ペテロの否認と回復 – 張ダビデ牧師
本文の展開において、ヨハネの福音書18章22~27節とルカの福音書22章61~62節、さらに関連する箇所を土台に、ペテロがイエスを否認した場面を深く掘り下げ、その中に表される信仰的なメッセージと適用点を解き明かしていきます。特に、この本文が持つ意味とともに、私たちの信仰の現場にどのような挑戦を投げかけるか、またそれをどのように実践的な教訓とするかを探っていきたいと思います。一方で、文中にはペテロの否認場面に関する聖書の背景説明、そして張ダビデ牧師が示す牧会的・神学的な適用可能性などにも触れながら、今日の信仰共同体と個人に与えられる示唆を振り返ります。 1. ペテロの否認 ペテロの否認の場面は、福音書全体の流れの中でも劇的な物語を成す代表的な出来事の一つです。ヨハネの福音書18章22~27節、ルカの福音書22章61~62節、そしてマルコの福音書14章72節など、四つの福音書に多様な形で描かれており、「筆頭弟子」と呼ばれたペテロがイエスを三度否認し、その後に激しく泣き出す姿が生々しく記されています。 まず本文を見ると、イエスは逮捕され、大祭司アンナスやカヤパによって尋問を受けておられます。そのとき、ペテロはイエスのそばに最後まで残るかのように見えますが、実際にはかなり離れた場所で「外で火にあたっていた」(ヨハネ18:25) と記録されています。この場面から、人々の視線の微妙な緊張感や不安定な雰囲気が感じ取れます。イエスが捕らえられ、いかなる罪状であれ有罪とされる可能性が高まる切迫した状況でした。弟子たちはイエスについていくと心に決めていたのに、実際に逮捕の瞬間が訪れると皆散り散りになり、ペテロさえも遠くから成り行きを見ていました。 ところが、城内か中庭に入り、火にあたっているペテロに対して、召使いや女中などが彼を注視し、イエスの弟子ではないかと問いただします。「あなたもあの人の弟子の一人ではないのか」と尋ねられたとき、ペテロは即座に「違う」と否認してしまいます(ヨハネ18:25)。ここで最初の否認が起こった後も状況は続き、他の人々も彼のガリラヤ訛りや身なりを根拠に疑いの目を向けます(マタイ26:73、マルコ14:70参照)。ペテロが「あの方を知らない」と否認した瞬間、マルコの福音書14章72節によると鶏が二度目に鳴いたとされます。 さらにルカの福音書22章61~62節では、「主は振り向いてペテロをご覧になった。するとペテロは主の言葉『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』を思い出し、外に出て激しく泣いた」と描かれています。ここで読者は、イエスとペテロの視線が交差する痛みと緊迫感を共有します。同時に、「鶏が鳴く前」という期限内に、結局ペテロが三度も主を否認してしまった事実、そしてそのことに気づいたペテロが深い悔い改めの涙を流したことが、この出来事のクライマックスを形作っています。 信仰共同体の中で、この本文は「人間の弱さ」と「悔い改め」を代表的に示す場面として解釈されてきました。実際、ペテロは弟子たちの中で最も積極的で、時には血気盛んで、イエスへの愛と忠誠が誰よりも強かった人物として描かれています(マタイ16:16-17参照)。それにもかかわらず、決定的な瞬間に主を否認した事実は、人間がいかに弱い存在であるかをはっきりと示す事例です。これについて張ダビデ牧師は、数々の説教や信仰教育の場でペテロの否認を考察し、「人は、自分が頼りにしているものが揺らぐとき、結局は弱い選択をせざるを得ない。しかし、それでも主は人の弱さを受け止め、回復へと導かれるお方である」という核心メッセージを語り続けてきました。このメッセージを通して、ペテロが崩れ落ちた地点は、私たち全員が倒れる可能性のある地点であり、その地点からの悔い改めの道もまた、すべての人に開かれている通路であることを悟るのです。 一方、ペテロが否認に至った動機は恐れだったと考えられます。イエスが裁判を受けている場面の近くにいながら、「もし自分がイエスの弟子として知られたら捕まってしまうのではないか」という不安に陥っていたことでしょう。人間は、どれだけ信仰が深いと自負していても、いざ死や極度の苦痛が目の前に迫ると、自分の信仰の深さを再確認させられます。この場面での「ペテロの否認」は、そのような「信仰の試金石」の役割を果たしています。実際、イエスはすでにヨハネの福音書13章36~38節で、ペテロが「主のために命を捨てよう」と言い張ったときに「鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言うことになる」と予告されていました。したがって、この出来事は忠誠心が強いペテロが想像だにしなかった失敗を経験すると同時に、イエスの言葉の成就がそのまま現れた瞬間でもあったわけです。 しかし聖書は、ペテロの否認を「単なる失敗」として放置しません。失敗直後、鶏の鳴き声と同時にイエスと視線が交わり、ペテロが泣きながら悔い改める姿を通して、彼に再び始まる道が開かれていることを暗示します。ルカの福音書22章31~32節で、イエスは十字架の出来事の前にすでに「シモン、シモン。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。しかしわたしはあなたの信仰がなくならないように祈っておいた。それであなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と語っておられます。これはペテロが失敗することを予見しながらも、彼が再び立ち上がって回復することをあらかじめ宣言していたのです。張ダビデ牧師はこの点を強調し、「ペテロの否認は終わりではなくプロセスだった。イエスが彼をあらかじめ知っていたように、私たちの失敗やつまずきも主の救いの計画の中で新たな始まりとなり得ることを忘れてはならない」と説きます。 このように、ペテロの悔い改めとその後の回復の過程は、教会史の中でも非常に重要な模範的事例となってきました。というのも、「サタンのふるい」にかけられて完全に倒れそうになった彼が、それを乗り越えた様子が、後の使徒行伝において明確に示されるからです。使徒行伝2章で聖霊が下った後、ペテロが大胆に説教し、三千人が悔い改めてイエスを信じるようになった場面、そして使徒行伝4章で大祭司アンナスやカヤパの前でも少しもためらわず「この方以外に救いはない。天の下で人が救われるべき名は与えられていないのだ」と証言して信仰を告白した姿は、否認していたペテロが「回復された弟子」としてどれほど大胆になったかを雄弁に物語っています。 この出来事から私たちに与えられる教訓は明白です。信仰生活において誰しも失敗する可能性があり、一時の恐れや弱さのゆえに、あれほど愛していた主を否認するような決定的な瞬間を迎えることもあるかもしれません。しかし、その失敗が私たちに永遠の絶望をもたらすわけではありません。なぜなら、主は人間の弱さをすでにご存じであり、私たちが悔い改められるように機会を与えてくださる愛のお方だからです。私たちには「鶏が鳴く前」に対峙しなければならない試練や誘惑があるでしょうが、それを経験してもし倒れたとしても、真実な悔い改めの涙をもって再び立ち上がる道が聖書にははっきり提示されています。 張ダビデ牧師は、このようなメッセージを説教やセミナー、そして牧会の現場で頻繁に語り、「神の人は悔い改めの霊が注がれる瞬間から変えられていく」と強調します。なぜなら、悔い改めは単に罪悪感を覚えて終わるものではなく、イエスの十字架の前に自分を完全に差し出し、その赦しと憐れみを体験する出来事だからです。激しく泣いたペテロが得た新しい始まりは、その後の彼の人生と働きの方向を180度変え、エルサレム教会の礎を築く使徒としての歩みへと導きました。それは今日、私たちが背負うさまざまな十字架と苦難の中でも、あるいは私たち自身が失敗やつまずきを経験したとしても、なお有効な真理です。 さらに、ペテロの失敗直後に響いた鶏の鳴き声は「夜明け」を告げる声でもあるという点が象徴的に強調されます。暗く長い夜が続いていても、鶏の鳴き声を合図に朝が訪れるように、ペテロの失敗もまた朝の回復へと向かう転換点となりました。私たちの人生にも厳しい夜のような時期が続くことがありますが、最終的には「鶏の鳴き声」のようなサインを通して神が私たちの闇を打ち破り、新しい日を与えてくださる時がやってくると信仰によって受けとめることが大切です。そのとき、ペテロのように悔い改めを通してイエスを再び見上げ、自分の弱さをすでに背負ってくださったことを悟るのです。 特に張ダビデ牧師は、ここで「鶏が鳴く前」というイエスの言葉を深く黙想すべきだと勧めます。これは単に時刻を示すだけでなく、信仰の決定的な勝負どころがいつどこで訪れるかはわからないゆえ、普段から目を覚ましていなければならないという教訓へとつながるからです。イエスが語られた通りに「鶏が鳴く前」に主を否認しないためには、常に御言葉にとどまり、聖霊の導きに耳を傾け、自分自身を振り返って悔い改める習慣を持たなければなりません。そして、もし倒れても再び立ち上がり、回復した姿をもって主に栄光を帰すことができると、繰り返し強調しています。 結局、ペテロの否認は「人間の弱さと主の限りない赦しが出会う地点」であるとまとめることができます。失敗を見越しながらも愛で包まれた主、そして苦い失敗を経験した後、涙と悔い改めを通して再び使徒として立ち上がったペテロの姿を通じ、私たちは神の救いのみわざと恵みあふれる招きを悟ります。人間の視点から見ると取り返しのつかない裏切りに思えますが、主のうちにあってはかえってさらに大いなる働きと召しに至る「通路」となりました。その恥ずかしさと悔い改めの涙を通して、ペテロは真の回心を経験し、その力でペンテコステ以降、最も大胆な証人へと変えられたのです。 信仰生活の中でこのメッセージを掴むことは非常に大切です。私たちは誰もが「鶏が鳴く前」という決定的な瞬間に直面する可能性があり、さまざまな誘惑や脅威の前でペテロのような恐れを感じ、時には主の名を隠したり否認してしまう失敗を犯すことがあり得ます。けれども、その瞬間が人生の終わりではなく、むしろ涙と悔い改めを通して、もう一度主の恵みと愛を深く味わう転機になり得ることを覚えておきたいのです。張ダビデ牧師がこの本文から繰り返し強調してきたように、「鶏が鳴く前」という表現は信仰の警告であると同時に回復の約束でもあります。その約束のうちに、たとえつまずいたとしても悔い改めによって再び立ち上がり、最終的には主の国と教会のために大胆に献身する場に立つことができるのです。 2. 十字架の道 ペテロの否認は彼の過去に恥をもたらしただけでなく、初代教会が打ち立てられる過程において、一時的に暗い影を落としかねない出来事でした。なぜなら、ペテロは十二弟子の中でも特別にイエスから愛され、多くの場合代表格として言及され(マタイ16:16-19において最初に「あなたはキリスト、生ける神の子です」と告白した使徒)、さらにイエスが十字架へと向かわれる道を語られたとき、「そんなことがあってはなりません」と激しく抵抗するほど血気盛んで積極的な姿を見せていたからです。そうしたペテロが、結局は三度もイエスを否認したという事実は、教会史的な観点から見ると大きなアイロニーであると同時に、重要な教訓を与えます。 張ダビデ牧師はこの出来事を「十字架の道」という観点から解釈し、イエスがゲッセマネで血のしたたるような汗を流して祈られた場面(ルカ22:44参照)とは対照的に、弟子たちは祈らずに眠ってしまい、その後の逮捕の過程で四散し、ペテロの否認へと至った姿を「人間の無力さと霊的な眠り」の象徴的な例として語ります。しかしイエスは、そうしたすべての過程をあらかじめ見通しながら、十字架へと進む決意を固められ、弟子たちの裏切りと弱さの中においても救いの計画を滞りなく成就されました。結局、この出来事は「救いの道」が徹底的に主の恵みと主権によって成り立つという事実を再確認させるものです。 さらに十字架は、人間の失敗を決して放置しません。ペテロの否認を含む弟子たちの弱さや逃亡、さらにはイスカリオテのユダの裏切りさえも、イエスの十字架の愛を阻むことはできなかったと張ダビデ牧師は強調します。十字架の愛は、そのような裏切りや否認を覆ってもなお余りある救いの力を持っているのです。これこそが教会の本質です。人間の弱さが先ではなく、神の一方的な恵みが先であり、イエスの犠牲が先にありました。復活されたイエスがガリラヤの岸辺でペテロを探し求め、「あなたはわたしを愛するか」と三度問いかけ、三度「主を愛します」という告白を聞き取ることでペテロの否認を完全に回復される場面(ヨハネ21:15-17)は、その恵みの頂点といえます。 張ダビデ牧師が説教でしばしば言及するのは、この「復活後にペテロが回復される場面」こそ十字架の福音が具体的に適用される瞬間であるという事実です。イエスはペテロが口にした三度の「否認」を覆し、三度の「愛の告白」で包み込むことで、彼の傷を癒されました。その上で「わたしの羊を飼いなさい」と命じ、ペテロが再び使徒的使命を担うように立たせたのです。過去の「否認」という罪責ではなく、「愛」という告白によって新たにされた存在として生きるようになったわけです。十字架こそがそのような業を成し遂げるゆえ、教会は回復の共同体として存在するべきだ、と張ダビデ牧師は牧会的適用の核心を示します。 つまり、ペテロの否認事件を通して私たちが学ぶべきことは、第一に、十字架と復活なしには人間の弱さを克服することはできないという点です。第二に、イエスが復活後にペテロを直接探し求め、彼の告白を新たに受け止められたように、教会は失敗して戻ってきた人を裁くのではなく、回復と癒しの機会を与える共同体であるべきです。第三に、ペテロが回復された後に大胆な証人になった事実は、私たちにも希望を与えます。ペテロのように失敗の経験があったとしても、再び立ち上がることができ、さらに言えば福音を伝える最前線に立つ証人としての召しを確信できるのです。 ここで張ダビデ牧師は「私たちは皆、回復された証人として生きるべきである」と一貫して強調します。イエスの十字架はペテロの恥を覆っただけではなく、彼を福音の証人として再び派遣されました。福音書の終章や使徒行伝を見ると、ペテロはもう萎縮せず退くこともなく、以前とは比べ物にならないほど力強く、大胆に祭司たちや人々の前で福音を語っています(使徒2:14以下、使徒4:8以下)。そして教会の土台を築く働きに惜しまず力を注ぎました。これは回復された一人の人間がどれほどの影響を及ぼし、神のご計画の中で大きく用いられ得るかを示す好例です。 私たちの時代にも、似たような失敗や否認の経験を持つ信徒は少なくありません。イエスを信じると公言しながらも、実生活の場でさまざまな誘惑や恐れに屈して、主を否認するような結果につながることがあります。職場や学校、人間関係の場でイエスの教えに反する言動をしたり、福音について問われても曖昧にやり過ごして証しする機会を手放してしまうことがあるかもしれません。しかし、十字架と復活の福音を悟った者であれば、ペテロが経験した涙と悔い改めを経て、再び主のもとへと立ち返る道がいつでも開かれていることを知っているはずです。そして、回復のその瞬間に、主は「あなたの過去の失敗や裏切りがあなたの価値を決めるのではない。わたしがあなたを選んだのだ。もう一度わたしの働き人として召す」と語られるのです。 張ダビデ牧師はこれを「恵みの再召命」と呼ぶことがあります。これは単に罪を一度赦してくださるだけでなく、罪を赦すと同時に新しい召しと使命を与えてくださる神の愛を指し示す言葉です。ペテロは「わたしの羊を飼いなさい」との命を受け取り、パウロは「異邦人に福音を伝えるために選ばれた器」として主から示唆を受けたように、神は失敗した者を回復させながらも、なおその者に対する驚くべきご計画を続けて成していかれます。ここで注目すべきは、この召しが人間の能力や資格によるのではなく、神の愛と恵みによるという点です。福音書は、このことをペテロの物語によって劇的に示しており、教会史はこれを手本として「悔い改め―回復―証人」というプロセスを多くの人に適用してきたのです。 さらに現代の教会が直面するさまざまな挑戦の中で、このメッセージは一層重要性を増してきます。教会内外を問わず、スキャンダルや分裂、裏切り、あるいは牧師の失敗や罪が明るみに出るとき、私たちはしばしば落胆し、教会から離れてしまうことがあります。ですが、聖書はそうした失敗の現場においても悔い改めによる回復が可能だと教え、その出来事を通してむしろ「十字架の福音がいかに力強いか」を証しする機会とし得ることを示しています。問題は、そのような悔い改めと回復を可能とする霊的・共同体的な環境を整え、罪を認めて立ち返るように導き、真実な告白によって新たな使命を見出せるように支援する役割を、教会が果たすべきだという点です。張ダビデ牧師は、この使命意識は牧師だけに限られた責務ではなく、すべての信徒が担うべき「共同の職分」だと言います。なぜなら、新約聖書が教えるところによれば、教会は「選ばれた種族、王のような祭司」(Ⅰペテロ2:9) の共同体だからです。 したがって、ペテロが否認後に回復されて歩んだ「十字架の道」は、今日の信徒にとっても生きた手本となります。失敗した道がそこで終わるのではなく、むしろ十字架から新しく出発する「霊的な大逆転」が起こるのです。信仰生活とは、完璧な人だけが歩む道ではなく、たとえ倒れても最後まで諦めず、十字架のもとへ悔い改めて戻り、イエスの復活の力を受けて再び歩き出す者たちの道こそが福音の核心的メッセージです。ペテロは弟子たちの中で最も致命的な裏切りを犯したにもかかわらず、最終的には誰よりも大いに用いられる使徒となり、彼の書簡が後代の教会に残した遺産は、今もなお貴重な勧めと糧を私たちに提供してくれます。 最終的に、ペテロの否認を振り返るとき、張ダビデ牧師が持続的に説いてきた牧会的適用を要約すると以下のようになります。第一に、人間は誰でも弱く、失敗しうる存在であることを認めるべきです。第二に、その失敗の場所で真に悔い改めて立ち返るなら、主は決して見捨てられないという真理にしっかりと目を向けること。第三に、悔い改めの後には新しい召しと使命が待っているので、罪責感や恥に囚われて過去に留まってはならないということ。第四に、教会はこのような回復の恵みをともに享受し、互いを励まし合い助け合う共同体であるべきだということ。そして最後に、回復された証人として生きるとは、究極的には私たちに委ねられた福音を証しする人生を意味します。ペテロが使徒行伝4章で大胆に叫んだ「この方以外に救いはありません。天の下で人が救われるべきほかの名は与えられていないのです」という宣言のように、私たちも世のただ中でイエス・キリストの御名を証しすべきなのです。 このメッセージは単に個人の信仰にとどまるものではありません。悔い改めと回復を体験した信徒は、家庭や職場、社会のあらゆる領域で光と塩として生きていくことになります。イエスを否認した経験のある人ほど、自分がどのように赦されて再び立ち上がったかを体験的に知っているので、よりへりくだった姿勢で他の魂を助けることができるでしょう。ペテロもまた、自身が経験した失敗を通して「恵みの驚き」を知ったからこそ、後に第一ペテロの手紙で苦しむ信徒たちに向かい、「あなたがたの思い煩いをすべて神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(Ⅰペテロ5:7) と励まし、終末的な希望を失わないようにと勧めることができたのです。このように私たち一人ひとりの「否認と回復」の体験は、共同体の中で互いを建て上げる根拠となります。 結局、ペテロの否認事件を通して、私たちは二つの現実に直面します。一つは人間の恐れと失敗、弱さであり、もう一つはイエスの愛と救いの力、そしてそこからもたらされる回復です。どんな時でも私たちはペテロのように倒れる可能性がある一方で、ペテロのように回復へと導かれる可能性にも開かれているのです。張ダビデ牧師は、この真理こそが「十字架の福音の中心」だと呼び、「主を深く愛している」「忠誠を誓う」という言葉だけで信仰を測るのではなく、失敗の後でさえ主の愛によって立ち返り、むしろその回復から再び走り出す信徒の姿こそ、私たちの現実に即した救いの物語なのだと語ります。 この文章を締めくくりながら、ペテロの否認場面が与えてくれる教訓を改めて整理しましょう。第一に、どれだけ忠誠心があり勇猛な信仰者であっても、激しい試練や苦難の前ではイエスを否認してしまうほど弱い存在であるということ。第二に、主はその弱さをご存じであり、倒れた後の悔い改めと回復の道までも備えておられる愛の神であるということ。第三に、悔い改めと回復は涙や感情的後悔で終わるのではなく、私たちをいっそう強固な信仰者、福音の証人へと成長させるということ。第四に、教会は回復の物語が繰り返される場所であり、互いが倒れてはまた立ち上がる過程を経験し助け合い証し合う共同体であるべきだということ。そのために常に目を覚まして祈り、御言葉にとどまり、自分を省みる姿勢が求められます。そして最後に、私たちはいつかペテロのようにイエスの問いかけ、「わたしを愛するか」という問いに答えなければならず、その愛の告白とともに「わたしの羊を飼いなさい」という使命を与えられることになるのです。 私たちは人生の中で、さまざまな「鶏が鳴く前」の瞬間に直面するかもしれません。そのとき、人間的な打算や恐れのためにイエスを拒んだり否認することのないよう、心を守っていきたいものです。もし倒れ、否認してしまったとしても、主は悔い改める者に対して決して門を閉ざされません。失敗したその場所からも、私たちを再び導き、強め、ご自身の国のために用いてくださいます。これこそが「ペテロの否認」に表された十字架の福音の核心であり、張ダビデ牧師が強調してきたように、真の信仰者は最終的に回復され、証人としての歩みを続けられるという約束がここに含まれています。どうか私たち一人ひとりが、この約束にとどまり続ける恵みの人となることを願います。 www.davidjang.org