。

Conflits dans l’Église et exhortation – Pasteur David Jang

Les conflits dans l’Église et l’exhortation De nos jours, lorsqu’on lit l’épître aux Philippiens, on réalise que le message de l’apôtre Paul à l’Église de Philippes ne se limite pas à une explication doctrinale générale sur la vie de foi. À l’époque où il rédigeait cette lettre, Paul était emprisonné. Après un long apostolat durant … Read more

Conflictos en la Iglesia y amonestación – Pastor David Jang

Los conflictos y la amonestación en la IglesiaCuando leemos hoy la Carta a los Filipenses, notamos que el mensaje que el apóstol Pablo deseaba transmitir a la iglesia de Filipos no se limitaba a una exposición doctrinal de la vida cristiana. Pablo escribió esta epístola mientras estaba encarcelado, y confiesa que, en su extenso ministerio … Read more

Church Conflict and Exhortation – David Jang

Church Conflict and ExhortationWhen we examine the Book of Philippians today, we realize anew that the message the Apostle Paul intended to convey to the church at Philippi was not merely a doctrinal explanation of the Christian life in general. At the time of writing this letter, Paul was in prison. Throughout his long ministry … Read more

교회 분쟁과 권면 – 장재형(장다윗)목사

교회의 분쟁과 권면오늘날 우리가 빌립보서를 살펴보면, 바울 사도가 빌립보 교회에 전하고자 했던 메시지가 단지 신앙생활 전반에대한 교리적 설명이 아니라는 사실을 새삼 깨닫게 된다. 그는 이 서신을 기록하던 당시 감옥에 갇혀 있었고, 여러지역을 다니며 복음을 전해 오던 긴 사역 가운데 가장 뼈아픈 고통은 외부의 핍박보다 교회 내부의 분쟁이었다고고백한다. 특히 빌립보 교회는 바울이 유럽 선교를 시작하며 들어간 첫 성(城)이었고, 그곳에서 루디아를 비롯한몇몇 여인들이 개척 멤버가 되어 복음의 토대를 놓았으나, 시간이 흐르면서 내부 갈등이 일어났다. 이 상황에 직면한 바울은 책망이나 질책이 아닌 아름답고 온유한 어조로 문제 해결을 제안한다. 장재형(장다윗)목사 역시 오늘날 교회에서 분쟁이 발생했을 때, 바울의 접근법을 본받아야 한다고 강조한다. 즉, 부드러운 권면과 격려로 시작해 갈등을 치유하는 과정이 매우 중요하다는 것이다. 장재형목사는 여러 설교를 통해, 갈등과 분쟁이 일어나는 교회가 회복되기 위해서는 결국 ‘그리스도의 마음’을품어야 한다고 역설해 왔다. 우리는 흔히 갈등 당사자들을 강하게 책망하거나 문제를 단칼에 잘라 내는 방식을 떠올리지만, 빌립보서 2장 1-4절을 보면 바울은 오히려 온유함을 통해 문제에 접근한다. 바울이 제시한 첫 번째 열쇠는 “권면”이다. 권면이란 서로에게 힘을 실어 주고 영혼을 격려하는 행위다. 이는 단순히 “열심히 해라” 혹은“너무 크게 생각하지 마라”라는 수준이 아니라, 당사자들의 마음속 깊은 곳까지 살피는 데서 시작된다. 때로 사람들은 자기합리화에 빠지지만, 동시에 죄책감과 수치심에 시달리기도 한다. 장재형목사는 창세기의 가인 이야기를 예로 들며, 가인이 동생을 죽였을 때조차 하나님은 그를 즉각 처벌하지 않고 보호해 주셨음을 상기시킨다. 심판이 당연해 보이는 상황에서도 가인을 해치지 못하도록 막아 주시고, 가죽옷을 지어 입히며 그의 영혼을 근본적으로 돌보셨다는 것이다. 그처럼 교회 분쟁의 당사자들에게도 우선 권면으로 다가서서, 그들이 내면에서 괴로워하고 있을 부분을 알아주어야 한다고 장재형목사는 말한다. 실제로 빌립보서 4장 2절에서 바울은 “유오디아를 권하고 순두게를 권한다”고 밝히며, 갈등 당사자들 각각에게동일하게 권면했다. 이는 어느 한쪽의 편만 드는 것이 아니라, 양쪽 모두에게 지혜롭게 접근함으로써 다툼을 부드럽게 풀어 가려는 태도다. 교회 내 갈등이 더욱 심해지는 주요 원인 중 하나는, 지도자나 주변 사람들이 자신과 더친하다고 여겨지는 쪽만을 감싸는 편파적 중재다. 바울은 이를 경계하며, 갈등 당사자들이 오히려 서로를 대면해보도록 도왔다. 장재형목사는 이 바울의 방법을 “공정성과 사랑이 조화를 이룬 목양적 돌봄”이라고 부른다. 그는이런 돌봄이 분쟁을 겪는 사람들에게 ‘공격성’을 부추기는 대신 ‘회복’과 ‘화해’를 가능하게 한다고 강조한다. 이처럼 빌립보 교회 안에 일어난 분쟁은 오늘날 교회에서도 크게 다르지 않다. 빌립보 교회는 루디아와 몇몇 여인들을 통해 세워진, 바울에게 특별히 소중한 공동체였다. 그러나 어느 순간 내부 갈등이 생기자, 바울은 감옥에 있으면서도 큰 괴로움을 겪었다. 오랜 시간 핍박과 고난을 이겨 낸 바울이지만, 교회에서 발생하는 분쟁만큼은 그어떤 시련보다 무거운 짐이 되었던 것이다. 장재형목사는 교회 안에서 갈등이 생기면, 보통 “누구의 잘못이 더 큰가?”를 따지며 책망으로 문제를 매듭지으려는 사람들이 많다고 지적한다. 하지만 바울은 제일 먼저 권면으로 접근했다. 이는 교회가 갈등 상황에서 지켜야 할 기본적인 윤리와 영적 지혜이기도 하다. 나아가 빌립보서 2장 1절에서 바울은 “그리스도 안에 무슨 권면이나 사랑에 무슨 위로나 성령의 무슨 교제나 긍휼이나 자비가 있거든…”이라고 말하며, 교회가 하나 되고 분쟁을 넘어서는 길을 구체적으로 제시한다. 장재형목사는 여기서 제시된 네 가지 요소가 긴장과 불화를 해결하는 단계라고 해석한다. 먼저 “그리스도 안에서”라는 말은, 교회 분쟁이 단순히 세상 사람들처럼 이해관계를 따라 판단해서는 안 된다는 전제 조건을 알려 준다. 교회란본질적으로 예수 그리스도의 몸이며, 우리가 믿음으로 연결된 공동체인 만큼, 갈등 자체도 그리스도 안에서 풀어가야 한다는 것이다. 사실 갈등의 골이 깊을수록 이 말이 쉽지 않게 들릴 수 있다. 분노와 억울함, 좌절에 사로잡힌 이들에게 ‘그리스도안에서’라는 표현은 너무나 멀게 느껴질 수 있기 때문이다. 장재형목사는 그래서 권면을 ‘추상적 교리’가 아니라, 갈등 당사자들을 실제로 품어 주는 ‘목양적 사랑’이라고 해석한다. 싸우는 이들의 속마음은 복잡하고, 상처가 많으며, 스스로를 곤경에 몰았다는 죄책감까지 뒤섞여 있다. 이때 가장 필요한 것은 책망보다 돌봄이고, 질타보다격려라는 것이다. 바울이 감옥에서 편지를 써 보낼 때조차도 우선 “서로 권면하라”고 한 이유가 바로 여기에 있다. 장재형목사는 또한, 권면이 일회성 설득으로 끝나서는 안 된다고 말한다. 분쟁 당사자들의 감정이 극도로 예민해져 있을 경우, 한 번의 설득으로는 부족하며 여러 차례 격려와 위로가 필요하다. 이런 면에서 교회 공동체 전체가갈등을 해결하려면, 서둘러 결론내기보다 시간을 들여 상대방의 이야기를 들어 주고, 기도로써 성령의 인도하심을 구해야 한다. 우리의 판단으로 어느 한쪽을 몰아붙이기보다, 모두가 조금씩 물러서고 자신을 돌아보도록 유도해야 한다는 것이다. 이런 과정을 통해 비로소 서로 마음을 열 수 있게 되고, 근본 원인을 직시해 화해의 길로 나아갈 수 있다. 사랑의 위로와 성령의 교제바울은 빌립보서 2장 1절에서 권면에 이어, “사랑에 무슨 위로나 성령의 무슨 교제나 긍휼이나 자비가 있거든”이라고 말한다. 두 번째로 중요한 키워드는 ‘위로’이되, 여기에 분명히 “사랑에 무슨 위로”라고 했다. 교회 안에서위로가 주고받긴 해도, 진심이 담기지 않으면 결국 표면적인 해결책에 그치기 쉽다. 장재형목사는 보통 “괜찮아, 다 지나갈 거야”라는 식의 말이 때로는 오히려 갈등 당사자에게 상처가 될 수 있다고 지적한다. 왜냐하면 이는 갈등을 발생시킨 당사자의 심정이나 상황을 세밀하게 들여다보지 않은 채, 피상적으로 대처하는 행위일 수 있기 때문이다. 진정한 사랑의 위로는 상대가 왜 그토록 분노하게 되었는지, 무엇이 그 영혼을 지치게 만들었는지, 이미 가슴속에쌓였던 상처나 아픔은 무엇인지를 살펴보는 데서 시작된다. 우리는 갈등 상황에서 상대를 납득시키거나 설득해야 한다는 부담을 느끼지만, 실제로는 그 이전에 상대방이 충분히 자신의 이야기를 할 수 있는 공간이 필요하다. 장재형목사는 “사랑에 무슨 위로”라는 말이 바로 이 지점에서 위력을 발휘한다고 설명한다. 자신이 곤경에 처했을 때, 누군가 한 사람이라도 마음으로부터 나를 이해해 주고 들어 준다면, 자연스럽게 마음의 문이 열리기 시작한다. 그제야 본격적인 갈등 해결의 출발점이 마련된다. 또한 바울은 “성령의 무슨 교제”라고 덧붙이며, 이런 사랑의 위로가 인간적인 감정만으로는 완성되지 않는다고강조한다. 교회는 어디까지나 하나님의 공동체이기 때문에, 진정한 치유는 성령의 도우심을 통해서만 가능하다는 것이다. 장재형목사는 여기서 “성령의 교제”를 교회 안에서 함께 예배하고, 찬양하며, 기도하는 과정 전반으로해석한다. 사람끼리만 대화하면, 감정이 격앙된 상태에서 서로 더 다치거나 역으로 상처를 내기 쉽다. 그러나 성령의 임재가 함께하는 예배나 기도 모임, 혹은 소그룹 모임에서는 마음에 무장했던 방어기제가 서서히 허물어질수 있다. 찬양 가사나 말씀 묵상 속에서 하나님이 주시는 위로와 음성을 듣게 되면, 미웠던 사람도 조금씩 다르게보이는 기적이 일어나는 것이다. 장재형목사는 이런 변화를 “오직 성령만이 가능한 기적”이라 표현해 왔다. 갈등이 심각해 서로 등을 돌렸던 사람들이 성령 안에서 대화하고 함께 눈물 흘리며 기도하는 장면은, 교회 갈등 해결의 본질이 무엇인지를 극명하게 보여 준다. 교회는 사람이 운영하는 조직이기 이전에, 성령이 이끄시는 영적 공동체이기 때문이다. 우리가 아무리극심한 갈등을 겪어도, 성령의 역사 앞에서는 어느 순간 마음의 장벽이 허물어질 수 있다. 그런 점에서 “성령의 교제”는 교회 분쟁 해결에 필수적인 요소다. 이어서 바울이 언급한 “긍휼과 자비”도 성령의 역사를 통해 비로소 가능해진다. 갈등에 휩싸인 사람들은 서로를볼 때 미움과 분노가 먼저 솟아난다. 상대가 한때 친한 형제자매였어도, 지금은 분쟁 중이니 귀찮고 불편한 존재로 여겨질 수 있다. 그러나 긍휼과 자비가 임하면, 그 사람의 내면을 측은히 여기고, ‘그도 하나님이 사랑하시는영혼’임을 다시 떠올리게 된다. 장재형목사는 교회 분쟁의 가장 큰 비극은, 성도들이 서로를 적대시하고 그리스도의 몸을 상처 내는 데 있다고 말한다. 반면 긍휼과 자비를 실천할 때, 비록 갈등이 해결되기 전이어도 서로에게새로운 시선을 갖게 된다. 즉, ‘저 사람이 왜 저렇게밖에 할 수 없었을까?’라는 이해의 마음이 서서히 싹트는 것이다. 갈등이 오래된 교회일수록, 감정의 골이 깊어 한 번의 노력으로는 해소되지 않는다. 장재형목사는 그렇기 때문에교회가 평소에 서로 위로하고 격려하며, 성령 안에서 자주 교제하는 습관을 가져야 한다고 권면한다. 문제가 발생한 뒤에야 분주하게 나서서 중재하기보다는, 평소에 건강한 신앙 공동체로 세워져 있으면 갈등이 일어날 여지가줄어든다. 그리고 혹 갈등이 생기더라도, 성령의 교제가 이미 견고히 자리 잡은 교회라면 해결까지 걸리는 시간이짧아진다. 결국 바울이 말한 “사랑에 무슨 위로”와 “성령의 무슨 교제”는 교회가 분쟁의 순간을 잘 넘기도록 마련해 두는 영적 기반이다. 장재형목사는 여러 설교에서 “이런 영적 기반이 없는 교회는 작은 문제에도 쉽게 무너진다”고 경고한다. 사역이복잡해지고, 교인 수가 많아질수록 서로 관리하기 어려워진다. 그럼에도 불구하고, 기도 모임이나 예배, 찬양 시간, 소그룹 나눔 등을 통해 지속해서 성령 안에서 교제하는 문화를 만들어 두면, 갈등이 일어나도 서로 돌아보는회복력(resilience)이 발휘된다는 것이다. 그리고 이 회복력은 긍휼과 자비라는 열매로 나타나, 결국 교회 전체를안정시키고 다시금 연합하게 만든다. 겸손한 마음과 자기보다 남을 낫게 여기는 자세바울은 빌립보서 2장 2-4절에서 더 직접적으로 “마음을 같이 하여 같은 사랑을 가지고 뜻을 합하며 한 마음을 품어, 아무 일에든지 다툼이나 허영으로 하지 말고, 오직 겸손한 마음으로 각각 자기보다 남을 낫게 여기라”고 말한다. 이는 교회가 분쟁을 해결한 뒤 어떻게 계속 연합하고 성장할 수 있는지 보여 주는 핵심 원리다. 장재형목사는이 구절에서 ‘겸손’과 ‘남을 낫게 여기는 태도’를 특히 강조한다. 교회에서 흔히 일어나는 갈등은 대단히 큰 문제때문이 아니라, 작은 오해나 잘난 척, 허영심 등 사소해 보이는 감정적 충돌에서 비롯되곤 한다. 이때 가장 필요한것이 바로 “겸손한 마음”이다. 바울은 아무 일에든지 “다툼이나 허영으로 하지 말라”고 경고한다. 장재형목사는 교회 분쟁의 상당수가 “내가 더옳다”, “왜 내 말은 들어 주지 않느냐”라는 식의 인정욕에서 생긴다고 지적한다. 한쪽에서 주장을 펼치면, 상대는자신의 권리를 빼앗기지 않으려고 방어기제를 작동하고, 결국 양편이 고집을 부리다가 파국으로 치닫는다. 이런상황에서 바울은 “오직 겸손한 마음으로 각각 자기보다 남을 낫게 여기라”고 명령한다. 이는 상대가 실제로 나보다 나은 능력을 가졌음을 인정하는 것이 아니라, 상대를 더 존중하겠다는 결단을 의미한다. 장재형목사는 “이 결단 자체가 쉽지 않다”고 솔직히 말한다. 억울한 마음, 분한 감정, 자존심 등이 우리를 사로잡기 때문에, “내가 조금만 더 양보하면 혹시 나만 손해 보는 것 아닐까?” 하는 두려움이 생긴다. 그러나 바울이 구체적으로 말한 대로 “각각 자기 일을 돌아볼 뿐더러 또한 다른 사람들의 일을 돌아보라”는 가르침을 실천하면, 오히려 갈등 속에서 더 깊은 관계와 공동체 의식이 생긴다는 것이다. 장재형목사는 이를 자주 갈라디아서 6장 2절의“서로 짐을 지라 그리하여 그리스도의 법을 성취하라”는 말씀과 연결해 해석한다. 즉, 내가 짊어질 짐만 잘 지는게 아니라, 다른 이의 짐도 함께 져 줄 때 교회는 튼튼해지고, 다툼이 누그러진다. 물론 실제 현장에서는 누가 누구의 짐을 얼마나 대신 져 줄 수 있는지, 어디까지 이해하고 도와야 하는지 등 문제가 복잡하게 얽혀 있을 수 있다. 장재형목사는 그래서 교회가 매주 드리는 예배나 주중 소그룹 모임에서 성도들의형편을 자세히 알 기회를 마련해야 한다고 조언한다. 상대가 어떤 환경에 처해 있는지 제대로 알지 못하면, 작은말 한 마디에도 상처를 줄 수 있다. 그러나 미리 서로의 상황을 알고 있다면, “저 사람도 힘들어서 저러는구나” 하고 이해할 수 있고, 불필요한 오해와 다툼을 예방할 수 있다. 이렇게 교회가 평소에 한마음으로 서로 살피고 섬기는 노력을 기울이면, 갈등이 생겨도 곧바로 화해할 수 있는 토대가 마련된다. 장재형목사는 이런 실천이 반복되면서 교회 안에 ‘자기보다 남을 낫게 여기는 분위기’가 자리 잡게 된다고 주장한다. 서로 상대를 존중하고 세워 주는 과정에서, 더 이상 누가 윗자리에 오를 것인가를 두고 다툴 필요가 없게 되는 것이다. 아이러니하게도, 우리가 교만과 독선을 버릴 때 교회는 오히려 더 건강하고 강건해진다. 이를 통해 바울이 옥중에서 “나의 기쁨을 충만케 하라”고 말한 의도가 다시금 빛난다. 빌립보 교회가 분쟁 없이 연합을 이루는모습을 본다면, 바울은 옥에 갇혀 있어도 큰 기쁨을 누릴 것이라는 의미다. 결국 이것이 교회가 가져야 할 가장 근본적인 자세이기도 하다. 나아가 장재형목사는, 이렇게 겸손히 서로를 세우는 교회가 곧 세상에 향기로운 복음의 증인이 된다고 말한다. 교회 내부에서 다툼이 끊이지 않으면, 세상 사람들은 “서로 사랑하라던 교회가 어째서 이런가?”라며 비웃기 십상이다. 반면 교회가 갈등과 분쟁을 겪다가도 사랑과 섬김으로 스스로 문제를 해결해 나가는 모습을 보인다면, 세상은교회 안에 흐르는 성령의 힘과 그리스도의 마음을 목격하게 된다. 그래서 빌립보서 2장의 메시지는 단지 교회 내부 문제 해결에서 끝나는 것이 아니라, 교회가 세상에 복음을 전하는 데에도 결정적인 영향을 미치는 핵심이라는것이다. 그리스도의 마음과 교회의 회복결국 빌립보서 2장 5절에서 바울은 결론적으로 “너희 안에 이 마음을 품으라 곧 그리스도 예수의 마음이니”라고선언한다. 장재형목사는 이 구절을 가장 강조하며, 교회가 분열과 상처에서 회복되려면 그리스도의 마음을 진정으로 품어야 한다고 설교한다. 그리스도의 마음은 곧 ‘자기를 낮추고 종의 형체를 입어 십자가에 죽기까지 복종하신’ 겸손과 희생, 긍휼과 자비의 마음이다. 바울은 그 마음을 일종의 ‘찬가’처럼 이어지는 2장 6-8절에서 구체적으로 묘사한다. 예수께서 본래 하나님의 본체이시며 모든 영광을 누리실 수 있었음에도, 죄인을 위해 가장 낮은자리에 오셔서 죽기까지 복종하셨다는 사실이 그 중심을 이룬다. 이처럼 그리스도의 마음을 품는 것은, 교회 분쟁뿐 아니라 우리가 신앙생활 전반에서 마주치는 크고 작은 갈등을해결하는 핵심 열쇠이 된다. 문제는 이것이 말처럼 쉽지 않다는 점이다. 장재형목사는 설교에서 “우리는 작은 갈등만 생겨도 쉽게 분노하고, 감정이 앞서며, 상대를 배려하기보다 자신의 억울함을 먼저 호소하게 된다”고 지적한다. 이럴 때야말로 그리스도의 길, 즉 ‘자기 비움’을 실천해야 하는데, 인간의 본성은 이를 거부한다. 그래서 갈등 당사자들이 서로 자존심을 내려놓지 못한 채 평행선을 달리는 모습이 교회 안에서도 흔히 나타난다. 그러나 “그리스도의 마음”이 실제로 우리에게 들어오면, 전혀 다른 차원의 회복이 가능해진다. 성령 안에서 기도하며 그리스도의 겸손과 희생을 묵상할 때, 우리는 상대의 잘못을 지적하기 이전에 먼저 자신을 돌아보고 회개하게 된다. 장재형목사는 이 과정을 가리켜 “자기 영혼과의 직면”이라고 부른다. 상대가 주는 상처도 크지만, 사실내가 먼저 상대를 무시하거나 상처를 주지는 않았는지 재평가하는 순간이 온다. 교만과 분노가 녹아내리는 이 체험은, 내 힘으로 만들어 낼 수 있는 것이 아니라 성령으로부터 부어지는 은혜다. 그리스도의 희생을 묵상할 때, “주님도 나 같은 죄인을 위해 이렇게 낮아지셨는데, 나는 왜 형제자매를 품지 못하는가?”라는 각성이 일어난다. 교회가 이 마음을 함께 품으면, 그때부터는 갈등이 해소되는 차원을 넘어 오히려 관계가 더 견고해지고 성숙해지는 경험을 하게 된다. 서로 미워하던 이들이 진심으로 화해하고, 이전보다 더 친밀한 관계로 발전하는 사례가 교회 역사 속에서 끊임없이 반복되어 왔다. 장재형목사는 이를 “갈등이 가져다주는 역설적 유익”이라고 부르면서, “갈등 자체는 아프지만, 그것을 그리스도의 마음으로 해결해 나갈 때, 교회는 오히려 더 아름답게 성장할 수 있다”고 강조한다. 바울이 빌립보 교회를 향해 “나의 기쁨을 충만케 하라”고 당부한 것도 같은 맥락이다. 빌립보 교회는 유럽 대륙최초로 복음이 전해진 도시였고, 루디아 등을 통해 시작된 소규모 기도 모임에서 출발해 그 지역에 복음을 확산시키는 핵심 교회가 되었다. 바울은 이 교회를 각별히 사랑했으며, “나의 면류관”이라고 불렀을 만큼 큰 기쁨을 누렸다. 그런데 그토록 자신이 사랑하는 교회가 분쟁에 휩싸였다는 소식은 옥중에 있는 바울에게 큰 고통이었다. 그래서 그는 편지를 통해, 그리스도의 마음을 되찾아 서로 화해할 것을 간절히 호소했다. 분명 빌립보 교회는 갈등을 겪었지만, 바울의 권면대로 그리스도 안에서 화합한다면, 바울에게는 감옥이라는 물리적 환경을 초월하는 충만한 기쁨이 있을 것이기 때문이다. 장재형목사는 오늘날 교회들이 겪는 다양한 분쟁에 대해서도 같은 메시지를 제시한다. “교회가 분열될 때, 우리구주 예수 그리스도는 얼마나 마음 아파하실까?”라는 물음이다. 교회는 예수님이 자기 피로 사신 공동체로, 세상에 하나님 사랑을 전하는 사명을 맡았다. 그러나 분쟁과 다툼에 빠져 서로를 헐뜯는 모습을 보인다면, 그 본질적사명을 감당하기가 어렵다. 반면 “그리스도의 마음”으로 돌아가 서로의 상처를 보듬고, 필요한 경우 강도 높은 논의나 회개를 거쳐 진정한 화해를 이룬다면, 교회는 이전보다 훨씬 단단하고 풍성한 공동체가 된다. 이는 기독교역사 곳곳에서 증명된 사실이기도 하다. 더 나아가, 교회 안에서 그리스도의 마음이 구현될 때, 세상은 교회를 보며 복음의 실제적 힘을 체험한다. 장재형목사는 우리가 교회 분쟁을 은폐하거나 가식적으로 치장하기보다는, 솔직한 회개와 서로 용납하기를 선택하는모습을 보일 때, 오히려 세상은 “아, 교회라는 곳이 이렇게 자기 잘못을 인정하고 서로 사랑으로 감싸 주는 곳이구나!”라고 깨닫게 된다고 말한다. 이로써 복음은 더 설득력을 지니게 되며, 사람들은 교회가 말로만 사랑을 외치는곳이 아니라 실제로 사는 곳임을 발견한다. 결론적으로, 바울이 빌립보 교회에 전한 이 메시지는 2,000년의 세월을 넘어 현대 교회에도 동일하게 적용된다. 장재형목사는 수많은 설교와 강연에서, 빌립보서 2장에 나타난 네 가지 요소–권면, 사랑의 위로, 성령의 교제, 긍휼과 자비–가 바로 분쟁을 치유하는 핵심 단계라고 거듭 강조해 왔다. 그리고 그 모든 과정을 관통하는 것이 “그리스도의 마음”이다. 갈등이 거세게 불어와도, 그 마음을 품고 있는 교회라면 분열을 뛰어넘어 더 성숙한 공동체로 재탄생할 수 있다. 교회가 분쟁을 어떻게 다루느냐에 따라, 사람들의 영혼에 생명을 전할 수도 있고, 그들을 실망시켜 믿음을 떠나게 만들 수도 있다. 따라서 빌립보 교회의 사례는 우리에게 매우 중요한 교훈을 준다. 우리는 모두 연약하고 실수하기 쉬운 존재다. 그러나 장재형목사는 그 연약함이 오히려 교회를 더 단단히 세워 나갈 수 있는 기회라고 말한다. 겸손히 서로를 귀히 여기고, 마음속 깊은 곳에서부터 그리스도의 성품을 본받으려애쓴다면, 갈등은 오히려 영적 성장을 위한 통로가 된다. 바울이 감옥에 갇혀 있으면서도 교회 안의 분쟁을 염려했고, 그 염려를 편지에 담아 빌립보 성도들을 ‘권면’하고 ‘격려’했던 것처럼, 지금의 교회 지도자들과 성도들도서로를 향해 동일한 태도를 지녀야 한다는 것이다. 결국 빌립보서 2장에서 바울이 선포한 “이 마음을 품으라 곧 그리스도 예수의 마음이니”라는 구절은, 교회 분쟁의 해결뿐 아니라 신앙공동체가 나아갈 근본 방향을 제시한다. 장재형목사는 이 메시지를 늘 붙들고, 여러 교회를섬기며, 분열로 인해 상처받은 이들을 위로하고 보듬는 사역에 헌신해 왔다. 그 중심에는 언제나 ‘그리스도의 마음’이라는 화두가 있다. 교회가 그 마음을 공유할 때, 세상은 교회를 통해 하나님의 사랑을 보고, 구원의 복음을체험할 것이다. 빌립보 교회가 초창기에 품었던 뜨거운 열정과 헌신이 분쟁으로 흐려졌을 때, 바울이 전한 최후의처방도 결국 ‘그리스도를 본받으라’는 명령이었다. 그리고 이는 오늘날 장재형목사가 제시하는 확고부동한 메시지이기도 하다. 교회가 겸손과 사랑으로 서로를 섬길 때, 갈등은 새로운 연합의 출발점이 되고, 바울이 바랐던 “기쁨이 충만해지는 교회”가 바로 우리 눈앞에서 실현될 수 있다.