ペテロの否認と回復 – 張ダビデ牧師

1. ペテロの否認に現れた人間の弱さ ペテロがイエスを三度否認した場面は、福音書ごとに細かな描写は多少異なるものの、本質的には同じ出来事を伝えています。本稿では主にヨハネの福音書18章22-27節を中心に、さらにルカの福音書22章31-32節、使徒の働き4章1-12節など他の聖書箇所を補助的に見ながら、ペテロがどうしてあれほど容易に主を否認するに至ったのか、その人間的弱さの根源を探ってみたいと思います。特に張ダビデ牧師が強調するように、ペテロの失敗は、その時の瞬間的な恐れや状況的圧力の産物であると同時に、その背後にある霊的現実――つまりサタンの試みと人間の内面に潜む弱さ――から来るものである点を見逃してはなりません。 ペテロはその前に「主と共に死ぬことがあっても、決して主を否認しません」(マ 26:35; マコ14:31)と断言していた人物です。弟子たちの中でも最も情熱的で、一方では性急で大胆な発言や行動も辞さない性格でした。それにもかかわらず、いざ決戦の瞬間が近づいたとき、彼は弟子のリーダーとしての堂々たる姿勢を保てず、ついには「私はあの人を知らない」という言葉で締めくくられる、悲劇的な否認の場面を生み出してしまったのです。 ヨハネの福音書18章22-27節では、イエスがすでに公の場で「もしわたしが間違ったことを言ったのであれば、その誤りを証明せよ。正しく言ったのであれば、なぜわたしを打つのか」(ヨ18:23)と問いかけたにもかかわらず、それにきちんと答えられなかったアンナスは、イエスに暴力を振るい、結局イエスを娘婿のカヤパのもとへ送ります(ヨ18:24)。ちょうどそのとき、イエスが大祭司に尋問され、侮辱を受けているあいだ、ペテロは外で人々と共に火にあたっていました。もしかすると、ペテロはイエスに近づいて何か声を聞くこともできなかったかもしれませんし、自ら進んで弁護どころか、自分の身すら守るのが難しかったのかもしれません。あるいは、心さえ決めれば積極的にイエスの側へ行くこともできたはずですが、現実には恐れが彼を押しつぶしました。その理由は何だったのでしょうか。 第一に、「イエスの弟子であることが知られれば、イエスと同様に裁判にかけられるかもしれない」という恐怖がありました。すでにイエスが捕らえられる状況で、ペテロは自分の身分が明らかになったら、同じ尋問を受けることになり、ひいては命さえ危うくなるかもしれないという恐怖にとらわれたでしょう。ペテロは瞬時に「本当に主と共に死ぬ覚悟ができているのか?」という問いの前に立たされ、その答えは彼の行動に明白に表れました。そのとき彼は、女中の問いかけや他の召使いの追及を何とかかわすために、「私はあの方の弟子ではない」という嘘を重ねて言うことになったのです。 第二に、人間的な「自信過剰」が崩れたときに訪れる絶望感と当惑が作用したでしょう。ペテロは弟子の中で最も「主を愛し、情熱的に従い、どんな危険もいとわない準備ができている」と思っていた人物です。イエスが捕らえられるとき、大祭司のしもべマルコスの耳を剣で切り落とした場面(ヨ18:10)にも、ペテロの性急でありながら献身的な態度が垣間見えます。ところが、そうまでしていたペテロが、いざ自分の生命と安全が真に脅かされるように感じた途端、彼の心は一気に「逃げる」方向へ傾いてしまいました。それは「死んでも否認しない」と大口を叩いていた自分自身の言葉が崩れ去る瞬間であり、同時に、主の前では決してしたくなかった最悪の選択をしてしまっている自分の姿を見て、大いに当惑した可能性が高いのです。だからこそ、ルカの福音書22章61節にあるように、ペテロが三度目に否認したとき、イエスと目が合ったと記されています。その短い視線の交錯がペテロの胸を深く突き刺し、ついには外へ出て激しく泣きました(ルカ22:62)。 第三に、サタンの試みという霊的次元が横たわっていました。ルカ22章31節で「シモン、シモン、見よ、サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願った」とあるように、イエスはあらかじめペテロに警告されました。サタンはイエスの弟子たちを徹底的に揺さぶり、試みようとしており、中でも「最も先頭に立ってイエスに従う」と豪語していたペテロは、特に強い攻撃の標的になった可能性が高いのです。イエスは続けて「しかしわたしは、あなたの信仰がなくならないようにあなたのために祈りました。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)とおっしゃいました。この警告と同時に与えられた主の励ましは、ペテロが確かにつまずくだろうけれど、最終的には必ず回復し、新たに使命を与えられるという約束でもありました。しかしペテロは「自分は決して主を否認しない」と思い込んでおり、実際に現場の状況が起きたとき、容赦なく崩れ去ってしまったのです。 張ダビデ牧師はこの部分について、「人間の弱さはまさにこの『瞬間的な恐れ』に最も鮮明に表れる」と語ります。そして「日常では全く問題なく語れる信仰告白であっても、いざ自分の命がかかるほどの状況に直面すると、これまで築いてきた確信が小雨で服が濡れるように、あっという間に消えてしまうことがある。これが弱い人間の正直な姿であり、だからこそさらに目を覚まして祈らなければならない」という点を強調します。実際、ペテロは頭では「イエスを否認することが正しくない」ことを分かっていただろうし、否認したくなかったはずですが、そのときは極度の恐怖と不安が彼の内面を揺さぶったのです。一瞬の恐れの前で、すべての決心と覚悟が崩れ落ちる様は、現代のクリスチャンが経験し得る姿でもあります。人によって異なりますが、私たちは信仰的に非常に確信があるように見えても、いざ職場や家庭、あるいは社会の偏見や圧力の中でイエスを証しすべき場に置かれると、簡単に口を閉ざしてしまったり、防御的な態度を取ってしまったりすることがあります。 ヨハネの福音書18章でペテロは火に当たっていた人々と全く同じように振る舞い、自分が「イエスとは何の関係もない者」であるかのように見せようと必死に努めました。他の福音書の記録を見ると、火の光がまだ弱い時は人々の目をある程度ごまかせましたが、火が激しく燃え始めて明るくなると、ペテロの顔がはっきりと照らし出され、女中や他の人たちが「あなたもイエスと一緒にいたのではないか」と遠慮なく追及します。そうした過程を経てペテロは三度も「主を知らない」「自分はあの人と何の関係もない」と断言することになりました。三度の否認の後、夜が明けかけて鶏が鳴き、そのときになってペテロは「鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度否認するだろう」という主の言葉を思い出し、外へ出て激しく泣きます(ルカ22:62)。「この瞬間だけ逃れればどうにかなるだろう」、「もう少し我慢すれば、あるいは隠れていれば大丈夫かもしれない」という甘い考えが、結局ペテロを罪の深い泥沼へと引きずり込み、痛烈な後悔の場に立たせました。 これに対して張ダビデ牧師は「ペテロがあそこまで激しく泣いた理由は、単に『罪悪感』だけでなく、これまで自信を持っていた『揺るぎない信仰』、『主への絶対的献身』が一瞬にして粉々に砕け散ったという事実に気づいたからだ」と分析します。人は誰でも、環境や状況が急変するとき、特に生存がかかった切迫した瞬間には、肉体的・精神的恐怖によってあらゆる霊的決断が後回しにされるという経験をするかもしれません。だからこそ聖書は絶えず私たちに「目を覚ましていなさい」(マコ14:38)、「誘惑に陥らないように祈りなさい」(マ26:41)と促します。ルカ22章31-32節でイエスがペテロのために「あなたの信仰がなくならないように祈りました」とおっしゃったのは、ペテロだけでなく現代を生きる私たち全員に対するメッセージでもあります。サタンが麦をふるいにかけるように私たちを揺さぶろうとするとき、自分の力や意志で耐えられると思って高をくくっていてはなりません。ペテロのように信仰の先頭に立っていると思われる人でも崩れ落ちる可能性があるという事実は、私たちに深い警戒心を与えます。 しかしこれで終わりではありません。聖書はペテロの「否認」だけに焦点を当ててはいません。むしろその後に続く「回復」と「新たな献身」の物語が、聖書全体の流れの中でより重要な役割を果たすことを私たちは知っておくべきです。人間がいかに弱い存在であるかを如実に示す事件がペテロの否認ですが、同時にその弱さを越える「神の恵み」が続くという事実をはっきりと心に留める必要があります。張ダビデ牧師は「人間の弱さを認めるところからこそ、真の悔い改めと回復が始まる。ペテロは三度の否認の後に完全に打ちのめされたが、その打ちのめしの瞬間が彼を徹底的に低くし、やがて主の御手に再びつかまるきっかけとなった」と強調します。それでは、自然に第二の小見出しへと移り、ペテロがこの失敗の場からどのように再び立ち上がり、最終的に「証人」となって世界に福音を伝える使徒へと変貌を遂げたのかを考察してみましょう。 2. 否認の後、ペテロに臨んだ回復の恵みと証人の使命 ペテロがイエスを三度否認して激しく泣いたあの夜明け以降、彼はしばらくの間、自分が「筆頭弟子」という肩書を担うことなど到底できないほどの罪悪感と失敗感に苦しんだことでしょう。しかしイエスは復活後、弟子たちに何度か現れた際に、特にペテロに対して回復の機会を与えられました。ルカの福音書24章やヨハネの福音書20-21章などを読むと、復活されたイエスが何度か弟子たちに現れ、その中でもヨハネの福音書21章でペテロを再び呼び出し、三度「あなたはわたしを愛しますか」と尋ねられます(ヨ21:15-17)。これはペテロが三度否認した過ちを、イエスが正面から回復させる象徴的な場面です。ペテロは「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と三度答え、イエスはそのたびに「わたしの羊を飼いなさい」、「わたしの羊を牧しなさい」と言って、ペテロに再び使命を委ねられました。これこそが「回復」です。イエスはペテロの失敗を指摘はされますが、決して裁いて見捨てることはなく、悔い改める者を支え、再び立たせ、証人として用いられるのです。 しかしこの「回復」は、ペテロ自身がひざまずき、徹底的に自分が罪人であると認める姿勢から始まります。ルカ22章61-62節の記録のとおり、イエスと目が合った瞬間、ペテロは主の言葉を思い起こし、激しく泣きました。その涙は単なる感情的、一時的な悲しみの表出ではありませんでした。彼は本当に自分の敗北と弱さを痛感し、自分の義(正しさ)や自分の力では主に従えないことを骨の髄まで思い知ったのです。張ダビデ牧師はこの点について「悔い改めとは、人間が自分で罪悪感を覚えるレベルを超えて、神の御心の前で自分の存在と限界をありのままに見つめる行為である。だから真の悔い改めには自己を空しくすることと同時に、神の恵みを切実に求める渇望が伴う」と語ります。ペテロの慟哭にはまさにその「切実な渇望」が含まれており、イエスはその渇望を退けられなかったのです。 やがて時が流れ、使徒の働きに移ると、復活したイエスに出会い、聖霊の力を受けたペテロは、以前とは全く変わった人物として登場します。使徒の働き2章で聖霊が下ると、ペテロはいわゆる「ペンテコステ説教」を行い、およそ3千人の回心者を導き、エルサレム教会の誕生を告げる中心的存在となります(使 2:14-41)。そして使徒の働き3章では、ペテロとヨハネが宮の門(美しの門)で、生まれつき足の利かない人を癒す場面が続きます(使3:1-10)。その出来事がきっかけで多くの群衆が集まると、ペテロはまたしても大胆に福音を宣べ伝えます(使3:12-26)。このため、宗教指導者たちは彼らを逮捕して尋問しますが、まさにそのとき登場する大祭司たちの名が「アンナス」と「カヤパ」です(使4:6)。これはヨハネの福音書18章でイエスを尋問したあの人たちでもあります。かつてペテロが彼らの前でイエスを弁護するどころか、外で火にあたっているあいだに主を否認してしまった記憶を思い起こせば、この場面は非常に意味深いものです。 今やアンナスとカヤパの前に再び立つペテロはどうでしょうか。彼は「この方(イエス)のほかには、だれによっても救いはありません。天の下で人が救われるべき名はこの御名のほかに与えられていないのです」(使4:12)と断言し、ためらうことなく福音を宣言します。そして13節を見ると、彼らはペテロとヨハネが「無学な平凡な人」であるにもかかわらず大胆に語るのを見て驚き、「彼らがイエスと共にいたのだということも知っていた」(使4:13)とあります。かつては「私はあの人を知らない」と否認していたペテロが、今や「私たちは見たこと、聞いたことを話さないわけにはいかない」(使4:20)と公言し、自分がイエスの弟子であることを公に認めています。ここには「否認」と「告白」というはっきりとした対比が見られます。以前は「私は違う」と言っていたペテロが、今や「イエスこそ私たちの救いであり、私もその方の弟子だ」と宣言しているのです。 張ダビデ牧師はこの変化の核心要因を「復活したイエスの確かな体験と聖霊の臨在」であると指摘します。ペテロは人間的な義では失敗しましたが、真に悔い改めて低くなったとき、イエスの「復活」が彼の魂に新たな希望を吹き込み、ペンテコステ(五旬節)の聖霊降臨によって彼のうちに働かれた聖霊が、恐れなく福音を証しする使徒へと彼を一変させたのです。結局、ペテロは過去に失敗したものの、その失敗がかえって彼を謙遜にし、主の恵みに切実にすがらせた結果、新たな力を得ました。そしてその力によって、「ペテロ」という名は初代教会で重要なリーダーとして確立されるに至ったのです。これこそ、回復の恵みが人間の弱さをいかに変えていくかを示す代表的な例だと言えるでしょう。 一方、私たちはこの過程を通して、張ダビデ牧師が繰り返し語る「証人としての生き方」を学ぶことができます。ペテロが最終的に否認の場を離れ、今度は福音のために命さえ惜しまないところまで至ったのは、単なる人間的な決意や努力の結果ではありません。ヨハネの福音書21章で主から「わたしの羊を飼いなさい、牧しなさい」という言葉を受け取ったあと、実際に人々の前で福音を伝え、教会を建てる証人へと変貌したのは、明らかに神が注がれた恵みの結果です。しかし同時に、ペテロは自分の奥底にある高慢や恐れを悔い改め、従順に歩む意志を示しました。十字架の後、復活の後、そしてペンテコステの聖霊降臨の後、ペテロは自分の信仰の土台をはっきりとイエスに置き、もはや人間的なプライドや自己確信に頼らなくなりました。むしろ「神様が恵みを与えてくださらなければ、私はまたしても倒れてしまうほかない」という姿勢で立ったのです。 私たちもそれぞれの人生の中で「ペテロの否認」のような瞬間に直面することがあるかもしれません。職場や学校、社会の中、あるいは家族の間でも、イエスを認めることが重荷になったり怖くなったりする場面に出会うことがあります。特に韓国社会、あるいは日本社会であっても、時には宗教的偏見や無神論的な雰囲気が強いとき、あるいは自分の弱点や失敗が明るみに出ることを恐れるあまり、「私はあの方とは関係ない」と逃げ出したくなる誘惑を受けることがあるでしょう。しかし、そうしたときこそヨハネの福音書18章のペテロを思い起こすべきです。「私は違う」と否認して、鶏の鳴き声を聞いたあと、外に出て泣き崩れたペテロ、そしてルカ22章31-32節でイエスがすでに彼のために祈ってくださっていたこと、サタンが麦をふるいにかけるように私たちを揺さぶることがあるという事実を思い起こす必要があります。そして使徒の働き4章のペテロをもう一度思い返すべきです。同じアンナスとカヤパの前に立っているにもかかわらず、今や「私たちは自分が見たこと、聞いたことを話さないわけにはいかない」と宣言し、主が与えてくださる救いの名がイエス以外にないことを証しする大胆さ。まさにそれこそ、回復したペテロの姿であり、聖霊に満たされた結果です。 張ダビデ牧師はペテロのこの変化を、「苦難前後のペテロ、否認前後のペテロ、聖霊体験前後のペテロ、これら三つの場面を比較してみると、信仰の核心は結局『自分自身の義』ではなく『神の恵み』であると学ぶ過程だ」と述べています。このようにペテロが「極度の失敗」を経験したからこそ、後にはより大きなレベルで「神の国に貢献する使徒」になれたというのです。実際、使徒の働き全体を通してペテロがエルサレム会議(使15章)でも重要な発言をし、異邦人の百人隊長コルネリオの出来事(使10章)を通して福音が異邦世界に広がっていく礎を築く場面などを目撃します。もしペテロが失敗することなく一直線に順調に歩んでいたら、果たして他者の弱さを深く共感し、また恵みの絶対的価値をこれほど切実に宣べ伝えられたでしょうか。一時は筆頭弟子であることを誇らしく思っていたペテロは、失敗を通して自分がいかに弱く取るに足りない存在かを悟ったからこそ、その後は「ただイエスの十字架と復活、そして聖霊の力」だけが自分を支えてくださるのだと明確に証言できるようになったのです。 また、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)という主の言葉どおり、ペテロが他の人々にもたらす影響は大きく、深いものでした。彼は慟哭の時を経て自らを徹底的に低くする過程を通り、十二使徒をはじめとする初代教会の仲間たちを信仰の上に築き上げる指導者として位置づけられました。教会史において、ペテロはしばしば「筆頭弟子」と呼ばれ、使徒のリーダーとして記憶されます。しかし私たちが忘れてはならないのは、その「筆頭弟子」という呼び名の背景には、かつて三度否認したという痛ましい過去があるという事実です。それにもかかわらず、いやむしろその失敗によって、ペテロは主の愛と赦しをいっそう大きく体験したので、再び立ち上がって「私たちは見たこと、聞いたことを話さないわけにはいかない」と宣言する真の証人として生きることができたのです。 こうした過程を見ながら、私たちは「鶏が鳴く前」にペテロが失敗し、「鶏が鳴いた後」に泣きながら再びイエスのもとへ戻る物語を通して、自分の人生に与えられた教訓を深く黙想する必要があります。もし今、私たちが耐え難い苦難の中にあるとしても、あるいは信仰的に大きくつまずいているとしても、ペテロの物語は確かな希望を伝えてくれます。なぜなら、イエスはその失敗を罰したり放置しておかれたりするのではなく、立ち返る者には常により大きな使命と栄光へ導いてくださるお方だからです。「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」という言葉こそがその約束の核心です。張ダビデ牧師はこれを「神は失敗を無駄にされない。私たちが真に悔い改め、主に再びつかまるなら、その失敗さえも、やがてさらに豊かな実りと証しの土台に変えられ得る」と語ります。ペテロの慟哭は、ただ自分の罪悪感を漏らしたものではなく、後にこの地上の多くの罪人に向けて「あなたも回復できる」というメッセージを示す歴史の一幕だったのです。 結局、私たちの信仰生活は、いつも「否認するのか、証しするのか」という選択の岐路に立っていると言っても過言ではありません。小さな日常から大きな苦難の現場に至るまで、私たちはイエスを信じていると告白しながらも、ときには自分の体面や安全を理由に、主を最優先にしなかったり、否認する行動を取ってしまうかもしれません。しかし、そのような失敗があっても、「鶏が鳴く前にあなたはわたしを三度否認する」とイエスがご存じであっても、最後までペテロを見捨てられなかったように、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と命じられた愛と恵みは、今も変わりなく有効なのです。私たちはペテロがその愛にどう応えたかを聖書のあちこちで確認できますし、この時代を生きる私たちも同じ招きを受けています。「あなたはわたしを愛しますか」という主の問いかけに、「主よ、わたしがあなたを愛していることをあなたはご存じです」と答える用意があるでしょうか。そして「わたしの羊を飼いなさい」という主の命令の前で、本当に信仰と従順をもって進んでいるでしょうか。 ここで「わたしの羊を飼いなさい」という言葉は、教会の説教者や牧会者など一部の働き人だけに与えられた使命ではありません。私たちそれぞれが日常生活を営む現場ごとに、神は世話すべき魂を隣人として与えてくださいます。家庭で、職場で、学校で、あるいは親しくしている周囲の人間関係の中で、私たちは誰もが何らかの形で誰かを導き、ケアする責任を持っています。それがペテロに託された使命であり、同時に今日の私たちにも託されている使命です。そしてその使命を十分に果たすためには、まず「主を否認する者」ではなく「主を証しする者」とならなければなりません。ペテロのように「私はあの方を知らない」と逃げる態度は、私たちの働きや証しを台無しにします。逆に、使徒の働き4章のペテロのように「私たちは見たこと、聞いたことを話さないわけにはいかない」(使4:20)という大胆な告白は、教会を建て上げ、多くの魂を救いへと導く力の通路となります。 もちろん私たちにも相変わらず弱さが残っており、地上の巡礼の道を歩むあいだ、いつでも何らかの形で「否認」をしてしまう可能性があります。だからこそ目を覚まして祈らなければならない、とイエスは教えられました。「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」(マ26:41)という命令は、ゲッセマネの園で苦悶されるイエスのときに、ペテロを含め弟子たちが十分守れなかった戒めです。結局、ペテロが剣を振るったり、尋問されるイエスのすぐそばに居続けられなかったり、主を否認した事件も、すべては「祈りの欠如」と「自分の意志に対する過信」から来ていました。この点で張ダビデ牧師は「霊的戦いの現実は私たちの日常の中に極めて具体的に存在する。目を覚まして祈らないなら、私たちもペテロのように状況の激変の前で主から離れてしまうかもしれない。しかし目を覚まして祈るなら、サタンが麦をふるいにかけるように揺さぶっても、主が助けてくださるゆえにつまずかず、むしろもっと強められるということが起こり得る」と強調しています。 同時に、私たちは「夜明け」という象徴にも注目する必要があるかもしれません。ペテロが主を三度否認したとき、鶏が鳴いて夜明けを告げました。真夜中の闇が消え、光が近づくあのタイミングで、ペテロの過ちが露呈し、彼は自分の恥ずべき姿を痛感しました。しかし同時に、その夜明けは「新しい始まり」を意味します。ペテロは泣き叫んで終わったのではなく、その涙によって自分の内なる新しい希望が芽生え始めたのです。「主がおっしゃったとおり、私は否認してしまった。ならば、主がおっしゃったとおり、私が立ち直った後に兄弟たちを力づけるという機会もあるだろう」。ペテロはその事実を完全には悟れなかったとしても、やがて復活された主に出会うことでその道を歩むことになります。私たちの人生の中にも、ときに「漆黒の闇」のように感じられる時があります。しかしその闇が最も深いときこそ、実は夜明けが最も近いときでもあります。鶏が鳴けば闇は消え、朝が始まります。もしペテロがあと数時間だけ耐えていたら、主を否認せず、もう少し雄々しい告白ができたかもしれません。けれど彼は崩れ落ち、その崩れがかえって彼を立ち上がらせるきっかけになりました。 総括すると、私たちはペテロの否認事件を通して、人間の弱さがいかに深刻であるかを直視しなければなりません。同時に、その弱さにもかかわらず主が与えてくださる回復の恵みがいかに偉大かをも悟らなければなりません。この恵みを十分に味わった人は、自分の過去の失敗を土台として、神の国のためにより謙遜かつ力強い器として用いられるようになります。ペテロはその代表的な事例です。張ダビデ牧師が常々言うように、「失敗は終わりではなく、回復の始まり」となり得ます。もちろん、わざわざ失敗しなくてもよいという意味ではなく、私たちが失敗したときに自らを責めてうずくまるのではなく、イエスの赦しと愛が今も私たちを招いている事実を信じて立ち返るべきだということです。そうすれば、私たちはペテロが味わった慟哭の後の驚くべき霊的成長と、証人としての働きを体験できるのです。 最後に、使徒の働き4章でペテロがアンナスとカヤパの前で大胆に証しできた理由をもう一度整理してみましょう。彼は「本来、学問のない平凡な人」でしたが(使4:13)、むしろだからこそ自分の能力や資格ではなく「イエス・キリストの御名」と「聖霊の働き」により頼みました。そうして神の恵みのうちに立つ人は、たとえ過去にどんな恥ずかしい失敗があったとしても、少しもひるむことなく真理を宣言できます。なぜなら、その人にとって重要なのは人々の評価や認知ではなく、「主の導き」だからです。「この方のほかには、だれによっても救いはありません。天の下で人が救われるべき名は、ほかに与えられていないのです」(使4:12)という告白は、もはやペテロが自分の命を惜しんだり、世間の評判や宗教指導者たちの尋問を恐れたりしていないことを示しています。つまり、「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」(箴29:25)という真理を身をもって体得した姿なのです。 私たちもこのペテロの姿から大きな励ましを受けるべきでしょう。一度でも主を否認してしまったかもしれないし、あるいは数えきれないほど主の心を悲しませたかもしれません。それでも、心から悔い改め、イエス・キリストの十字架の血潮にすがるなら、主は私たちに新しい使命を与えてくださいます。そしてただ「赦された」で終わるのでなく、「わたしの羊を飼いなさい」という大きな責任まで私たちに委ねられることこそが福音の驚くべきメッセージです。一度は主を見捨てた弟子に「わたしの羊を飼いなさい」と委託されるイエスの愛と信頼が、私たちの信じる福音の本質です。これは決して安価な恵みではありません。ペテロがあれほど恥ずかしい失敗をしたにもかかわらず、復活された主が再び彼を訪ね、使命を与え、聖霊による力を注がれたという点こそ、人間の失敗を決して無駄にはされない神の摂理を示しています。 以上をまとめ、私たちの生活に適用してみましょう。私たちはどれほどしばしばペテロのように、恐れや周囲の圧力のゆえに「自分がキリスト者である」という事実を隠したり、信仰の告白をためらったりしているでしょうか。あるいは「火にあたっている場」で周囲の人々に「あなたも教会に通っているの? あなたもイエスを信じているの?」と聞かれるたびに、「いや、私は違うよ。そんなに熱心じゃないんだ」と答えているのではないでしょうか。そのようにして証しを回避し続けると、結果的に私たちの内に罪悪感や霊的停滞が生まれます。さらに霊的な視点で見ると、サタンは私たちが信仰を恥じるように絶えず誘惑してきます。「イエスを証しして職場で不利益を被ったらどうする?」「学校や社会で笑われたり排斥されたらどうする?」「自分でも信仰が確固としていないくせに、誰を伝道するつもり?」などと私たちの心を揺さぶる声があります。しかし、そのようなとき私たちは「ペテロもつまずいたが、主はペテロを立ち上がらせ、今も私を支えておられる」という事実を忘れてはなりません。そしてその記憶に留まるだけでなく、実際に信仰によって、そして聖霊の力を頼みとして大胆に福音を証しする決断をする必要があります。 張ダビデ牧師は「教会は完璧な聖人だけが集うところではなく、失敗した罪人が回復を経験し、その恵みを証しするために集まる共同体だ」とよく語ります。その通りです。教会は「ペテロのような者たち」が互いに励まし合い、主の恵みを分かち合う場所です。私たちは倒れることもあるし、その倒れ込みで泣くこともあるでしょう。しかし同時に、その失敗の場から再び主の御手を握って立ち上がることができる――これこそが福音の力です。もし今、私たちが霊的な沈滞に陥っていたり、何らかの罪悪感に縛られているなら、あるいはまだ「私は違うんですが…」と主を知らず知らず否認しているなら、この瞬間こそ悔い改めて立ち返るべきです。そして鶏が鳴く前であれ、鳴いた後であれ、ペテロを忘れずにおられた主が、私たちの人生のただ中で「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と命じておられることを思い起こす必要があります。 最後に、ペテロの慟哭は決して絶望の涙ではなかったことを忘れてはなりません。その涙は、救いの夜明けが間もなく訪れる直前、自分がいかに弱い存在かを徹底的に思い知った者の涙でした。その涙を通してペテロは再び主の前にひれ伏すことができ、復活の主に出会った後には「わたしの羊を飼いなさい」という使命を果たすに十分な人へと整えられたのです。今日私たちにも同じことが起こります。主は私たちの失敗をご存じであり、私たちがそれを本気で痛み悔いるなら、さらに大きな栄光へと導いてくださる方です。ですからもし私たちが暗闇の時を過ごしているように感じ、「あなたもイエスの弟子か」と問われるのが怖くて逃げ出したいと思うなら、逃げる前にまず主の言葉を思い出しましょう。「シモン、シモン。見よ。サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。しかしわたしは、あなたの信仰がなくならないようにあなたのために祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」これこそがイエスの御心です。 やがて鶏が鳴くとき、私たちは慟哭の場にとどまるのではなく、その慟哭を悔い改めと新たな希望へとつなげなければなりません。そして主が与えてくださる回復の恵みにより、恥ずかしい過去があってもなお告白できる告白、「主よ、わたしがあなたを愛していることを、あなたがご存じです」という告白をささげましょう。その告白を通して、主は私たちを教会の頼もしい働き手とし、この世に福音を伝える光と塩としてくださいます。これこそ、ペテロの物語から学ぶ最終的な結論です。「否認から告白へ、恐れから大胆さへ、絶望から回復へ」と続くペテロの歩みは、そのまま私たちの物語にもなり得るのです。張ダビデ牧師が繰り返し強調するように、イエスを完全に握るならば、その回復への道は今も開かれており、その道の終着点は、恥ずかしい過去の鎖に縛られた生き方ではなく、自由に福音を宣べ伝えながらイエスの証人として生きる栄光の場なのです。アーメン。

Peter’s Denial and Restoration – Pastor David Jang

1. The Human Weakness Revealed in Peter’s Denial The scene in which Peter denies Jesus three times appears in slightly different details in each Gospel, but they all convey the same essential event. Here, focusing primarily on John 18:22–27, and with supplementary references to Luke 22:31–32, Acts 4:1–12, and other Scripture passages, we will explore … Read more

La negación de Pedro y su restauración – Pastor David Jang

1. La fragilidad humana evidenciada en la negación de Pedro La escena en la que Pedro niega tres veces a Jesús aparece en los cuatro Evangelios, cada uno con ligeras variaciones en los detalles, pero transmitiendo el mismo suceso esencial. Aquí nos centraremos principalmente en Juan 18:22-27, y complementaremos con otros pasajes como Lucas 22:31-32 … Read more

베드로의 부인과 회복 – 장재형목사

1. 베드로의 부인에 나타난 인간의 연약함 베드로가 예수님을 세 번 부인한 장면은 복음서마다 조금씩 다른 세부 묘사가 있지만, 본질적으로 같은 사건을 전해줍니다. 여기서는 요한복음 18장 22-27절을 중심으로, 그리고 누가복음 22장 31-32절, 사도행전 4장 1-12절 등 다른 성경 본문을 보조적으로 살피며, 베드로가 어떻게 그토록 쉽게 주님을 부인하게 되었는지, 그 인간적 연약함의 뿌리를 살펴보고자 합니다. 특히 장재형목사가 강조하듯, 베드로의 실패는 당시 순간적인 두려움과 상황적 압박의 산물이었지만 동시에 그 뒤에 있는 영적 현실, 즉 사단의 … Read more

L’Épître aux Éphésiens et la doctrine de la prédestination – Pasteur David Jang

1. La signification de l’agencement de l’Ancien et du Nouveau Testament, et la corrélation entre les Évangiles et la Loi Comprendre la disposition générale des Livres de la Bible est extrêmement important lorsque nous abordons la Parole. Observer comment l’histoire du salut divin se déploie dans la structure traditionnelle de l’Ancien Testament (39 livres) et … Read more

以弗所书与预定论 —— 张大卫牧师

1. 旧约与新约编排的意义,以及福音书与律法的相互关联 理解圣经的编排,对于我们研读上帝的话语极其重要。在旧约 39 卷和新约 27 卷的宏大框架下,通过传统的编排方式来洞察上帝救赎史的发展脉络,可以为信徒带来深邃的见解。通常,旧约分为:(1)五经(摩西五经),(2)历史书,(3)智慧书,(4)先知书;新约同样按照:(1)福音书,(2)使徒行传(历史书),(3)教义书(书信),(4)启示录(先知书)这样的结构来编撰。正如这个编排所揭示的,基督教信仰的核心在于:旧约与新约并不是割裂的两部分,而是有机地连接成一本书,传递给我们。 举例来说,旧约的摩西五经(创世记、出埃及记、利未记、民数记、申命记)展示了赐给以色列百姓的律法与约之根基。诗篇作者曾祈求:“求你开我的眼睛,使我看出你律法中的奇妙”(诗篇119:18),这里所说的“律法”就是上帝的话语;唯有持守这律法,才能分享上帝的圣洁。这在新约中也是同样的真理。新约的开篇——福音书,藉着耶稣基督的行迹、教导、十字架和复活,将“可见的律法”亲自呈现在我们面前。正如约翰福音1:14 所言,“道成了肉身”,这一事实本身就直观地向我们显示:在新约中,律法就是耶稣基督。 张大卫牧师所强调的主旨也与此密切相关。他将新约视作旧约的连续,不把“律法”仅仅当作规范或命令的集合,而是将其视为在耶稣基督里得以成全的上帝之爱与救赎的工具。“耶稣就是我们的律法”这句话意味着:耶稣已经完成了在旧约里预示的律法的终极目标。因此,福音书便在新约的语境中重新诠释了律法,带领我们通过耶稣来学习上帝的旨意,并重新发现:耶稣正是圣洁的标准与榜样。 紧随其后的使徒行传,有如旧约的历史书一般,详尽记述了初代教会是如何诞生并拓展的。教会是藉着基督的宝血所建立,并靠着圣灵的大能延续。从耶路撒冷开始的福音,传至撒玛利亚乃至普世外邦世界的过程,都在这部新约历史书——使徒行传中生动地呈现。正如旧约的历史书记录了以色列百姓的旷野生活、迦南定居、君主时代、被掳时期以及归回的历史,新约的历史书则呈现了基督升天后,门徒与使徒如何将福音扩展出去的“叙事”。通过这些篇章,我们认识到:历史并非仅仅是对过去事实的记录,更是上帝救赎计划具体展开的舞台。 使徒行传之后所编排的教义书(书信)可以对照旧约的智慧书加以理解。当然,智慧书包括诗篇、箴言、传道书、雅歌、约伯记等,涵盖个人敬虔生活、人生智慧以及与苦难的搏斗;而新约的教义书则以“教会”这个共同体在信仰中日渐成熟的历程为主线,条分缕析地加以阐明。保罗及其他使徒以书信的形式,阐述了耶稣基督的福音到底是什么,以及这福音所承载的核心教义是什么。罗马书、哥林多前后书、加拉太书、以弗所书、腓立比书、歌罗西书等,虽因各自教会所处的处境不同而侧重点各异,但共同目标在于明确福音的真义,好使信徒们打下坚固的信仰根基,不致动摇。 张大卫牧师也一再强调:“教义(doctrine)是福音的精华与核心,是坚固教会的基础”。教义绝非只为教会内部的“智识探究”而存,更是信仰共同体在世上传扬福音、并且在自身得救无疑的确据中活出见证时不可或缺的“锚” (anchor)。教义稳固,信仰才不会摇摆;信仰坚定,才能结出传福音的果子。这是传统新教神学者们一致的看法,而张大卫牧师也在各类讲道与著述中多方突显这一点。 其中,罗马书在系统阐明福音的书信中可谓首屈一指。“义人必因信得生”这一口号可谓保罗神学的精髓,并且罗马书也深度探讨了上帝的救恩如何在犹太人与外邦人之间的冲突中得以成就。与此相比,哥林多前后书则更着重解决实际教会团体中出现的各类问题(纷争、淫乱、混乱的敬拜、恩赐滥用等),给出具体的教导。加拉太书则针对陷入律法主义倾向的加拉太教会,宣告“因恩典而来的信心”才是决定我们得称义的核心。这些教义书在各自所处的历史、文化背景下,宣扬着同一的福音本质。直到今日,教会仍须通过对这些书信的研读,来学习并实践超越时空的上帝之教诲。 这里,张大卫牧师所提及的“5大教义书”,指的是(1)罗马书,(2)哥林多前书,(3)哥林多后书,(4)加拉太书,(5)以弗所书;而针对犹太人受众的《希伯来书》也被视为重要的教义书。如果将哥林多前后书作为一个整体,那么包括希伯来书在内就可视为“5大教义书”;若将哥林多前后书分开,则再加上以弗所书,也能称之为“5大教义书”。此举显示,教义书并非区区一两卷,而是包罗相当广阔的神学光谱。 总而言之,旧约与新约的结构并非彼此割裂,而是带着连贯性;福音书(耶稣基督)、使徒行传(教会的历史)、教义书(神学根基),以及启示录(末世与完成)的顺序,循序渐进地引领我们认识上帝的救赎计划。这既是信徒正确读经的基础,同时也照亮了教会信仰告白如何借着耶稣基督的十字架与复活,以及主的再来而得以完满的全过程。 2. 教会的诞生、教义书的本质,以及使徒的启示性洞见 倘若说旧约的历史书记录了以色列民族的形成以及他们在属灵征战、胜利、挫折等方面的经历,那么新约的历史书——使徒行传,则描述了耶稣升天之后所诞生的初代教会“创始期”的情形。使徒行传中的教会并非出于人力所组建的组织,而是那些因信基督之救赎,并蒙圣灵能力印证之人的群体。如此,教会成了“因基督宝血得赎之群体”,也是“上帝国度扩张的据点”。教会由此遍及世界各地,福音如何得以传扬,保罗及其他使徒在宣教旅程中所经历的逼迫与冲突,构成了基督教历史的开端。 在这期间,使徒行传之后编排的新约书信,则起到了“解读”与“解决”教会共同体在现实中所遇问题的作用。保罗、彼得、雅各、约翰、犹大等使徒及早期教会领袖,纷纷以书信形式阐述福音的核心教义,并针对具体处境予以劝勉和指导。换言之,他们并不止步于“福音是什么”,而是进一步探讨“如何实践福音”。 因此,教会不断地诠释与运用福音,而所形成的新约教义书,至今仍然是信徒灵命成长与信仰生活的必备指南。保罗引用彼得所言:“要常做准备,以温柔敬畏的心回答那向你们询问有关盼望缘由的人”(参彼前3:15),这同样是为了强调教义的重要性。如果我们不明白所信之福音——基督的十字架和复活在历史与超越层面上的意义,就很难在现实生活中为福音作见证。 这些书信作者的共通之处在于,他们在“启示之光”中洞察福音。张大卫牧师也常提到:“使徒们如同霹雳闪电般一次洞见主的启示,并将这奇妙真理传达给我们”。就像闪电在刹那间照亮四周,使徒们也在耶稣基督的事件中瞬时看到了上帝救赎计划的全貌,然后以书信形式将其表达出来。这与传统基督教的观点一致:罗马书、哥林多前后书、加拉太书等所展现的严谨而系统的神学结构,不可能只凭借人的理性思维提炼,其背后更是超自然洞见的成果。 此外,虽然哥林多前后书是写给同一间教会(哥林多教会)的信,但其中涵盖的层面却相当广泛,从教会的公共问题到私领域问题,甚至还包含保罗个人的坦诚自白。教义书虽以“书信”形式出现,但其中所包含的“福音原则”却具备普世性与跨时代意义。保罗称自己所宣扬的福音为“我的福音”,正是因为他在个人层面上完全接纳了基督的十字架与复活;而读者也可以透过他所写的“教义”与“信仰指引”将同一福音应用在自己生活中,从而活出相同的福音。 我们还应注意,《希伯来书》是一卷为犹太背景信徒而写的“特殊教义书”。犹太人对“天使”和“律法”有着源远流长的传统,并非常看重旧约的祭祀制度。《希伯来书》正是系统地向犹太信徒说明:耶稣基督如何成就并超越了律法与祭祀制度。“你们比天使更尊贵”的宣告(参希伯来书1 章)打响了序幕,随后逐条阐明耶稣才是真正完全的大祭司,以及更美之约的中保。也就是说,在旧约的延伸线上,耶稣基督正是所有祭祀制度的终极目标与巅峰。 可见,教会在诞生与教义形成的过程中,实质上就是记载并实践救赎史的团体定位过程。在罗马帝国统治、多神教与皇帝崇拜盛行的环境下,基督教群体坚称“唯独耶稣基督是主”,并在逼迫中坚忍不拔。正如使徒行传19 章所记载的,保罗在以弗所所经历的逼迫、争论以及宣教的胜利,正体现了当时严重的文化与宗教冲突。以弗所是以亚底米(罗马称戴安娜)神庙而闻名的庞大偶像崇拜中心,也是与罗马、亚历山大、安提阿并列的帝国四大都市之一,非常繁华。保罗在这里用“谦卑和流泪”牧养教会达三年之久(参徒20:18-19,31),所结出的福音之果实,为后来亚西亚一带众教会之坚固奠定了基石。 张大卫牧师在此所强调的重要一点是:教会需要通过“共同体式的传阅书信”来分享上帝的话语,并用教义武装自己。当时的以弗所书、加拉太书、腓利门书等虽然有特定收信人,但初代教会常常将其传阅,让各地教会共同读诵与默想。正是通过这样的公开传阅过程,教会超越自身区域的界限,彼此相交,达成教义上的合一。像加拉太书就被不同“加拉太地区的教会”传阅,证明了这些书信并非专属于某个教会,而是整座信仰共同体都需要的教导。 因此,教会越趋于成熟,就越会投入到对更深真理的追求,并潜心学习教义书;这也与信徒个人对信仰根基的审视息息相关。我们若只停留在理性层面承认“耶稣是我的救主”,而不借着使徒们所传递的启示亮光与教义系统,让这一真理“入心并在生活中扎根”,就难以达到灵命的成熟。 3. 以弗所书中所蕴含的预定论核心与张大卫牧师的释经洞见 现在,让我们来正式探讨以弗所书。以弗所在当时的罗马帝国,也是屈指可数的巨大城市。它与罗马、亚历山大、安提阿并列为四大都市,兼具希腊—罗马神话中各式神庙及皇帝崇拜等多元宗教形态。能在这样一座城市建造教会,本身就是福音传播的重大转折点。保罗在此逗留三年之久,“以谦卑和流泪”牧会(参徒20:18-19, 31),这表明以弗所教会确为保罗事工的核心支柱之一。 张大卫牧师强调,以弗所书是一卷“成熟的教会当读的书信”。其原因之一在于,以弗所书围绕教会的身份与合一,以及更高层面的属灵议题(如基督里的预定、犹太人和外邦人的合一、教会在圣灵里建立的原则等),进行广泛探讨。若说其他书信偏重于解决教会问题或阐释教义,那么以弗所书则以更普遍、宇宙性的视角来论述教会。在以弗所书第一章第三节(“在基督里赐给我们天上各样属灵的福气”)开宗明义,就表明我们的属灵实况并非被地上的律与欲望所束缚,而是已经与基督里那确定无疑的得胜世界相连接。 尤其是以弗所书 1 章 1~14 节,着重阐述了“预定(Predestination)”的概念。张大卫牧师将“Predestination”解析为“Pre(预先)+ Destination(目的地)”,强调上帝已为人类的救赎事工预先作了决定。就像我们在机场确认目的地、买好机票登机一样,在信仰中也必须清楚“我们要往何处去”。这个确定的目的地,正是“上帝预定我们成为祂的儿女”,而清楚这一点的人,能在动荡中依然持守信仰。 实际读以弗所书 1 章 36 节、714 节时,会发现其中逐段提出了“当赞美的理由”。第一段(1:3-6)以“愿颂赞归与我们主耶稣基督的父神,因为他在基督里,把天上各样属灵的福气赐给我们”开篇(1:3),紧接着第4 节说:“就如上帝从创立世界以前,在基督里拣选了我们”(1:4),明确点出“创立世界以前”这一时间概念,说明个人生命并非偶然,而是早已包含在永恒上帝的计划中。 有时,人们会用“天生缘分”来比喻:夫妻二人之所以结婚,不仅因为彼此相爱,更是在那爱情之前就有上帝所预定的安排。张大卫牧师在婚礼或新家礼拜(信家礼拜)上常引用箴言16 章 1 节、9 节,强调人的筹算与上帝引导之间的关系。人心虽可以谋算自己的道路,但真正引导脚步的乃是耶和华;这说明我们的人生其实行走在上帝的预定中,带着神圣的意义。由此可见,预定论不仅适用于婚姻,也适用于人生各方面,是每个信徒不可或缺的核心真理。 接着,以弗所书 1 章 5 节写道:“又因爱,我们被预定,借着耶稣基督得儿子的名分,是照着祂旨意所喜悦的”。这节经文用“儿子名分”来描述奴仆(奴隶)获得“被收养之子”身份的震撼恩典。在罗马帝国法律下,若一个奴隶被收为“养子”,就能与亲生子同享合法权利。这象征着“上帝与人”之间建立了全新的关系。原本是“仆人”身份的人,如今却被承认为上帝的儿女,何等奇妙!这也充分凸显了教会成员理当敬拜与欢欣的原因。 接着的第二段(1:7-12),宣告我们因耶稣基督的血得蒙救赎、过犯得以赦免(1:7),这“都是照着祂丰盛的恩典”(1:7 中)。这里的“丰盛”一词突出福音并非根据人的功劳或善行,而是全然源于上帝丰沛的爱与恩典。随后提到“按着祂的旨意,使我们知道祂旨意的奥秘……要照所安排的,在日期满足的时候,使天上地上一切都在基督里面同归于一”(1:9-10),这就点明了历史并非偶然演变,而是终将“在基督里合而为一”这一救赎大计的实现,是我们得以洞悉的宏观视角。即便尘世有纷乱与罪恶,但最终上帝的国度必定完成。 第三段(1:13-14)讲到我们既受了“所应许的圣灵”为印记,也就有分于“得基业的凭据”。其中“凭据”一词(希腊语ἀρραβών,意为“订金”或“保证”)好比订婚戒指,可以确保日后完全婚约的兑现。如此,虽然救恩的完满在未来,但我们现今已藉着圣灵的工作得到印证,得以在今世为上帝献上颂赞,并满怀盼望地生活。 由此可见,以弗所书 1 章 3~14 节揭示了预定论的精髓,并连续列举了当赞美上帝的理由。张大卫牧师将此视为让信徒“铭记自己并非偶然,而是活在超越时空的上帝计划里”的关键信据。明了“上帝从亘古就拣选了我们”,无论日常生活如何动荡,依然能够赐予我们那“绝不放弃的盼望”。而且,这也不仅仅是“教义知识”或“冷静的理性产物”,更是教会在敬拜与生活中共同体验并得到印证的“活的真理”。 因此,以弗所书能为灵命日趋成熟的信徒提供更高层次的洞察。如果说罗马书明晰阐述了“福音的理论架构”,那么以弗所书则从“教会论”与“宇宙性救恩”的角度,彰显上帝如何完成祂所设立的群体。紧接着在第二章,保罗谈到基督如何拆毁了犹太人与外邦人间“隔断的墙”,使二者在福音里和好;这正是十字架那使人合好的力量,克服了人际关系中的嫉恨(该隐之罪)。灵命成熟最终意味着“在耶稣基督的十字架里学会彼此接纳并合一”,故以弗所书的信息不但适用于处理教会内部纷争,在面对世俗冲突时也同样有效。 值得一提的是,以弗所书属于保罗“监狱书信”的范畴。尽管写信时保罗囚禁在罗马监狱,信中却满溢着对“天上各样属灵的福气”的豪迈宣告,这本身也说明福音超越环境的约束。即使身在牢狱这个危机四伏的处境,保罗所见证的“预定我们的上帝”之救恩应许仍然坚定不移。那些已蒙圣灵印记的人,即便在监狱中也能歌唱,并对即将来临的上帝之国充满盼望。 综上所述,张大卫牧师通过对以弗所书第一章的诠释,突出了如下要点: 因此,预定论并不像“宿命论”那样消极,反而激励我们朝着上帝“早已为我们定下的目的地(destination)”积极前行。无论现实或当代社会看似多么混乱,最终的结局仍是在“基督里合一”的上帝主权之作为。信徒若紧紧抓住这一预定,应当一步一步顺服前行,便会在内心深处不断唱出赞美的歌曲。 正如张大卫牧师所言,当这些真理透过教会共同体的敬拜、话语、圣礼而具体化,并以“教会间彼此传阅”的形式在信徒间分享时,才能最终结出感动世界的信仰之果。初代教会曾在以弗所、加拉太、腓立比、歌罗西,以及哥林多、罗马等地传阅这些书信,以彼此分沾福音的精髓。今日的教会也当效法他们的脚踪,将以弗所书所见证的“预定之福音”与“在基督里合一”的福音切实践行,好在世界面前彰显主的荣耀。

エペソ書と予定論 – 張ダビデ牧師

1. 旧約と新約の配列の意味、そして福音書と律法の相関性 聖書の配列を理解することは、私たちが御言葉に接するうえで非常に重要である。旧約39巻と新約27巻という大きな枠組みの中で、伝統的な配列を通して神の救済史がどのように展開されていくのかを見極めることは、信徒たちに深いインサイトを与える。旧約は一般的に、1)モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)、2)歴史書、3)知恵書、4)預言書という形に区分・配列され、新約もまた1)福音書、2)使徒の働き(歴史書)、3)教理書(書簡群)、4)黙示録(預言書)という構図に沿って編纂されている。このような構造が示すように、キリスト教信仰の核心は、旧約と新約が有機的につながった一つの書物として私たちに伝えられている点にある。 例えば、旧約のモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)は、イスラエルの民に与えられた律法と契約の根源を示している。「私の目を開いて、あなたの律法の驚くべきことを見させてください」(詩篇119:18)と詩篇記者は告白しているが、ここで言う「律法」とは神の御言葉であり、その律法をしっかりと握ることによってこそ神の聖さにあずかることができると強調される。これは新約においても同様である。新約の最初の区分である福音書は、イエス・キリストの行跡、教え、十字架と復活を通して、「目に見える律法」としてのイエス様を私たちの眼前に示す。「言葉は人となって、この世に住まわれた」(ヨハネ1:14)という現実そのものが、新約の律法がすなわちイエス・キリストであることを可視的に示すのである。 張ダビデ牧師が強調する点もこれと密接につながる。彼は、新約を旧約の継続としてとらえながら、律法を単なる規範や命令の集まりではなく、イエス・キリストのうちに完成された神の愛と救いの道具として解釈する。「イエスは私たちの律法です」という言葉は、すでに旧約で提示された「律法」の究極的完成をイエス様が成し遂げられたことを意味する。だからこそ、福音書は律法を新約的文脈で新しく照らし出し、私たちがイエスを通して神の御心を学び、イエス様こそ聖の基準であり模範であるという事実を再発見するよう導く。 その次に置かれている『使徒の働き』は、まるで旧約の歴史書のように、初代教会がどのように誕生し、拡大していったのかを詳細に示している。教会はキリストの血によって建てられ、聖霊の力によって継続された。エルサレムで始まった福音がサマリアやあらゆる異邦の地へ広がっていく過程が、新約の歴史書である『使徒の働き』に生き生きと描写されている。旧約の歴史書が、イスラエルの民の荒野生活やカナン定着、王制時代と捕囚期、そして帰還の歴史などを記録したのと同様、新約の歴史書は、キリストが昇天されたあと、弟子たちと使徒たちを通して成し遂げられた「福音の拡張の物語」を伝えている。この部分を通して私たちは、歴史が単なる過去の事実の記録ではなく、神の救いの計画が具体的に繰り広げられる舞台であることを悟ることができる。 『使徒の働き』の後に位置する教理書(書簡群)は、旧約の知恵書に相当すると見ることもできる。もちろん、知恵書には詩篇、箴言、伝道者の書、雅歌、ヨブ記などが含まれ、個人の敬虔生活や人生の中での知恵、さらには苦難との格闘などを扱うが、新約の教理書は、この「教会」という共同体が信仰の中で成熟していく過程を一目で整理している。パウロをはじめとする使徒たちは、イエス・キリストの福音が本当のところ何なのか、その福音に含まれた核心の教理が何なのかを、さまざまな手紙の形で証しした。ローマ人への手紙、コリント人への手紙第一・第二、ガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙などは、それぞれの教会が置かれた状況によって具体的な主題や適用点は異なるものの、根本的には福音のアイデンティティを明確にすることで、信者が揺らぐことのない信仰の基礎を築くことを目的としている。 張ダビデ牧師もまた、「教理(doctrine)は福音の真髄にして核心であり、教会をしっかりと建て上げる土台である」と強調してきた。教理は決して教会内部の知的探求だけのためにあるのではなく、信仰共同体が世の中で福音を伝え、自分が受けた救いを確信して生きるうえで必要な“錨(アンカー)”の役割を果たすのである。教理が堅固であれば信仰が揺るがず、信仰が揺るがなければ伝道の実も結ぶことができるというのが、伝統的なプロテスタント神学者たちの共通の見解であり、張ダビデ牧師もこれをさまざまな講義と著作を通して際立たせてきた。 特にローマ人への手紙は、福音を体系的に解説している書簡の中でも特に重要とされている。「義人は信仰によって生きる」というスローガンがパウロ神学の精髄を含んでおり、ユダヤ人と異邦人の間にある葛藤を克服する神の救いの計画がどのように実現するかを深く扱う。一方、コリント人への手紙第一・第二は、実際の教会共同体に起こった数々の問題(分裂、不品行、混乱した礼拝、賜物の濫用など)に対して具体的な答えを示す書簡である。ガラテヤ人への手紙は、律法主義に陥ろうとするガラテヤ教会に、「恵みによる信仰」こそが私たちの義を決定する核心だと宣言する。このような一連の教理書は、各々の歴史的・文化的背景の中にあっても、同じ福音の本質を宣べ伝えているため、今日の教会もこれらの書簡を通して時空を超えた神の教えを学び、適用しなければならない。 ここで張ダビデ牧師が言及する「5大教理書」とは、(1)ローマ人への手紙、(2)コリント人への手紙第一、(3)コリント人への手紙第二、(4)ガラテヤ人への手紙、(5)エペソ人への手紙を指し、ユダヤ人を対象とした「ヘブル人への手紙」もまた重要な教理書として扱われる。コリント人への手紙第一・第二を一つにまとめて考えれば、ヘブル人への手紙を含めて5大教理書とみなすこともでき、コリント人への手紙第一・第二を別々に分ければ、エペソ人への手紙も含め5大教理書として認識できる、という説明を通して、教理書は一、二冊にとどまらず非常に広い神学的スペクトルを網羅することが分かる。 結局、旧約と新約の構造は分離しておらず、互いに連続性をもちながら、福音書(イエス・キリスト)、使徒の働き(教会の歴史)、教理書(神学的土台)、そして黙示録(終末と完成)という順序で、私たちが徐々に神の救いの経綸を学ぶよう導いている。これは信仰者が聖書全体を正しく読むための土台であり、同時に教会の信仰告白が、イエス・キリストの十字架と復活、そして主の再臨を通して完成へと至る過程を照らしているのである。 2. 教会の誕生、教理書の本質、そして使徒たちの啓示的洞察 旧約の歴史書がイスラエル民族の形成と霊的闘争、勝利と挫折の記録であるとすれば、新約の歴史書である『使徒の働き』は、イエス様の昇天後に形成された初代教会の「誕生記」を扱う。『使徒の働き』の中の教会は、単なる人為的な組織ではなく、聖霊の力によって証印され、キリストの贖いを信仰によって告白する者たちの集まりとして姿を現す。こうして、教会は「キリストの血によって贖われた者たちの共同体」であり、同時に「神の国拡張の拠点」となる場所である。この教会が世界の各地へ拡大する中で、福音がどのように伝播していったのか、パウロをはじめとする多くの使徒たちの宣教行程と、その過程で遭遇した迫害や葛藤こそが、キリスト教史の始まりとなる。 この過程で、『使徒の働き』の後に配列された新約書簡は、教会共同体が現実の中で直面する数々の問題に対する解説書または解決策の役割を担う。パウロ、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、ユダなどの使徒や初代指導者たちは、それぞれ書簡の形で福音の核心教理を解き明かし、具体的な状況に合わせて助言し、勧めた。要するに、福音が「何か」を説明するだけにとどまらず、「その福音をどう実践するか」へと歩ませるのである。 こうして教会は、絶えず福音を解釈し、適用しなければならず、その結果として編纂された新約の教理書は、今に至るまで信徒たちの霊的成長と信仰生活に不可欠な指針となっている。パウロが「ペテロ使徒が言ったように、あなたがたの内にある希望について尋ねる人々に対して、いつでも弁明できるよう準備していなさい」(Ⅰペテロ3:15)という節を引用しながら教理の重要性を強調するのも同じ文脈である。私たちが信じる福音、すなわちキリストの十字架と復活によって示された救いの歴史的・超越的意味が何であるかを把握できなければ、実際の生活で福音を証しすることは容易ではない。 書簡の著者たちに共通する特徴は、「啓示の光」の中で福音を洞察した点である。張ダビデ牧師も、「使徒たちは主の啓示をまるで稲妻が光り輝くように一瞬で見て、その驚くべき真理を私たちに伝えた」としばしば強調する。稲妻が一瞬にして周囲を明るくするように、使徒たちもイエス・キリストの出来事を通して神の救済のご計画を一挙に悟り、その悟りを手紙として解き明かしたという意味である。ローマ人への手紙やコリント人への手紙第一・第二、ガラテヤ人への手紙などに見られる緻密で組織的な神学的構成は、決して人間の理性的思索だけでは要約しにくい、超自然的洞察の結果だと見る伝統的キリスト教の立場とも一致する。 さらに、コリント人への手紙第一・第二は一つの教会(コリント教会)に宛てられた手紙であるにもかかわらず、その内容は教会の公的問題から個人的問題まで網羅し、さらにはパウロの個人的な告白的要素までも包含しているという点が興味深い。教理書は「手紙」という形式をとっているが、その中に込められた「福音の原理」は非常に普遍的であり、時代を超えて通用する。パウロが自ら福音について「私の福音」と呼ぶのは、彼がイエス・キリストの十字架と復活を全面的に自己の内に受け入れて個人化したことを意味する。一方、手紙の読者たちは、その「教理」と「信仰の指針」を自らの生活に適用し、最終的に同じ福音を生きる道を学ぶこととなる。 そして、ヘブル人への手紙がユダヤ人信徒のために書かれた「特殊な教理書」である点にも注目すべきである。ユダヤ人は古くからの伝統の中で「天使」と「律法」を高く尊び、旧約の祭司制度をきわめて重んじてきた。ヘブル人への手紙は、まさにそうしたユダヤ人信徒に対し、イエス・キリストがどのように律法と祭司制度を完成するお方であるのかを体系的に説明する書簡である。「あなたがたは天使よりもさらに尊い存在だ」という宣言(ヘブル1章)から始まり、イエス様こそが完全な大祭司であり、より優れた契約の仲保者であることを一つひとつ明らかにする。これは旧約の延長線上にあって、イエス・キリストがすべての祭司制度の目標であり絶頂であることを示す証拠となる。 このように教会の胎動と教理形成の過程は、本質的に救済史を記録し、実践する共同体が自らの位置づけを確立していく過程であった。ローマ帝国の支配下、多神教と皇帝崇拝が蔓延する環境の中で、キリスト教共同体はただイエス・キリストの主権を叫び、迫害に耐え抜いた。パウロがエペソで受けた迫害と論争、宣教的勝利の過程もまた、『使徒の働き』19章に詳しく示されているように、当時の文化的・宗教的衝突は非常に深刻だった。エペソはアルテミス(ディアナ)神殿で有名な巨大な偶像崇拝の中心地であり、ローマ、アレクサンドリア、アンティオキアと並ぶ“四大都市”のひとつに数えられるほど栄えていた。その地でパウロが3年の間、「へりくだりと涙をもって」(使徒20:18-19, 31)牧会しながら結んだ福音の実は、その後アジア地方の諸教会がしっかりと建て上げられる基盤となった。 ここで張ダビデ牧師が特に強調する重要なポイントは、教会が「共同体的回覧書簡」を通して御言葉を分かち合い、教理によって武装しなければならないということである。当時、エペソ人への手紙やガラテヤ人への手紙、ピレモンへの手紙などは特定の受信者がいたが、初代教会はそれらを回覧して、多くの地域教会が共に読み、黙想する伝統を築いた。このような公的回覧の過程を通して、教会は教会の垣根を越えて互いに交わり、教理的一致を成し遂げていったのである。ガラテヤ人への手紙が複数の「ガラテヤ教会」に回覧されたという事実は、これらの手紙が一つの教会だけの専有物ではなく、信仰共同体全体に必要な教えであったことを証明している。 結局、教会が成熟の段階に進むほど、より深い真理を悟ろうとして教理書に没頭するようになる。これは信徒個人が信仰の根本を探る作業とも結びついている。イエス・キリストが私の救い主であることを頭で知るだけでなく、使徒たちが伝えた啓示の光と教理的体系を通して、それを心で、そして生活の中で内面化していく過程こそが信仰の成熟なのである。 3. エペソ書に込められた予定論の核心と張ダビデ牧師の注釈的洞察 さて、ここからはエペソ書を本格的に考察してみよう。エペソは当時のローマ帝国の中でも屈指の大都市であった。ローマ、アレクサンドリア、アンティオキアと並ぶ“四大都市”の一つで、ギリシア・ローマ神話に由来するさまざまな神殿と、皇帝崇拝思想が混在する地域的特色を備えていた。この地に教会が建てられたという事実だけでも、福音伝播において非常に重要な転換点がもたらされたと言える。パウロがエペソで実に3年間もの間仕え、「へりくだりと涙をもって」教会を世話したという記録(使徒20:18-19, 31)は、この教会がどれほどパウロの働きの中核をなしていたかをよく示している。 張ダビデ牧師は、エペソ書が「成熟した教会が読むべき手紙」であると強調する。その理由の一つは、エペソ書が教会のアイデンティティと一致、そしてより高次の信仰水準で扱われるさまざまな主題(キリストにおける予定、ユダヤ人と異邦人の一致、教会が聖霊のうちに建て上げられる原理など)を包括的に扱っているからである。ほかの書簡が教会問題の解決や教理の解説に集中するならば、エペソ書はさらに普遍的で宇宙的な視点から教会を説き明かしている。「天上にあるすべての霊的祝福」(エペソ1:3)から始まる1章の叙述だけでも、私たちの霊的実在が地上の法則や欲望に縛られるのではなく、キリストにあってすでに確定された勝利の世界と結ばれていることを宣言している。 このエペソ書1章1~14節は、特に「予定(Predestination)」という概念を際立たせて扱う。張ダビデ牧師は“Predestination”を「Pre(あらかじめ)+Destination(目的地)」という言葉として解釈し、神が人類の救いをあらかじめ定められた事実を強調する。人が空港へ行くとき、自分の目的地を確認して航空券を手配し搭乗するように、信仰においても「私たちがどこへ行くのか」という目的地を確実に知らなければならないというわけである。この確実な目的地こそが、「神が私たちを予定して、ご自分の子とならせてくださる」という真理にあり、これを握る者は揺らぐことなく信仰を守り抜くことができる、という洞察を提供する。 実際にエペソ書1章3~6節、7~14節のように区分すると、それぞれ「賛美すべき理由」が提示されている。最初の区分(3~6節)は「私たちの主イエス・キリストの父が、キリストにあって天上のすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださった」という宣言(エペソ1:3)で始まる。そして続く1章4節で「神は世界の基の据えられる前からキリストにあって私たちを選び」と語り、「世界の基が据えられる前」という表現で予定の時点をはっきりと示す。これは、私たち個人の人生が偶然によって決まるのではなく、永遠の昔から存在される神の御心とご計画の内にあることを意味する。 これはしばしば、夫婦が結婚を通して出会うことも、二人の愛だけではなく、その愛の前にすでに神が定めておられた「天生の縁(天生緣分)」があるという例えで語られる。張ダビデ牧師が結婚式の司式や新しい家庭への礼拝(信家礼拝)などでしばしば引用する箴言16章1節、9節は、人間の経営と神の導きとの関係を明確に示している。人は心の中で自分の道を計画しても、その歩みを導かれるのは主であるという事実は、私たちの人生が神の予定のうちに進む聖なる旅路であることを暗示している。このように予定論は、結婚だけでなく人生全般のあらゆる局面において、信仰者が必ず握らなければならない核心的な真理として位置づけられる。 また、エペソ書1章5節は「神はそのみこころの良しとするところによって私たちを予定し、イエス・キリストによってご自分の子にしようとされた」と語る。この節は、奴隷だった者が「養子(法的に子として迎えられた者)」の身分を得るという衝撃的な恵みを説き明かす。ローマ帝国時代、奴隷が養子になるならば、法律的に実子と同等の権利を行使できた。これは「神と人間」のあいだに新しい関係が結ばれたことの象徴である。全知全能の創造主なる神を主人として仕えていた人間が、今やそのお方の子という、さらに驚くべき身分を与えられるという事実は、教会の構成員がなぜ賛美して喜ばなければならないのかを明確に示す。 続いて、第二の区分(7~12節)は、私たちがイエス・キリストの血によって罪のゆるしを得たと宣言し(エペソ1:7)、「これは神の豊かな恵みによるのだ」と強調する。「豊かさ」という言葉は、福音が私たちの功績や善行で得られるのではなく、神のあふれる愛と恵みによってもたらされることを際立たせる。さらに、神の御心の奥義が「キリストにあって時が満ちる救いの計画のために定められたこと」(エペソ1:9)と明らかにし、歴史が偶然に流れていくのではなく、最終的には「キリストにあって万物がひとつにまとめられる」(エペソ1:10)ことを教える。これは救済史の大局的視点を与える本文であり、世の混乱や人間の罪があっても、最終的には神の国が完成されるということを予告している。 第三の区分(13~14節)は、「聖霊の証印」によって私たちがその約束の相続にあずかる者となり、その聖霊が私たちの相続の「保証」となっているという宣言で締めくくられる。保証(ギリシャ語でἀρραβών、アラボーン)は、婚約指輪のように、将来に起こる完全な結合を今確実に保証してくれる役割を果たす。これによって救いの究極的完成はこれから実現するが、私たちはすでに聖霊の働きを通してその保証を与えられており、今この地上で神への栄光の賛美をささげながら生きる望みを持つことができるのである。 このように、エペソ書1章3~14節は予定論の核心思想を示し続け、賛美すべき理由を次々と提示している。張ダビデ牧師は、これを信仰者が「偶然ではなく、神の超越的なご計画のうちに生きている」ことを刻印する決定的根拠とする。神が私たちをあらかじめ計画し選ばれたという認識は、日常のあらゆる揺らぎを前にしても、「決して放棄できない希望」を与える。また、これは単に教理的知識や冷静な理性の産物だけではなく、教会共同体が礼拝と生活を通して共に体験し、確認していく“生きた真理”であることが強調される。 だからこそエペソ書は、信仰が成熟した信徒に一段と深い洞察を許す。ローマ書が「福音の理論的構造」を明快に説明するならば、エペソ書は「教会論」と「宇宙的救い」の視点から、神が建て上げられる共同体がどのように完成していくかを示す。続くエペソ書2章でパウロは、ユダヤ人と異邦人の「隔ての壁」を打ち壊して、互いを和解させる福音の力を説くが、これこそが人間関係の中の妬みや嫉妬(カインの罪)を克服させる十字架の和解の働きである。信仰が成熟するとは突き詰めると、「イエス・キリストの十字架のうちにあって私たちが互いに受け入れ、一つとなる道を学ぶこと」であり、エペソ書のメッセージは教会内の紛争を超え、世の対立においても有効な解決策となりうる。 最後に、エペソ書は「獄中書簡」という背景を持つ。パウロがローマの牢に囚われている状況で書かれた手紙であるにもかかわらず、これほどまでに豊かな「天上の祝福」を力強く宣言している事実は、福音が置かれた環境を超越する真理であることを示す。獄中は生存を脅かす場所であったに違いないが、そこでパウロが証しする「予定される神」の救いの約束は揺らがなかった。聖霊の力によって「証印」を受けた者は牢の中でも賛美することができ、やがて来る神の国に向かって希望を抱くことができるからである。 まとめると、張ダビデ牧師がエペソ書1章を通して強調する要旨は次のように整理できる。 結局、予定論は運命論や宿命論とは異なり、私たちに「神があらかじめ定めておられる目的地(destination)」へ積極的に進むよう鼓舞する原動力となる。私たちが置かれた現実や社会がどんなに混乱しているように見えても、その究極的結末は「キリストにあって一つになる」という神の主権的なみわざによって導かれるからである。信仰者はこのような予定をしっかりと握り、一歩一歩従順して歩むとき、内面に賛美が絶えない生涯を享受するようになる。 張ダビデ牧師が結論的に示すように、これらすべての真理が教会共同体の中で礼拝と御言葉、聖礼典を通して具体化され、「共同体的回覧」として信徒同士で分かち合われるとき、初めて世に感動を与える信仰の実を結ぶことができる。初代教会がエペソやガラテヤ、ピリピ、コロサイ、そしてコリントやローマに至るまで書簡を回覧しながら福音の真髄を共有したように、今日の教会もエペソ書が証しする「予定」の福音、「キリストにあって一つとなる」福音を実践することによって、世に主の栄光を示さなければならないのである。

Ephesians and Predestination – Pastor David Jang

1. The Significance of the Old and New Testament Arrangement, and the Correlation between the Gospels and the Law Understanding the arrangement of the Bible is extremely important when we approach Scripture. Within the overarching framework of the 39 books of the Old Testament and the 27 books of the New Testament, examining how God’s … Read more

Efesios y la Doctrina de la Predestinación – Pastor David Jang

1. El significado de la disposición del Antiguo y Nuevo Testamento, y la correlación entre los Evangelios y la Ley Comprender cómo está dispuesto el texto bíblico es de gran importancia cuando nos acercamos a la Palabra. Al examinar la estructura de los 39 libros del Antiguo Testamento y los 27 libros del Nuevo Testamento, … Read more

에베소서와 예정론 – 장재형(장다윗)목사

1. 구약과 신약 배열의 의미, 그리고 복음서와 율법의 상관성 성경의 배열을 이해하는 일은 우리가 말씀을 대할 때에 굉장히 중요하다. 구약 39권과 신약 27권이라는 큰 틀 안에서, 전통적배열을 통해 하나님의 구속사가 어떤 흐름으로 전개되는지를 살피는 것은, 성도들에게 깊은 인사이트를 제공한다. 구약은 흔히1)오경(모세오경), 2)역사서, 3)지혜서, 4)예언서로 구분되어 배열되고, 신약 역시 1)복음서, 2)사도행전(역사서), 3)교리서(서신서들), 4)계시록(예언서)의 구도에 따라 편찬되어 있다. 이와 같은 구조가 보여 주듯, 기독교 신앙의 핵심은구약과 신약이 유기적으로 연결된 한 권의 책으로서 우리에게 전해졌다는 점이다. 가령, 구약의 모세오경(창세기, 출애굽기, 레위기, 민수기, 신명기)은 이스라엘 백성에게 주어진 율법과 언약의 뿌리를 보여준다. “내 눈을 열어서 주의 법의 기이한 것을 보게 하소서”(시편 119:18)라고 시편 기자는 고백했는데, 여기서 ‘법’이라 함은하나님의 말씀이며, 그 법을 붙들어야만 하나님의 거룩하심에 참여할 수 있음을 강조한다. 이는 신약에서도 마찬가지다. 신약의첫 단락인 복음서는 예수 그리스도의 행적, 가르침, 십자가와 부활을 통해 ‘보이는 법’으로서의 예수님을 우리 눈앞에 드러낸다. 예수님이 “말씀이 육신이 되어” 오신(요한복음 1:14) 그 현실 자체가, 신약의 율법이 곧 예수 그리스도임을 가시적으로 보여주는 것이다. 장재형(장다윗)목사가 강조하는 바도 이 점과 밀접하다. 그는 신약을 구약의 연속으로 바라보되, 율법을 단순히 규범이나 명령의집합으로 보지 않고, 예수 그리스도 안에서 완성된 하나님의 사랑과 구원의 도구로 해석한다. “예수는 우리의 법입니다”라는말은, 이미 구약에서 제시된 ‘법’의 궁극적 완성을 예수님이 이루셨음을 의미한다. 그렇기에 복음서는 율법을 신약적 맥락에서새롭게 조명하며, 우리가 예수를 통해 하나님의 뜻을 배우고, 예수님이 곧 거룩의 기준이자 본보기라는 사실을 재발견하도록이끈다. 그다음 나오는 사도행전은 마치 구약의 역사서처럼, 초대교회가 어떻게 탄생하고 확장되었는지를 상세하게 보여 준다. 교회는그리스도의 핏값으로 세워졌고, 성령의 능력으로 이어졌다. 예루살렘에서 시작된 복음이 사마리아와 온 이방 세계로퍼져나가는 과정은, 신약의 역사서인 사도행전 속에서 생생하게 묘사된다. 구약의 역사서가 이스라엘 백성의 광야 생활과가나안 정착, 왕정 시대와 포로기, 그리고 귀환의 역사 등을 기록한 것처럼, 신약의 역사서는 곧 그리스도께서 승천하신 뒤제자들과 사도들을 통해 이루어진 “복음의 확장 서사”를 전해 준다. 이러한 부분을 통해 우리는 역사가 단순히 과거 사실의기록이 아니라, 하나님의 구원 계획이 구체적으로 펼쳐지는 무대라는 사실을 깨닫게 된다. 사도행전 다음에 위치한 교리서(서신서들)는 구약의 지혜서에 해당한다고 볼 수 있다. 물론 지혜서에는 시편, 잠언, 전도서, 아가, 욥기 등이 포함되어, 개인의 경건생활과 삶 속 지혜, 그리고 고난과의 씨름을 다루지만, 신약 교리서들은 이 교회라는‘공동체’가 신앙 안에서 성숙해 가는 과정을 일목요연하게 정리한다. 바울을 비롯한 사도들은 예수 그리스도의 복음이 진정무엇인지, 그 복음에 담긴 핵심 교리가 무엇인지를 다양한 편지 형식으로 증거하였다. 로마서, 고린도전후서, 갈라디아서, 에베소서, 빌립보서, 골로새서 등은 각 교회가 처한 상황에 따라 세부적인 주제와 적용점을 달리하지만, 근본적으로는 복음의정체성을 분명히 하여 신자들로 하여금 흔들리지 않는 신앙 기초를 다지게 하는 데 목적이 있다. 장재형목사 역시 “교리(doctrine)는 복음의 진수이자 핵심이며, 교회를 든든히 세우는 토대”라고 강조해 왔다. 교리는 결코교회 내부의 지적 탐구만을 위해 존재하는 것이 아니라, 신앙 공동체가 세상 속에서 복음을 전파하고, 자신이 받은 구원을확신하며 살아가는 데 필요한 앵커(anchor) 역할을 한다. 교리가 견고해야 신앙이 흔들리지 않고, 신앙이 굳건해야 전도의열매도 맺을 수 있다는 것이, 전통적 개신교 신학자들의 공통된 견해이며, 장재형목사도 이 점을 다양한 강론과 저술로써부각해 왔다. 특히 로마서는 복음을 체계적으로 설명하는 서신서 중 으뜸으로 꼽힌다. “의인은 믿음으로 살리라”는 구호가 바울 신학의정수를 담고 있으며, 유대인과 이방인 간의 갈등을 극복하는 하나님의 구원 계획이 어떻게 이루어지는지 심도 있게 다룬다. 이에 반해 고린도전후서는 실제 교회 공동체 안에서 불거진 여러 문제(분쟁, 음행, 혼란스러운 예배, 은사 남용 등)에 대한구체적인 해답을 제시하는 서신이다. 갈라디아서는 율법주의에 빠지려는 갈라디아 교회에게, “은혜로 말미암는 믿음”이 우리의의를 결정짓는 핵심이라 선언한다. 이런 일련의 교리서들은 각각의 역사적·문화적 맥락 속에서도 동일한 복음의 본질을선포하고 있으므로, 오늘날 교회 역시 이 서신서를 통해 시공간을 초월한 하나님의 가르침을 배우고 적용해야 한다. 여기서 장재형목사가 언급하는 “5대 교리서”는 (1) 로마서, (2) 고린도전서, (3) 고린도후서, (4) 갈라디아서, (5) 에베소서를말하며, 유대인을 대상으로 한 ‘히브리서’ 역시 중요한 교리서로 취급된다. 고린도전후서를 하나로 묶으면 히브리서를 포함하여5대 교리서로 볼 수 있고, 고린도전후서를 따로 분리하면 에베소서까지 포함해 5대 교리서로 인식할 수 있다는 설명을 통해, 교리서가 한두 권이 아니라 매우 폭넓은 신학적 스펙트럼을 포괄함도 확인할 수 있다. 결국, 구약과 신약의 구조는 분리되지 않고 서로 연속성을 가지고 있으며, 복음서(예수 그리스도), 사도행전(교회의 역사), 교리서(신학적 토대), 그리고 계시록(종말과 완성)의 순서가 우리로 하여금 점진적으로 하나님의 구원 경륜을 배워 가도록안내한다. 이는 신앙인들이 성경 전체를 올바로 읽는 토대이며, 동시에 교회의 신앙고백이 예수 그리스도의 십자가와 부활, 그리고 주님의 재림을 통해 완전해지는 과정을 조명한다. 2. 교회의 탄생, 교리서의 본질, 그리고 사도들의 계시적 통찰 구약의 역사서가 이스라엘 민족의 형성과 영적 투쟁, 승리와 좌절의 기록이라면, 신약의 역사서인 사도행전은 예수님의 승천이후 형성된 초대교회의 ‘탄생기’를 다룬다. 사도행전 속 교회는 단순히 인위적인 조직이 아니라, 성령의 능력으로 인침받고그리스도의 구속을 믿음으로 고백하는 자들의 모임으로서 모습을 드러낸다. 이렇듯 교회는 “그리스도의 핏값으로 구속받은자들의 공동체”이고, 동시에 “하나님 나라 확장의 거점”이 되는 곳이다. 이 교회가 세계 곳곳으로 확장되어 가면서 복음이어떻게 전파되었는지, 바울을 비롯한 여러 사도들의 선교 여정과 그 과정에서 맞닥뜨린 박해와 갈등은 곧 기독교 역사의 시원이된다. 이 과정에서 사도행전 이후 배열된 신약 서신서들은, 교회 공동체가 현실 속에서 맞닥뜨리는 여러 문제에 대한 해설서이자해결서 역할을 담당한다. 바울, 베드로, 야고보, 요한, 유다 등 사도들과 초대 지도자들은 각자 서신 형태로 복음의 핵심 교리를풀어내며, 구체적인 상황에 맞춰 조언하고 권면했다. 요컨대, 복음이 “무엇인지”를 설명하는 데 그치지 않고, “그 복음을 어떻게실천할 것인가”로까지 나아가게 하는 것이다. 이렇게 교회는 끊임없이 복음을 해석하고 적용해야 했고, 그 결과 만들어진 신약 교리서들은 지금까지도 성도들의 영적 성장과신앙생활에 필수적인 지침이 되고 있다. 바울이 “베드로사도가 말한 것처럼 너희 속에 있는 소망에 관한 이유를 묻는 자들에게대답할 것을 항상 예비하라”(벧전 3:15)는 구절을 인용하며, 교리의 중요성을 강조하는 것도 같은 맥락이다. 우리가 믿는 복음, 곧 그리스도의 십자가와 부활로 나타난 구원의 역사적·초월적 의미가 무엇인지 파악하지 못하면, 실제 삶에서 복음을증거하기가 쉽지 않다. 서신서 저자들의 공통된 특징은, ‘계시의 빛’ 안에서 복음을 통찰했다는 점이다. 장재형목사 역시 “사도들은 주님의 계시를 번개치듯 단번에 보고, 그 놀라운 진리를 우리에게 전했다”고 자주 강조한다. 번개가 한순간 모든 주변을 밝히듯, 사도들도 예수그리스도의 사건을 통해 하나님의 구속 계획을 단숨에 깨달았고, 그 깨달음을 서신으로 풀어냈다는 의미다. 로마서나고린도전후서, 갈라디아서 등에서 발견되는 치밀하고 조직적인 신학적 구성이, 결코 인간의 이성적 사유만으로는 요약하기힘든, 초자연적 통찰의 결과라고 보는 전통적 기독교 입장과 상응한다. 또한 고린도전후서가 한 교회(고린도교회)에 보내진 편지이지만, 내용은 교회의 공적 문제에서 사적인 문제까지 아우르며, 심지어 바울 개인의 고백적 요소까지 포괄한다는 점은 흥미롭다. 교리서들은 ‘편지’라는 형식을 띠고 있지만, 그 안에 담긴‘복음의 원리’는 지극히 보편적이고 시대를 초월한다. 바울이 스스로 복음에 대해 ‘나의 복음’이라 칭하는 것은, 그가 예수그리스도의 십자가와 부활을 전적으로 자기 안에 받아들여 개인화했음을 의미한다. 한편 독자들은 그가 편지로 전해 주는‘교리’와 ‘신앙 지침’을 자신의 삶에 적용해, 결국 같은 복음을 살아내는 길을 배우게 된다. 그리고, 히브리서가 유대인 신자들을 위해 기록된 ‘특수한 교리서’라는 점에도 주목할 필요가 있다. 유대인들은 오랜 전통안에서 ‘천사’와 ‘율법’을 높이 여기며, 구약 제사 제도를 매우 중요시한다. 히브리서는 바로 이런 유대인 신자들에게 예수그리스도가 어떻게 율법과 제사 제도를 완성하는 분이신지 체계적으로 설명해 주는 서신이다. “너희가 천사보다 더 귀한존재”라는 선언(히브리서 1장)에서 시작하여, 예수님이야말로 완전한 대제사장이자 더 나은 언약의 중보자이심을 조목조목밝힌다. 이는 곧 구약의 연장선에서, 예수 그리스도가 모든 제사 제도의 목표이자 절정임을 드러내는 증거다. 이렇듯 교회의 태동과 교리 형성 과정은 본질적으로 구속사를 기록하고 실천하는 공동체의 자리매김 과정이었다. 로마 제국치하, 다신론과 황제 숭배가 가득한 환경에서 기독교 공동체는 오직 예수 그리스도의 주되심을 외치며 박해를 견뎠다. 바울이에베소에서 당한 박해와 논쟁, 선교적 승리의 과정 역시 사도행전 19장에 잘 나타나 있듯이, 당대 문화적·종교적 충돌이 매우심각했다. 에베소는 아르테미스(디아나) 신전으로 대표되는 거대한 우상 숭배의 중심지이자, 로마·알렉산드리아·안디옥과 함께4대 도시 중 하나로 손꼽힐 만큼 번화했다. 그곳에서 바울이 3년간 “겸손과 눈물로” 목회하며 이룬 복음의 열매는, 이후 아시아지역의 교회들이 든든히 세워지는 기틀이 되었다. 여기서 장재형목사가 부각시키는 중요한 포인트는, 교회가 ‘공동체적 회람 서신’을 통해 말씀을 나누고 교리로 무장해야 한다는점이다. 당시 에베소서나 갈라디아서, 빌레몬서와 같은 서신은 특정 수신자가 있었지만, 초대교회는 이것을 회람하며 여러 지역교회가 함께 읽고 묵상하는 전통을 세웠다. 이런 공적 회람 과정을 통해, 교회가 교회의 울타리를 넘어 서로 교제하고 교리적일치를 이루게 되는 것이다. 갈라디아서가 여러 ‘갈라디아 교회들’에 돌려 읽힌 사실은, 이 편지들이 한 교회의 전유물이 아니라신앙 공동체 전체에 필요한 가르침이었음을 방증한다. 결국 교회는 성숙의 단계로 나아갈수록, 더 깊은 진리를 깨닫고자 교리서에 몰입하게 된다. 이는 신자 개인이 신앙의 근본을살피는 일과도 맞닿아 있다. 예수 그리스도가 나의 구원자이심을 머리로만 아는 것이 아니라, 사도들이 전한 계시적 빛과교리적 체계를 통해 가슴으로, 생활 속으로 내면화해 가는 과정이 곧 신앙 성숙이다. 3. 에베소서에 담긴 예정론의 핵심과 장재형목사의 주석적 통찰 이제 에베소서를 본격적으로 살펴보자. 에베소는 당시 로마 제국 내에서도 손꼽히는 거대한 도시였다. 로마, 알렉산드리아, 안디옥과 함께 4대 도시 중 하나였으며, 헬라·로마 신화에서 숭배되는 각종 신전과 황제 숭배 사상이 혼재한 지역적 특성을지니고 있었다. 이곳에 교회가 세워졌다는 사실만으로도 복음 전파에 있어 매우 중요한 전환점이 마련되었다고 볼 수 있다. 바울이 에베소에서 무려 3년간 사역하며 “겸손과 눈물”로 교회를 돌보았다는 기록(행 20:18-19, 31)은, 이 교회가 얼마나 바울사역의 중심축이 되었는지를 잘 보여 준다. 장재형목사는 에베소서가 “성숙한 교회가 읽어야 할 편지”라는 점을 강조한다. 그 이유 중 하나는, 에베소서가 교회의 정체성과하나 됨, 그리고 신앙의 높은 수준에서 다루는 여러 주제(그리스도 안에서의 예정, 유대인과 이방인의 하나 됨, 교회가 성령안에서 세워져 가는 원리 등)를 포괄적으로 다루기 때문이다. 다른 서신이 교회 문제 해결 혹은 교리 해설에 집중한다면, 에베소서는 좀 더 보편적이고 우주적인 시각에서 교회를 설명한다. “하늘에 속한 모든 신령한 복”(엡 1:3)으로 시작되는 1장의서술에서부터, 우리의 영적 실재가 단순히 지상의 법칙이나 욕망에 매이지 않고, 그리스도 안에서 이미 확정된 승리의 세계에연결되어 있음을 선포한다. 이 에베소서 1장 1~14절은 특별히 “예정(Predestination)”의 개념을 두드러지게 다룬다. 장재형목사는 ‘Predestination’을‘Pre(미리) + Destination(목적지)’라는 말로 풀이하면서, 하나님께서 인류 구원을 미리 정하셨다는 점을 부각한다. 인간은공항에 가면 자신의 목적지를 확인하고 항공권을 구해 탑승하듯이, 신앙 안에서도 “우리가 어디로 가는지” 그 목적지를 확실히알아야 한다는 것이다. 이 확실한 목적지가 바로 “하나님이 우리를 예정하셔서 그분의 자녀가 되게 하신다”는 진리에 있으며, 이를 붙드는 자들은 흔들림 없이 신앙을 지켜 나가게 된다는 통찰을 제공한다. 실제로 에베소서 1장 314절을 세 단락(36절, 712절, 1314절)으로 나눠 보면, 각각 “찬송해야 할 이유”가 제시된다. 첫 번째단락(3~6절)은 “우리 주 예수 그리스도의 아버지께서 그리스도 안에서 하늘에 속한 모든 신령한 복으로 우리를 복 주셨다”라는선언으로 시작한다(엡 1:3). 그리고 이어지는 1장 4절에서 “창세 전에 그리스도 안에서 우리를 택하사”라고 하여, ‘창세전’이라는 말로 그 예정의 시점을 분명히 밝힌다. 이것은 개인의 삶이 우연에 의해 결정되는 것이 아니라, 영원 전부터 존재하신하나님의 의지와 계획 안에 놓여 있다는 의미다. 이는 부부가 결혼을 통해 만나는 것도 단순히 둘의 사랑만이 아니라, 그 사랑 이전에 이미 하나님이 정해 놓으신‘천생연분(天生緣分)’이 있다는 예화로 비유되곤 한다. 장재형목사가 결혼식 주례나 신가예배(信家禮拜) 등에서 자주 인용하는잠언 16장 1절, 9절은 인간의 경영과 하나님의 인도하심의 관계를 분명히 그려 준다. 사람이 마음으로 자기 길을 계획하되, 그걸음을 인도하시는 분은 여호와시라는 사실은, 우리의 인생이 하나님의 예정하심 속에서 이뤄지는 거룩한 여정임을 암시한다. 이처럼 예정론은 결혼뿐 아니라 인생 전반의 모든 국면에서도, 신앙인이 반드시 붙들어야 할 핵심 진리로 자리 잡는다. 또한 에베소서 1장 5절은 “그 기쁘신 뜻대로 우리를 예정하사 예수 그리스도로 말미암아 자기의 아들들이 되게 하셨으니”라고말한다. 이 구절은 종(노예)이었던 자가 ‘양자(입양된 아들)’의 신분을 얻는 파격적 은혜를 설명한다. 로마 제국 시대에 종이양자가 되면, 법적으로 친아들과 동등한 권리를 행사할 수 있었다. 이는 “하나님과 인간” 사이에 새로운 관계가 맺어졌다는상징이다. 전지전능하신 창조주 하나님을 주인으로 모시고 살던 인간이, 이제 그분의 자녀라는 더 놀라운 신분으로인정받는다는 사실은, 교회의 구성원들이 왜 찬양하며 기뻐해야 하는지를 극명히 보여 준다. 이어서 두 번째 단락(7~12절)은, 우리가 예수 그리스도의 피로 죄 사함을 받았음을 선언하며(엡 1:7) “이는 그의 은혜의풍성함을 따라 된 것”임을 강조한다. 풍성함이라는 단어는, 복음이 우리의 공로나 선행으로 얻어지는 것이 아니라, 하나님의넘치는 사랑과 은혜에서 비롯되었다는 점을 부각한다. 더 나아가 하나님의 뜻의 비밀이 ‘그리스도 안에서 때가 찬 경륜을 위해예정하신 것’(엡 1:9)이라고 밝히면서, 역사가 우연히 흘러가는 것이 아니라 궁극적으로 ‘그리스도 안에서 통일되게 하려 함’(엡1:10)임을 가르친다. 이것은 구속사의 거시적 시야를 제공하는 본문으로서, 세상의 소란과 혼돈, 그리고 인간의 죄에도불구하고 최종적으로 하나님 나라가 완성될 것을 예언한다. 세 번째 단락(13~14절)은 ‘성령의 인치심’을 통해 우리가 그 약속의 기업에 참여하게 되었고, 그 성령이 우리의 기업에 대한‘보증’이 되신다는 선언으로 마무리된다. 보증(헬라어로 ἀρραβών, … Read more